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2010.05.21.―ライトノベルの執筆―

 拝啓、世界市民の皆さんへ

 昨今、何となくライトノベルを書いている次第でございまして、しかしながら書きながら徐々にライトノベルではなくなっていく文章に、私は悲しみを覚えてしまっております。
 どうしてもこだわりを捨てることができない人間の自我というもの……NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』を視聴して、もっとリアル路線でいきましょうよ! と思ってしまう人間の自我……。反抗的なチワワを叱りつけたとき、憎しみと怯えのこもった目でにらみつけられ、諦念を抱いてしまう人間の自我……。悲しむべき人間の自我というものでございます。

 しかし、やはり人間というものは興味関心があるものでなければなかなか書けないというところがあるのではないかと思います。ラブコメに興味のない人間が、ラブコメを書いていたら魔女裁判の思想的な話になるのもうなずけますし、ギャグに興味がない人間がギャグを書いておりましたら、白人と黒人奴隷の話になるに決まっているのであります。
 そういうわけで、なぜかものすごい文学的な話になりつつあるライトノベルを執筆しているという次第ですが、最近書いてみて自分ながら「ほう…」と感心させていただいた登場人物の台詞を、途中の地の文をすべて省略して載せてみたいと思っておる次第でございます。

ーーー

●登場人物
1.美津島くん…主人公。いつも悲しんでいる高校1年生。近頃「嘆く人間を救う会」に体験入部し、一日目でリタイア。
2.村山くん…主人公の友人で文芸部員。ベジタリアンで不可知論者。戦争と文学が好き。

「――どうだい、この詩は。美津島くん?」

   ……人間が、毛虫の妊婦の腹にぴたりと耳をつけると、
   どろどろした卵白の粘液から、
   子供が、出張った腹のなかから、
   おれという人間を直視し、
   《俺は刑法なんてもの信じないね。
   堕胎罪なんて、そんなのどうだい。
   生むも堕ろすも俺の自由だろ》
   と言い出した。
   まだ産まれてもいない、血の色をした、柔らかく未熟な、
   毛虫の子どもが。
   「やっぱり危ない、死んでしまう!」
   おれは、毛虫の妊婦の、びっしり茶色の毛の生えた、
   膨らんだ腹の、地割れのような青緑色の血管を見た。
   毛虫の腹からは、甘い淫秘な香りが、
   粒子となって部屋に漂いはじめた。
   《絶望は内向きの衝動で、
   憤怒は外向きの衝動だぞ!》
   毛虫は、内から外に向って押しつぶされ、
   毛虫の子供らは、ぞろぞろ卵の殻から外に這い出て、
   おれの口内に入った。

「難しい詩だね。いろいろな解釈の仕方がありそうだ。毛虫、毛虫の子供……」
「いや、美津島くん。僕が聞いているのは解釈の問題ではなく、いいか悪いかの問題なんだ。僕の根幹ともいえる激情の発露が、美津島くんにとってよしと映るか悪しと映るかを、今僕は問題にしているんだよ」
「うん……」

「ぼくは好きだよ。すごい詩だなって思う」
「……そうか、ありがとう」

「野菜しか食べてないと、代替物として糖分が欲しくなってくるようだ。とにかく甘いものが欲しくてね。きみも食べる?」
「じゃあ、一つ」
「美津島くん。きみは、今、生死の問題を考えているかい?」
「生死の問題……」
「そう、今ある生命と、今ある生命が失われることの問題」

「きみも、このご時勢の人間だから、死を何度か見たことがあるだろう。昨日の光線だけではない。僕も今日、何日かぶりに自殺を見たよ。まわりの人が上を指差していたから、僕もふと上空を見上げたんだ。その瞬間、隣のビルの上から人がフラリと倒れこんだ。疲れ果てた人間が、うつ伏せでベッドに倒れこむように飛び降りた。誰も、ワッとかキャッとか言わなかったよ。無言だ……無言で無為の集団だ。僕の視線は、僕の意識とは無縁に、その動く物体を追いかけた。非常に速い。鳥の飛行のように、頭を下にして人間は落下した。そして僕はその人間と眼があったのだ。不思議なことだ。普通、頭から落っこちるときビル側に自殺者の身体は向いている。しかし、彼は――その人は僕たちと同じ制服を着ていたよ――無理やり首を捻って、僕を見つめたんだ。悲しい目をしていた」
「……」

「うん」
「大事なのは、真摯になることだ。いかに真剣になれるかだ。本当に、きみは死を直視しているのか。生命を直視しているのか。僕たちと同じ学校の生徒が、何人も自殺している。うちの文芸部も死人が出ないのが不思議なくらい、とても危険なんだ……。一度きみも死に感化され、死に共感すべきだ。もっというと、一度死にたまえ。そうだ、うん、そう。そうでなければ、なんのための人間だ」

「死から逃げるようなところに行ってはいけない。嘆く会と一緒に病人の見舞いに行ったそうだけれど、まず他人の死よりも自分の死を考えなければ、死という概念と、その概念に襲われている人間の気持ちは理解出来ないだろう? 闘うんだ、積極的に闘うんだ! 自分自身の生命とその亡びについて……きみという存在と、きみという精神が、格闘するんだ!」

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 なるほどね……と思います。なるほどね……これはライトノベルじゃないね……。
 以上、解散!
2010.05.29.―悪・即・斬とキリスト教神学入門―

 とある牧師の日記に、「神学には良い神学と悪い神学がある」という記述を拝見いたしまして、そのときふと私は『スクールデイズ』という悪しきPCゲームが存在することに思い至りました。
 というのも、そのときスクールデイズのED曲のひとつである「悲しみの向こうへ」というげにまっこと悲しき曲等を拝聴しておったからなのですが、昨今の私はPCゲームほど基本的に悪しきものはないと考えておる次第でございます。
 そうして同時にPCゲームほど基本的にプレイしておかねばならぬものはござらぬ、とネット上における坂本竜馬の詳細な人物評を体験せぬコワッパが龍馬伝を視聴することの恐ろしさを考えるのと同様の感情を抱く次第でそうろう。坂本龍馬は、いわば、170センチほどの中背色黒、写真ほどの美男子ではなく、普通のときは大人しく温和な……相手の言を、相手が言い終わるまで『応』とも『否』ともいわずに聞くにとどまり、相手が言い終わると同時に「拙者の考えるところによると……」と雄弁に自己の弁を語る好青年なのでござる。
 美男子ではない坂本くんがお洒落に気をつかっているところがどこかおかしく、愛嬌があり、エラたがらず、昨今の威張りたがる武士と相反して、童子やおなごとも気さくに話す変わった志士なので相なる次第で候。
 しかし同時に私は、中岡慎太郎くんのごとき友愛なる笑顔を拝見したてまつったことはござらぬ次第でござる……などと思う次第でござる。


 つまるところ、PCゲームは一種の文学体験として必要悪の風情があるというわけでありますよね……ふらりとやってきて、会釈もせずふらりと出て行く坂本君のごときエートスを感じるといっても過言ではない……と哀れに思いながらも思う次第です。

 PCゲームというものはおおむね思想的に勉強にならざるものであり、文学的に勉強にならざるものであり、感性的に勉強にならざるものであり、しかしその生来なる愛嬌ほど勉強になるものはない……と、クラナドのキャラクターたちの、われわれを威圧するかのような肉食獣のごとき大きな瞳をみて思うのです。
 まさしく、PCゲームから何を学んだかといいますと、それは愛嬌しかないと思う次第であります。謙虚な人柄とでもいうべきものであります。このようなものを製作していることこそほぼ冗談である、というような作者たちの自虐的な……創作物としての底辺を自覚するからこその極めて意欲的な、チャレンジブルな文学精神をPCゲームから学ぶことができるのでありんす。

 しかしながら、だからこそ、9割のPCゲームは極めてくだらないのであります。その愛嬌にまるで深みを感じない、下劣な、自虐の精神にとどまるPCゲームほどくだらないものはないのであります。自虐の精神を乗り越えて、ギャルゲーというオタク文化を愛する小学生から高校生ほどの右も左もわからぬ児童たちに、何もわからぬサルのように消費する彼らにこそ、何かを伝えねばならぬと奮起するPCゲームが、ゆいいつ体験してもよい愛嬌を獲得するのです。
 だからこそ『スクールデイズ』を悪しきPCゲームと断じるとともに、文学体験のひとつとしての必要悪といえなくもないと、プレイしてみても悪くはないのではないかな、諸君、と小中高生に対して微笑してみたいと思う次第です。
 荒廃する性道徳を露悪的に描くことによって社会の一側面を批判し、それによってスクールデイズは文学的でありえたのであります。それは主人公の名前が伊藤誠であることからしてうかがえるのであり、その名前はチャタレイ夫人の訳者であり、公共の福祉を害する猥褻文書としての事実認定と、表現の自由という権利との間で裁判を闘った伊藤整のもじりなのであると、私は錯覚している次第でございます。
 その自虐を通り越した愛嬌ある文学的挑戦を考慮せず、「誠最悪、誠死ね」などと不穏な発言を繰り返すコワッパどもを拝見いたしますと、非常に悲しくなってくる次第であります。そのような有様では、悪を描くことによって読者に自身の悪を自覚させる文学の側面を、法的利益にのっとって裁いてしまう無味乾燥な裁判官のごときと言えるでありんす……。諸君は法廷でたたかっているのか、と思ってしまう次第でありんす……。

 しかし思いますに、PCゲームは、プレイしておかねばならないものであって、プレイしつづけねばならないものではない、と思う次第であります。
 愛嬌と謙虚な人柄――具体的には『君が望む永遠』の孝之くんや、『マブラヴ』の白銀タケルくんの悲しき誠実さを学んだあとは、プレイする必要はほぼないと言えるかもしれません。もうとりあえずアージュ作品だけやってればいいのです。なぜかといいますに、PCゲームというジャンルはほとんど思想的に勉強にならないですし、文学的に勉強になりませんし、芸術のひとつとして考えるには、悲しいことにそれほどよく出来たジャンルではないからです……。孝之くんとタケルくんだけが、愛のなんたるかを小中高生とわれわれ大人に教えてくれるといっても過言ではないでございましょう……。
 PCゲームというものをひとつの過去の慰めとしてプレイするのもよろしいかと思いますが、それだけに固執しておりますと、そもそもPCゲームは小学生〜高校生向けに作られているようなものでございますから、感性が停滞していってしまうように思われてしまう次第です。みなさまも、重々気をつけてくだされ! といった次第でして……しかしながら、PCゲームを愛されているお方に対しては、「みんな、苦労してるなぁ」と中岡慎太郎のごとき笑顔で激励したく思う次第でありんす。

ーーー

 『キリスト教神学入門』という恐ろしい教科書を昨今読んでおります。
 それはイエス・キリストが十字架にかかって新約聖書が書かれてのち、紀元100年ぐらいからの神学における歴史的経緯、そして哲学と神学の関係、神学の方法、主要な神学の教理を記述した800ページを超える分厚い教科書なのですが、これが非常に勉強になる次第でございます。
 いまは中世・ルネサンスの主要な神学者とその主張のところを読んでいるのですが、カンタベリーのアンセルムスさんというお方がなかなかうなずけることをおっしゃっているのです。

 中世初期といいますと、ローマ帝国の崩壊による不安定な暗黒時代が終わり、神学の復興が起こりつつあったような時代だそうです。そのなかで、キリスト教神学の体系化と拡大、そしてキリスト教神学の合理性の証明が求められたようです。神学がこの世の真理を探求する学問だということをどうすれば合理的に証明できるのか、神学の有効性の証明です。

 十一世紀の思想家カンタベリーのアンセルムスは、キリスト教信仰の合理性について、このような言葉を残しております。すなわち、「知解を求める信仰」、「理解するために私は信じる」という2つの言葉でございます。
 アンセルムスは、信仰は理解に先行するが、信仰の内容は、理解に先立っているにもかかわらずもとより合理的である、と考えたようです。
 個人的によしと思ったところは、彼が聖書に基づいて聖書のなかにあるものを確立しようとは思っていなかったところです。むしろ、「合理的な証拠と真理の自然な光」に基づいて、あらゆることを確立せんとしたのであります。聖書の信憑性を説明するのに、聖書的権威を用いたがらなかったということは、なんとなく現代人として理解できる次第でございます。
 しかし、それにもかかわらずアンセルムスは完全な合理主義者ではないといえる次第です。なぜかと申しますと、信仰は理性に先行し、理性には限界があり、信仰はすべて理性によって説明できるものではないと彼は考えるからであります。
 まったくもってその通りである、と思った次第であります。

 結論として、神学の合理性を証明するために中世では哲学が用いられたようでございます。とくにアリストテレス哲学が用いられたようですが、これによって異教徒に対して反駁できるようになったということです。
 すなわち、「もしあなたがこの書物に書いているアリストテレスの思想に同意できるなら、あなたはキリスト者になるべきだ」というような論を展開したらしいのですが、しかしアリストテレスの哲学には神学の教理に反する部分があり、のちの宗教改革者マルティン・ルターは次第にアリストテレスに否定的になっていき、ついにはスコラ主義(中世の神学方法のひとつ)からの別離を決意するに至るのです。

 「知解を求める信仰」「理解するために私は信じる」という言葉は、現代の信仰者にとっても変わらず重要ではないかとなんとなく思ったので、この言葉だけとりあえず覚えた、というわけでございました!
2010.05.31.―歴史神学の個人的まとめ―

 教科書をなるべく見ないで整理する、歴史神学のまとめを書いてみました。

1.教父時代(100年〜500年ぐらい)

 教父時代にはじめて神学が体系的に整理されていく。
 ギリシャなど東方のギリシャ語圏とイタリアなど西方のラテン語圏において、このときからすでに神学に対する考え方の差異があった。
 すなわち、東方では神学におけるプラトン主義哲学の影響が根強く、殉教者ユスティノスは、真理とみられるあらゆる哲学――とくにプラトン主義のうちに「神のロゴスの種」が蒔かれていると説いた。これにより異教徒にむけてキリスト教を擁護し、また異教徒のキリスト教理解を深めようとようと試みたのである。
 しかし、その考え方によると神学と哲学の垣根が曖昧になると西方では考えられた。また、当時のローマ帝国によるキリスト教弾圧の背景(それは313年のコンスタンティヌスの改宗まで続く)もあって、異教の文化・教えを排除して、宗教的純粋性を保とうとする西方のテルトゥリアヌスの考え方がある。
 彼は、「アテネのアカデメイア(プラトン主義が栄えた場所)とエルサレムにどんな関係があるか」と、哲学とキリスト教の断絶を主張した。
 しかしながら、コンスタンティヌス帝の改宗により、テルトゥリアヌスの主張にあった背景が崩れることになる。ローマの文化はキリスト教を排除するものではなくなり、むしろキリスト教に従うものとなったのである。哲学などの異教の古典文化に対する、福音的考察がここで可能になった。

 ローマ帝国の文化的・知的遺産に、キリスト教はどこまで関われるかという問題は非常に大きな問題であったが、この問題はヒッポのアウグスティヌスの見解によって決着をみた。
 アウグスティヌスの主張は、世俗文化の「批判的適用」である。彼はイスラエル民族の出エジプトを導いたモーセを例に出して考察する。すなわち、モーセは当時のエジプトの最高の教育を受けた人間であり、またエジプトから脱出する際、イスラエルはエジプトの金銀を多く持ち運んでいったのである。異教の文化のすべてが誤ったものではない。なかにはキリストの真理がある。しかしながら、その真理が誤った方法で用いられているのが問題なのである。キリスト者は、その真理を、エジプトから金銀を持ち運んだイスラエルのように、福音のために持ち出すべきだと説くのである。
 この世俗文化の「批判的適用」は、中世以降、キリスト教の合理性を主張するために哲学を用いる根拠となった。中世では、トマス・アクィナスがアリストテレス哲学にもとづいて神学の合理性を証明した。

 教父時代における重要な神学者は、次のとおり。

●殉教者ユスティノス
 「神のロゴスの種」を提唱して、プラトン主義を神学的立場から擁護した。

●リヨンのエイレナイオス
 グノーシス主義に対する反駁で知られる。使徒時代からの伝統的聖書解釈をもとめ、グノーシス主義のような伝統から外れる聖書の恣意的解釈を論難した。

●オリゲネス
 聖書解釈の仕方を、字義的解釈と寓意的解釈とに類別したことが有名である。また、万人救済主義を提唱したことも有名である。すなわち、すべての被造物は、サタンも含めて救済されるという観念である。

●テルトゥリアヌス
 神学のより深い知識を得るために、プラトン主義などの異教を引き合いに出すことを非難した。また、旧約の神と新約の神は別の存在であるとする神学的見解に対し、旧約と新約の統一性を主張した。これによって「父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神」の三位一体の基礎がすえられることになる。

●アタナシオス
 神が人間を贖うために、御子イエス・キリストを人間として「受肉」させたというキリスト論を展開した。
 イエス・キリストは神の最高の被造物であるとして、その神性を否定したアレイオスとの論争が有名である。イエスは被造物であり人間であるというアレイオスの主張を、救済論の観点から非難する。イエスが人間であるならば、イエスを十字架に架けることによってなぜ「人間の罪の贖い」が成立するのか、とアレイオスの主張の不備を指摘した。罪のない神ご自身が犠牲になることによって、われわれ人間の罪の贖いが成立するのであると説く。
 
●ヒッポのアウグスティヌス
 おそらく最も偉大な神学者のひとり。キリスト教の第二の創始者といわれ、神学の体系化に貢献した。
 アウグスティヌスは、教会とサクラメント(キリストが守るように求めた礼拝などの儀式・祭典)について、恩恵について、三位一体についての教理を深めた。

 教会とサクラメントの教理については、ドナティスト主義との論争の際に提示された。ドナティストとは、アフリカ原住民のキリスト者集団である。303年、ディオクレティアヌス帝の迫害により聖書を手放すなどの棄教者が続出するが、313年のコンスタンティヌス帝改宗により、棄教者が教会に戻ってくるという事態がおきた。ドナティストは、教会は聖徒の集まりであり、みずから神の民としての立場を放棄した者は教会から排除すべきであると主張した。
 しかし、アウグスティヌスは、教会を聖徒と罪人の混在する場と考えた。教会はそのような状態にとどまるべきであり、したがって、いかなる罪人も教会から取り去ることを否定すべきであると主張した。それに付随して、サクラメントの有効性に関してこう主張する。すべてのサクラメントはイエス・キリストの人格に依存し、イエス・キリストによって有効となる。サクラメントを務める聖職者の個人的な適・不適はそこでは問題とならないということである。

 恩恵論は、ペラギウスとの論争の際に提示された。ペラギウスは、人間の救いの第一歩、そのはじまりは、人間の努力があってこそはじまるものだと考えた。道徳的行いをつむことによって、すなわち功績によって救われるとした。(これはのちの中世スコラ主義の思想潮流の一つでもある。ルターはこの功績主義を批判し、ただ信仰のみによって救われると説いたのである)
 しかしアウグスティヌスはそれを否定する。堕落した人間の本性は、神・善から離れようとする意思にみちている。したがって、神を信じるという人間の救いのはじまりは、人間の意志によってはじまることはできない。人間の救いの第一歩、そして救いの最初から最後までの過程は、すべて神の恵みによるものであると主張した。神にそうしなくてはならない理由はない。ただ神の無償の愛によって、人間は罪の縄目から断ち切られるとするのである。
 この恩恵論は予定説(救われる者はすでに『はじめ』から決まっている)とも繋がっており、救われない者がいるという予定説に関しては、当然受け入れがたい風潮があった。
 
 三位一体論に関しては、「聖霊」を父と子の「愛の絆」として心理学的に捉えたところがアウグスティヌスの創造的なところといえる。東方神学では、聖霊は父から発出されるものであって、子からは発出されるものではないと考えられた。
 しかしアウグスティヌスは、ヨハネの福音書の記述から(聖霊を受けなさい、と弟子たちにキリストが息を吹きかける)聖霊は子からも発出されると説いた。もともと、確かにすべての起源は父なる神に属するのであり、聖霊を発出するのも原則的には父なる神であるとアウグスティヌスは考えた。しかしながら父はその権利を子なる神イエス・キリストにも分け与えたのだと彼は理解する。ここにアウグスティヌスは、父なる神の子なる神に対する愛をみる。それによって「聖霊」は父と子の「愛の絆」なのであるとした。

 
2.中世・ルネサンス時代(1000〜1500年ぐらい)

 ローマ帝国滅亡によってヨーロッパは暗黒時代に突入する。そこでは神学は省みられなかった。しかし、大体1000年ぐらいにヨーロッパは安定期に入り、神学もそれによって復興していく。
 神学者にとっての課題は、教父時代(とくにアウグスティヌス)の教理を整理し、教父時代から停滞していた神学を発展させていくことである。
 もう一つ、神学が「合理的」であることの証明も彼らは求めた。中世・ルネサンス時代の神学はスコラ主義と人文主義に代表されるが、スコラ主義の特色こそが、この「合理性の証明」であった。その証明には、理性と論理、哲学が用いられたのである。

 中世・ルネサンス時代の主要な神学者は以下のとおり。

●カンタベリーのアンセルムス
 アンセルムスは、彼が残した「理解(知解)を求める信仰」「理解するために私は信じる」という2つの言葉と結び付けられる。
 彼は理性によって訴え、論理をもって神学の命題を証明せんとし、そしてまた神学の合理性をもとより確信していたのである。この確信をあらわす言葉が上の2つの言葉である。すなわち、信仰は理解に先行し、


 まで書いて疲れてやめました。
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