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2010.09.15.―うみねことアリエッティ―

 遥か遠くの懐かしき春秋に、うみねこエピソード7をクリアしたという事実が、焚書されてしまった過去の文書のように霞んであります。その事実をいま一度思い返してみて、若干の感想を述べてみたいと思います。

 うみねこエピソード7は、いわば真実とは何かといった問いかけでありました。
 「事実」と「真実」という2つの言葉には微妙な差異がありますが、事実は客観的な出来事そのものであり、真実はその客観的な出来事に対して動機や情状酌量の余地を見出すものであるのかもしれません。
 あたかもうみねこというゲームは……ひとつの「客観的事実」から複合的で微妙な「真実」を見出すことができるのだから、安易なマスコミ的真実を鵜呑みにして罪を犯した者を断罪するな、と指摘しているようでもあります。あるいは犯人に共感せずに、どうしてその犯人を裁けようか、という優しい心……。

 エピソード7は、連続殺人を犯した殺人者の過去を、殺人者自身が回想して述べていくという物語でした。しかしもちろん、自分自身を哀れんだ殺人者は自分の過去を美化して物語を朗読します。何が事実で何が嘘か……犯人の脚色を読者はおぼろげながら想像し、見抜きつつ物語を読みすすめていき、そして犯人の動機に迫っていくのです。
 しばらく読みすすめていくと、以下のような客観的事実が読者に明らかになるかと思われます。

@犯人は統合失調症のような精神疾患をわずらっており、魔女の存在を信じている。
A犯人は、その程度は不明であるが、身体障害者である。
B犯人はおそらく女であるが、障害のために「恋さえできない」と強いコンプレックスを抱えている。
C犯人は、身体障害者である自分に甘い言葉を囁いたバトラに好意を抱いていた。

 物語で語られる多くの事実から連続殺人事件の全体を俯瞰するような「真実」を模索していくことがうみねこ読者には求められており、それを差して「推理する」と竜騎士は言っています。
 犯人が誰であるかを推理するだけでは十分でなく、犯人が何を思って殺人に至ったのかを推理することこそ、事件を把握しようとする人間のつとめである。
 うみねこでは、本編の最中にも、

「愛がなければ魔法(=真実)がみえない」

 という言葉を多用しますが、この言葉は、トリックと犯人の特定のみに関心をもつことへの警告でもあるようです。よくよく考えてみると、確かにうみねこのトリックは実際そうなっているものが多くあるようにも思われます。つまり、恐ろしいことに、事実のみを注視しても事件を解決できない仕組みになっているのです。
 まず、事件の舞台そのもの、物語の世界そのものが犯人の心象風景をうつしたものであるということを読者は知る必要があります。読者に示される風景さえ「事実」であるかどうか疑わしく、すべては朗読者である犯人が示す物語的三人称世界であることを念頭に置く必要があるのです。
 ある事実が犯人の心象風景であるということを知ると、やはり自然に犯人の願望を知ることができ、そしてその願望から読者は犯人の状態を想像することができるようになります。そして読者によって推理される犯人の状態と、物語世界における犯人の状態の溝を想像して、読者は
「おかわいそうに……」
 と涙する、というわけでございます。

 どのようなトリックで殺し、結局誰が犯人であるか……といった事柄は、うみねこにおいてはそれほど重大な関心事ではありません。上記したように、たとえ犯人が誰であっても、それぞれのエピソード内に描かれた犯人の願望と、情況と、動機を探ることこそが第一の関心事であるべきとするのです。
 そのために、うみねこ世界においては「真実」が多数存在するようになります。読者の数だけ真実が生まれると竜騎士は言っているのであり、それをもって犯人に対する関心がなければ真実がみえない(愛がなければ魔法がみえない。すなわち各エピソードにおける事件の真意がみえない)というようなことを言い、そして主人公のバトラでさえ読者のひとりであり、バトラの語る物語こそ客観的事実を超越した真実であると、エピソード7の最後で示唆したのでありんす。


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 と、ここまで書いて飽きてしまいました。
 アリエッティを映画館で見たのですが、非常に面白かったです。いっさい隙のないプロットであり脚本であり、ライトノベルを若干執筆しようとしている昨今の自分にとって、とても参考になる映画でございました。
 とくに音楽がよく、主題歌である「Arrietty's Song」が泣ける次第でございました。彼女たちは滅びゆく種族でございますが、新しい世界にはきっと多くの借りぐらしがいるはずだ――と、希望と寂しさを胸に小川を旅するアリエッティの姿に感動でございます。
 おそらくアリエッティにつまらなさを感じた人はジブリらしい壮大な物語を期待していたのだと思います。アリエッティをトトロとか耳をすまして系列の作品であることを踏まえ、個人的には良作といいたくあります。しかしながらアリエッティには「生と死」をテーマにした悲壮感が漂っておりまして、その悲壮感が、一見して児童向けであるところの設定や物語世界とのギャップをかもし、トトロなどの作品と一線を画す仕上がりとなっております。つまるところ文学的でございます。

 小人であるアリエッティに向かって、穏やかにほほえんだショウくんが、
「ぼくはいままできみたちを見たことがないんだ。きみたちは絶滅する運命なんだよ……」
 と、断言するシーンはまさにカリスマ的でございました。
「そんなことない!」
 とアリエッティが泣いてしまうぐらいのカリスマです。

 そんなわけでアリエッティはおすすめです。じわじわと面白さがやってくる、まさに文学的な味わいでございました。
2010.09.17.―Yの悲劇―

 深夜3時ごろ、arrietty's songを聞きながらエラリー・クイーンの『Yの悲劇』を読了いたしました。あまりに長時間読みすぎたために頭がおかしくなってしまいそうだったのですが、うみねこのヤスの気持ちを
「なるほど……」
 といった按配で理解できた次第です。
 すなわち、たしかにYの悲劇ほどの名作であるならば時間を忘れて読書することが可能である、ということを知った次第です。ヤスさんは小学生だか中学生のころに寝る間を惜しんで推理小説の読破に励むという不健全きわまりない生活をしていらっしゃったらしいのですが、推理小説の面白さが分かるというのはなかなか精神年齢が高い小中学生だなと感心いたします。
 個人的な推理小説の面白みというのは、まさに20世紀初頭とか第1次、第2次世界大戦が終わったころのアンニュイな雰囲気それ自体であり、探偵さんが、
「ふむ……」
 とか言いながら富豪の豪邸で起きた殺害現場を一瞥し、
「一見してあきらかだが、まさか……。しかしありえない……」
 と首をふったところ、警部さんが
「わかったことがあったら、はやく言ってくださいよ。レーンさん!」
 と苛々して探偵さんを睨みつけている雰囲気なのです。
 しかも探偵さんは、自分がわかっていることを、「いえ、これは私自身も納得していない推理なのです。自分すら納得させられない推理で、あなた方を納得させることなどできようはずもない……」と言って隠すのですから、本当に警部さんの怒りが推察できます。どうでもいいから早く言え! とは決して言わない警部さんの忍耐力に敬意を表したい気分です。

 しかしながら、ヤスはアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』にも熱中していらっしゃったようですから、ヤスが推理小説に文学的雰囲気を求めていないことは明白です。『そして誰もいなくなった』は、半年前の日記でも述べましたが、描写が淡白すぎてまったく物足りなかったというわけです。
 ヤスはおそらく純粋に犯罪学の研究にいそしんでいたのでしょう。魔女を信じているヤスにとって不可能犯罪は魔法そのものであり、つまり不可能犯罪が成立したときに魔法が成立するという論理が頭のなかで無意識に展開され、その本能が彼女をして推理小説に熱中させたのでございましょう……。末恐ろしい小中学生です。

 さて、『Yの悲劇』はたしかにかつて「東西ミステリーベスト100」の海外部門で1位にランクインするにふさわしい面白さでした。いままではヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』が個人的に一番面白かったのですが、『Yの悲劇』はヴァン・ダインの一歩先を行っておりました。
 まず、人間ドラマ(物語性)……この点においてヴァン・ダインよりも確実に『Yの悲劇』におけるエラリー・クイーンのほうが優れています。人間心理を掘り下げ、一種の悲劇的物語を構築したことによってクイーンはヴァンダインの半歩先の地平に到達することができたように思われます。しかし、どうもエラリークイーンは作風が変わっていくらしいので、初期とか前期のエラリークイーンが推理小説における物語性・人間性をどういうふうに理解していたのかはちょっとわからないのですが、少なくとも『Yの悲劇』においてはまさしくYさんの「悲劇」を描いておりました。

 そして次に圧倒的な構成力……とある豪邸で立て続けに殺人(未遂)事件がおきるという古典的推理小説らしいこじんまりとした舞台設定でありながら、読者はその事件に異常かつ壮大な事件性を感じざるをえず、読んでいて飽きません。これはエラリークイーンの探偵手法にもよるのかもしれませんが、探偵さんが、読者に与えられたのと同じ証拠である「ヴァニラのにおい」を手がかりに、四方八方に飛んで「ヴァニラのにおい」とはなんなのか……を探しに行くのです。
 おそらくヴァン・ダインの作風でしたら、ここまで探偵活動を綿密に描かずに、探偵ファイロ・ヴァンスさんがどこかにフラリと出かけ、意味深な発言をして終わり、というふうになってしまいそうです。読者といっしょに探偵が証拠をみいだし、そしてその証拠が事件にどのように結びつくのかを探偵の細かな行動、大きな行動から読者は考えていく。まさに読者も事件の当事者としてさまざまに考えざるをえない手法で、これぞ探偵小説といった趣であります。
 加えて、読者が犯人を割り出すための手がかりは、6、7割ぐらいは実際に文中に提示されているので、運がよければ当たる、というその辺のバランスもいいように思われました。


 序盤から、エラリークイーンは用意周到に古典的な本格推理を展開します。この「序盤から」というのは案外凄いというように個人的に感じます。いままで読んだ本格推理――クロフツの『樽』やヴァンダインの小説などは、どちらかというと序盤は謎ばかりが提示されて、犯人の手がかりがほとんど掴めないのです。しかしながら、『Yの悲劇』は序盤からすでに犯人に対する手がかりが与えられている。
 そしてバーナビー・ロス名義の四部作(X・Y・Zの悲劇、レーン最後の事件 )に探偵役として登場するドルリー・レーン氏が、その手がかりから、

「まさか……」

 とつぶやくというわけです。最初の事件からすこしずつ手がかりを与えていき、それがすべて犯人を指向しているというのはまさに爽快の一言でございましょう。

 本格推理に加え、エラリークイーンは探偵役である老俳優の苦悩も描いていきます。ドルリー・レーン氏は元一流の俳優で、耳が聞こえなくなってしまったため舞台から引退し、それから犯罪学に興味をもって古今の犯罪資料を網羅して独学した人間なのですが、このドルリー・レーン氏の
「悪とは何か……」
 という苦悩が『Yの悲劇』の見物のひとつでございましょう。犯人を知ったドルリー・レーンは悩みに悩みぬき、事件から手を引くべきかどうか、そもそもなぜ犯罪学の世界に足を踏み入れ、探偵としての役柄を引き受けてしまったのかを弾劾し、葛藤するのです。

「悪魔でさえ、もとは天使だったのだ」

 とレーン氏が独白し、最後の決断をするシーンはなかなか印象的でございます。おそらくこの辺の苦悩が後期クイーンの特徴なのでしょうか。探偵エラリー・クイーン(エラリー・クイーン名義の小説に登場する探偵は、作者名と同じ「エラリー・クイーン」)も後期になるとこの種の苦悩を抱えていくようです。前期はホームズのごとき完璧人間のようなのですが、徐々にエラリー・クイーンの過去における失敗談や、探偵とはなにかという苦悩に焦点が向けられていくようなのです。
 この点において、「ヴァン・ダインの二十則」を提示し、あるべき推理小説像、探偵像を堅守したヴァン・ダインよりも柔軟性に富んだ作家といえるような気がいたします。
 そして事実、『Yの悲劇』はヴァンダインの二十則からやや逸脱しているように思われます。それをもって、序盤からドルリー・レーン氏は
「まさか」
 とつぶやいた、と言えなくもないかなと思いました。


 そういうわけで、Yの悲劇は非常に面白く、古典的探偵小説として名作といえるであろう……というわけでした。序盤が退屈なので、やはり耐える必要があります。第一幕第二場「ルイザの寝室」あたりから徐々に面白くなり、最後のほうはまさに怒涛の勢いで展開していくので、退屈しないですむように思われます。
 どうやら悲劇四部作は、X、Y、そして『レーン最後の事件』(『最後の悲劇』)が白眉であるとの評価らしいです。むしろ『レーン最後の事件』を書くためにX、Y、Zの悲劇を描いたといわれるほど最後の悲劇は衝撃的らしいので、あとでX、Z、を読んでから挑戦したいと思います。

 いまはディスクン・カーの『皇帝のかぎ煙草入れ』を読んでおりますが、これは序盤に男女の恋愛におけるいざこざが出てきて、残念ながら死ぬほど退屈です。しかしこれも名作らしいので、頑張って読みたいと思っております。
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