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1月17日―「うみねこのなく頃に」の個人的総括―


  「うみねこのなく頃に」の個人的総括

 「うみねこ」をクリアしたとき、うみねこにおける物語的意味を整理する必要に迫られました。というのも、うみねこが整理するに値する作品であると自分自身強く認識したからであり、整理することによってうみねこに対する評価を定めたいと思ったからです。(とくに、ひぐらしとの比較において)

 以下の文章は自分なりに「うみねこ」を振り返りつつ整理したものですが、主にうみねこのテーマについて述べられております。作者である竜騎士さんの「推理小説」に関する考えには触れておりません。というのも、私は推理小説に詳しくなく、そして「うみねこ」を語るうえで推理小説のあり方等に触れる必要性をそれほど感じないからです。
 うみねこの本質はむろん推理ゲームなどではなく、テーマ性を重視した児童文学である。絵本といってもよい。そのような認識を抱いていることをはじめに述べさせていただきつつ、早速本題に入っていきたいと思います。



うみねこのテーマについて


 現代はポストモダニズムの時代と言われております。簡単にいいますと、ポストモダニズムとは自文化中心主義からの脱却、価値観の多様性をみとめる相対主義的・多元化主義的思想潮流のことでしょうか。この世において絶対的真理は存在せず、真理は各地域、各文化、各個人において異なるものという考え方といえるかもしれません。
 このポストモダニズムの時代において、はたして人は真理や真実といかに付き合えばよいのか。これがうみねこの主題であったように思われます。

 うみねこの舞台は、「魔法」と「ミステリ」という対立する概念が並存する六軒島。右代宮(うしろみや)家の所有するこの小さな島は、あらゆる価値観が錯綜する現実世界を象徴する世界といえます。
 その世界のなかで、主人公バトラは自分の思想の正当性を疑っていませんでした。自分は正しい者であり、「ミステリ」という正しい価値観を有していると信じてやみませんでした。それはポストモダニズム以前の考え方ともいえるように思いますが、「真理はある、その真理は自分である」そのような魔女狩りを彷彿とさせる世界観を抱いていたのです。
 しかし、あるときバトラは、悪と思われた魔女にとどまらず、自分自身もまたかつて悪であったことに気づきます。そして自分の思想と価値観の絶対性が著しく損なわれたことを知ります。ここで彼はようやくポストモダニズムの思想を獲得するにいたるのです。

 さて、ゲーム序盤は「ミステリ」と「魔法」が互いの価値を否定しあう論戦によって物語が動いていきましたが、その議論の内容と無縁なところで、「ミステリか魔法か」という論戦に決着がつきます。すなわち、異なる価値観同士の共存という決着が生じたのです。
 それはやはり倫理的な問題であったのかもしれません。「悪」と思われていた魔女ベアトリーチェがかつて確かな善であり、善と思われていた自分がかつて確かな「悪」であったと知ることによって、バトラは相手の愛(少なくともその可能性)に気づき、その愛を尊重する決断をし、そうしてその存在と、その主張を認めるにいたるのです。
 また、このころ頻繁に繰り返されていた「愛がなければ視えない」というセリフが、バトラのこうした心境の変化を象徴的に表しているといえるでしょう。

 こうして価値観の多様性、真理の相対性に歩み寄りを示し、「ミステリ」と「魔法」が両立可能であることを認めるに至ったバトラでしたが、それでも1986年の10月4日から5日にかけて、六軒島でなんらかの事件が起きたことは変えようもない事実です。その日、その場所で、いったい何が起きたのか。

 ――真理や価値観は多様であるかもしれないが、実際に起きた「真実」はひとつではないか。

 多様な価値観を認め合うポストモダニズムの時代。しかし、実際に起きた出来事である「真実」は一つのはずです。が、その真実は本当にひとつなのか。
 そこで登場するのが、ふたり目の主人公エンジェです。エンジェは歴史的真実を黙して語らないバトラと決別し、自らその歴史的真実を探っていきます。そしてついに歴史的事実が一つではないこと、第二・第三の歴史的真実があることに気づくのです。すなわち私的真実とでもいうべき概念の可能性に、エンジェは気づくのです。

 バトラが認めるに至り、物語の最後、ついにエンジェの気づいた魔法とは、「ある事実を自分なりに解釈する自由」でした。先ほど述べた「私的真実」とでもいうべき概念の所有でした。
 彼らが言うには、「ある事実を自分なりに解釈する」とき、その解釈には論理の飛躍があってもよかった。自分に都合のよい思い込みでもよかった。それゆえ論理を超越した「魔法」とバトラたちは呼んだのですが、その魔法(私的真実)は彼らにとって歴史的真実と同等の、事実としての価値があったのです。

 作中では、歴史的真実を「赤き文字」で、私的真実を「黄金の文字」で記しておりましたが、黄金の文字が赤き文字を両断するシーンが随所にみられました。その際、おおむね赤き文字は人間の良心やアイデンティティを傷つけるものとして描かれ、黄金の文字は傷つけられた人間を救うように描かれていました。当然バトラは歴史的な真実すべてを否定したいのではなく、人間を中傷するすべての真実(私的真実を含む)を否定したかったのです。



黒き魔法と白き魔法


 真実はひとつではない。真実には歴史的な真実のほかに私的な真実がある。単なる解釈にすぎない私的真実は、しかし歴史的真実と同等の価値(事実性)をもち、同時に私的真実は人間の数ほどある。そしてまた、得てして人間を幸せにする役割を果たすのは、歴史的真実のほうではなく私的な真実のほうである。

 極めて抽象的ですが、最終的にバトラたちは上のような結論を得ます。が、私的真実を無条件に許容しているのかといえば、もちろんそうではありません。
 上記の結論を得るまでに、バトラたちは「魔法」、すなわち私的真実を用いた残虐な行為を何度も目撃し、体験していきます。私的真実の危険性を目のあたりにしていくのです。ダンテがかつて地獄をめぐったように、彼らもまた、私的真実を濫用する人間たちの罪にまみれた地獄めぐりをはじめます。
 ゲーム序盤で描かれた魔女ベアトリーチェの残虐な行為は、バトラをして人間の生命をもてあそぶ行為といわしめました。魔女ベアトリーチェは魔法で何度も人間を殺し、そのたびにバトラは怒りに駆られベアトリーチェを罵ります。
 彼女の残虐性は、自分の罪に気づこうとしないバトラへの復讐、あるいはその罪を思い出させようとするがゆえの残虐性でしたが、同時に、魔法(自分勝手な思い込み、私的真実)がいかにたやすく人間を傷つけるかを暗示する行為でもありました。

 魔法による残虐な行為は、小学4年生のマリアにおいてもみられます。母ローザに対する魔法をもちいたマリアの凄惨な復讐は、繰り返し描写されます。自分を虐待する「ママは有罪だ」と断じ、母であるローザを目を覆わんばかりの残虐な方法で殺していくのです。
 同じくマリアの魔法によって生み出された「さくたろう」(ぬいぐるみを擬人化した存在。さくたろうのぬいぐるみを、「生きたぬいぐるみ」とマリアは解釈した)は、マリアの良心を象徴する存在であるように思われます。
 さくたろうはマリアの残虐な魔法を咎め、かつて母を純粋に信じていたマリアに戻るように言います。かつて純粋に母を信じたときのように、もう一度母を信じるように言うのです。
 マリアは、たとえば自分を蔑ろにする母の言動を見聞きしたとき、「もしかして、ママは自分のことが嫌いなのではないか」と母を疑いはじめます。が、さくたろうは、その事実に対して別の解釈をおこなうようマリアに提言します。すなわち、私的真実(魔法)の再構成を要求するのです。

 作中において、魔法は、「白き魔法」と「黒き魔法」で区別されていました。作品のなかでは、魔法のなかでも「白き魔法」を使うよう明確に指示されます。また「黒き魔法」は忌避すべき魔法であると繰り返し教えられます。
 すなわち、私的真実は人間を幸福にする場合に限り価値を有すると、マリアやベアトリーチェ(序盤における)、そしてプレイヤーである読者に繰り返し注意を喚起するのです。
 この注釈は、私的真実が歴史的真実と同等の価値をもつという主張を展開するうえで、とくに必要なものであるといえるかもしれません。作中では主にエピソード4、エンジェが身を呈してバトラに奮起を促すエピソードで語られていたものであるように思います。
 このころ、バトラはすでに魔法を認めつつありました。優しくあたたかな魔法(白き魔法)をみせられたバトラは、魔法の意義に気づきはじめていたのです。が、そのバトラの歩み寄りを拒絶するように、ふたたび魔法の残虐性(黒き魔法)があらわになります。無垢なマリアが魔法によって凄惨な殺人を行っていくのを見せつけられるのです。
 結果的に、バトラはこの注釈の意味に気づき、ベアトリーチェのあらゆる行為に愛を見いだし、その愛ある理解によって歴史的真実にたどり着きましたが、いっぽうエンジェはそうではありませんでした。エピソード4において、エンジェは、マリアの生き方を通して私的真実の価値、魔法の価値に気づきました。しかし、バトラが私的真実と歴史的真実の双方を知ることができたのに対し、エンジェは私的真実の有用性をしか知ることができなかったのです。
 そのため、エンジェは一度勝ち得た私的真実を放棄し、エピソード8において歴史的真実を探しはじめるようになります。そうして最後、ようやく双方を知り得た彼女は、あらためて「魔法」を選びとるのです。


ひぐらしとの相違点

 前作ひぐらしと今作うみねこの違いは、ひぐらしが「存在」を通して人間の善性を描写したのに対し、うみねこは「認識」を通して人間の善性を語ったところであるように思われます。
 ひぐらしにおいて、人間はすべて善人でした。悪をおこなう人間にもまたそうせざるを得ない背景があり、彼らの本質は絶対的に「善である」という主張が展開されていたように記憶しております。
 しかし、うみねこは人間の内面を問題としません。うみねこは、罪を犯す彼らの本質にかかわらず、私はあなたを絶対的に「善とみなす」と主張するのです。では、どうやって? それはもちろん魔法によって。
 魔法とは事実の私的解釈であると述べましたが、いかなる場合によっても、いかに不遇な、悲劇的な、辛い境遇におかれても、他者を信ずること。この信仰めいた強い信念を育むことが各エピソードの地獄めぐりであり、天国(黄金郷)にいたる唯一の道であるとしています。

 ひぐらしの場合、受け入れるべきはまず仲間でした。仲間を守るための行動のなかで、人間の善性を知っていきました。しかしうみねこの場合、受け入れるべきは仲間ではありませんでした。受け入れるべきは(表面上そのようにみえる)悪でした。その悪を信ずることを、受け入れるべきとするのです。

 ひぐらしには悪は存在しませんでしたが、うみねこには悪の存在する余地があります。たとえあなたが悪であろうとも(その真偽は、人間には知りえない「猫箱」に隠されています)、それでも私はあなたを善とみなします。バトラとエンジェはそのように決断し、宣言します。



おわりに


 エピローグにおいて、バトラとエンジェは黄金郷に迎え入れられました。それも、幻想的世界観において迎え入れられたのではなく、現実のなかで迎え入れられました。天国に至ったとも言いかえられます。
 天国に至る門は狭く小さい。バトラとエンジェは魔女たちの行うあらゆる罪を垣間見、自分の罪を垣間見ました。ふたりはそのなかで、この世には様々な世界があることを知り、魔法の存在、私的真実の存在を知りました。
 人によって真実は異なるであろう。真理は異なるであろう。そうであれば、自分は何を信じればよいのであろう。
 物語の最後、バトラとエンジェが魔法という愛によっていまを生きると決断しました。その思いで彼らが過去を振り返ったとき、過去に出会ったすべての人間がバトラとエンジェの手を取って、そうして満面の笑みでふたりを迎え入れたのです。

 見ようによっては魔法によって生きることは現実逃避ともいえるかもしれません。また、読み方によっては、彼らは結局魔女幻想に屈したと読めるかもしれません。が、バトラとエンジェはそれを承知のうえで魔法によって生きることを選択し、それによって幸せになれると確信したのでしょう。
 この価値の相対化の時代、真理なき時代において、真理とは何か。
 バトラとエンジェは、みんながみんな幸せに生きる世界こそが真理であると思い、それを強く望み、そう生きることを決断し、この世において黄金郷にたどり着いたのです。

「俺たちは永遠に一緒だ」

 最後、バトラが魔女ベアトリーチェにそう宣言して、物語は締めくくられます。魔女ベアトリーチェとは、バトラが地獄のなかで捜し求めていたたった一つの「真理」であり「真実」であると言えるように思います。彼女はふたりに「魔法」を教えてくれました。それはすなわち、すべての人を愛さんとする心を与えてくれたことを意味します。
 私たちは、どんなことが起きても、これから永遠に人を愛しつづけます。
 魔女ベアトリーチェという愛の真理をその胸にかたく抱きしめて、物語は終えられたのです。


(おわり)
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