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3月5日―推理小説に飽きたので、トーマス・マンを読んでいるのです――

 なんとまあ今日は我が県の公立高校入試でございまして、私はわが意を得たり、もはや私に出来ることはございません、と早速塾をお休みさせていただきました。すなわち、私はそう、塾を休みたくて休みたくて仕方がなかった、悲しき怠惰な人間なのでございます……許してください、生徒の皆さん。昨日の私の叱咤激励は、いわばガラスの仮面でございました!

 教育とは後継者を残すことに他ならぬ、と幼く純粋な人間どもに知識を詰め込むたびに私は思うのでございます。なぜかといいますれば、その知識というものは非常にバイアスがかかったものであるといわざるをえないからでございます。
 かつて申し上げたこともあるかもしれませんが、たとえばとある講師が社会の授業におきまして、こんなことを言われたことがございます。

「資本主義と社会主義だったら、資本主義のほうがいいだろ? 社会主義はいくら頑張っても他の人間と待遇が変わらないんだから、怠けてしまう社会になってしまうんだ」

 馬鹿やろう!!!
 私はそれを聞いて、内心怒り心頭に発した次第でございます。  わかっちょらん。わかっちょらん! 坂本龍馬の心がまるでわかっちょらんぜよ!! メリケンは、なんと殿様を入れ札で選ぶそうじゃち。ほんにフリーとデモクラシーぜよ!

 ――日本人はここまで落ちぶれてしまったのか…。食うにも困る日本の貧困労働者層、発展途上国に住まう貧民たちの平均寿命が20代とか30代レベルの褐色の憤怒を無視したご発言に、私はあっけに取られてしまったのでございます。もう一度小林多喜二を読み返しなさい! というところでございましょうか…。
 もうひとつの問題といたしましては、生徒の意思をあきらかに誘導している点でございましょうか。言ってみますと、そこで生徒が「俺は社会主義のほうが思想的に優れていると思う」と激烈な、発達した意志力を見せ付けるかのような視線でその講師をにらみつけたとき、その講師は「なんで?」とまるっきりその思想を理解してくださらなそうなところ、ここが非常に問題でございます。
 宗教的問題以外はすべての価値観は相対的であらねばならぬ、ということを講師であろうともまだまだ理解しておらないのでございますから、ほんに私はそのような偏見にみちた人間が教育している世間というものを、嘆き悲しまざるをえない次第でございます。

 それ以来、私は第一次大戦中、1917年にレーニンがロシア革命を起こすことを述べる際に、理知的かつ啓蒙的な教育、すなわち立派な後継者を育成せねばならぬとの意識から社会主義とは何ぞやということを事細かく説明している次第でございます。

「社会主義とは……いえ、すなわちマルクス主義とは、全ての価値観を転倒させ、全ての人間にとって平等な社会を築く思想でございます。世界ではじめて人間らしく生きる権利、社会権の概念を認めた憲法は、第一次大戦後の共和制ドイツのワイマール憲法でございます。ですからマルクスのころ、貧困労働者層の人権はまるで無視されておったのでございます。人権がまるでなかった、人格というものを廃棄させられていた彼らを中心に、なんとか新たな共同体を、神を含めたすべての価値観を消滅させ、であるからしてすべての民族を平和裏に受け入れられる真のユートピアを……造れるのではないか、とマルクスはそう考えたのでございます」

「資本主義も社会主義もひとつの思想であり、正しき思想などでは決してございません。いわば人間のより良き未来を築くための政治的試み、みたいな感じではないでしょうか。しかるに、やはり私は社会主義の思想的意欲をも認めざるをえないのでございます。社会主義の問題点は、すべての価値観を転倒せねば一切平等の社会は決して築きえぬことを知りながらも、しかしレーニンなどが既存のヒエラルキー的国家体制を流用したところではないでしょうか。それでは官僚層の腐敗と搾取が進むに決まっております。社会主義はもしかすると原始共同体としてしか成立しえぬ主義・思想なのかもしれませんが、それの改善点につきましては今後諸君らがいかなる社会がもっとも善き社会であるかを研究して、発見していただきたいと思う次第でございます。……つきましては、小林多喜二の短編『一九二八・三・一五』でも読んでいただければ、社会主義を求める人間たちの、貧苦する人間たちの社会主義を求めざるをえない憤怒と悲哀を、わずかばかりですが理解できるように思われます。ご一読をお勧めいたします」


 ……しかし、このような話や、文学のお話をいたしましても、ほとんど彼らは理解できないようなのでございます。まるで自分に無関係な世界だと……この世には電気がないためにわずか数歳で室内の焚き火の噴煙を浴びて肺炎になって死んだりする赤子が多くいるといいますのに、私にはそんな世界は関係ありませぬ、といった顔で授業を受けております彼らを見て、私はもはや後継者を育てることをあきらめつつございます。

 訳知り顔で哲学や歴史を教える講師たちの、それを教えるには少々早まった感性、われわれとはほとんど無関係ともいえる、しかしそれゆえ深遠な人間的神秘を感じざるをえない生死の問題を直視できぬ中学生といった年齢……。
 私が出来ることといいますれば、価値観の相対性を口をすっぱくして事あるごとに言及すること、あるいはメディアに洗脳されるな、人間を差別するな、ひぐらし・うみねこはまだ早いからクラナドやリトルバスターズをやれ、漫画は偏らずにいろんなジャンルをいろんな雑誌で読みなさい……ぐらいではないでしょうか。
 もっと突き詰めて言いますれば、ニコニコの「シムシティ3000実況〜目指せ均整都市〜」が面白いからぜひ見ておきなさい、ぐらいではないでしょうか……。ねえ、そうは思わないかい? ヨーアヒム! ぼくがどうあってもいいたいのはね、死にかけている人間というものは、その辺をうろつき回って、笑ったり、金を儲けたり、腹鼓を打っているがさつな人間よりは、ずっと高尚だということなんだ。そういう人間に向って、いかん、それはいかんよ――ヨーアヒム!
3月8日―若かりし頃の福沢祐巳の論文について――


 ●福沢祐巳短編集『祈りは祈りにあらず』に対するアマゾンレビュー

・By放蕩息子 「必読の一冊」
福沢祐巳という人物とは、この本を通して出会いました。
普段、自分が読んでいる新約聖書で意識せず読み飛ばしている部分に深みがあること、自分の理解の浅さに直面させられてしまいました。理知的な信仰、理神論的な信仰者であることの限界を味わうことになった1冊です。

特に、この本の通奏低音としてあるコミュニティとしての教会、コミュニティとしての成長、コミュニティの一部としての信者という洞察がかけていることが、聖書理解に深い影響を及ぼしていることを味わいました。そう、キリスト教会は、コイノニア、コミュニオンそのものということを思い起こさせる、そのことの重要性を思い起こさせる本でした。

この部分は、多分、マクグラスの理解にもつながるものと思います。お勧めの1冊です。


・Byカスタマー 「心に直接響いた本」
昨年は多くの本に出会ったけど、ほとんどが知的な欲求を満足させる物でしたが、
この本だけは、心に直接響きました。
傍らに常に置いて、何度も読み返したくたる本です。


・Byカスタマー 「自分も辛いときに読みました」
著者、福沢祐巳は本書を心身ともに危機的状態のとき書いたという。自分も辛いときにこの本を読んだ。心地よい本でも、安易な慰めをくれる内容でもない。各論文はいずれも精読し、自分で考え、行動に移していくためのヒントとなっている。
精神的に辛い状況を乗り越えるため、自分を甘やかさず、厳しさを持てる方だけにお薦めできる本である。


ーーーー


 祐巳はリリアン女子牧会ジャーナルに寄稿依頼をされてから、ずっと祈りに対する考察を深めていた。彼ら編集委員によれば、翌々月の牧会ジャーナルでは「祈り」について特集するので、ぜひ《祈りの人間》として有名な福沢先生に執筆していただきたいとのことだった。
 リリアン女子高等学院からの友人、島津由乃とともに福沢祐巳が大学部を卒業してから、すでに7年も経過している。祐巳は29歳、当然由乃さんも29歳だ。由乃さんは地方銀行の一般事務職を忠実に励んでおり、今年6月には同じ銀行の総合職の男性と結婚するらしい。
 祐巳は卒業以来由乃さんとは会っていなかったけれど、婚約者との写真を同封した手紙が時々祐巳のもとに届き、日々充実しているとの言葉をその手紙から聞いていた。

「しまづ、よしのさん……」

 祐巳は手紙をポストから取り出すとき、そのフルネームをゆっくり呟き、ぼんやり夢想する。

「もう遠い遠い、遥かのユートピアに存在する、いるかいないか分からない、由乃さんはほんとうにそういう幻想的な人間だわ」

 夢見る少女のようにぽつりと言って、祐巳はその場で封筒から手紙を取り出した。そしてむさぼるようにその人間味あふれた言葉を読み漁った。
 手紙に描かれている人間像は、祐巳の眼にとって近代的自我を過大評価する反理知的人間、マスコミによって扇動されている哀れな現代的大衆のそれにしかうつらなかったが、しかしそれでも由乃さんは確かな幸福を認識しているのだと思うと胸が熱くなった。
 手紙を読み終えると、祐巳は口のなかでぶつぶつ祈りはじめる。
 ――天のお父様、由乃さんがどうか神様に導かれてあなたのもとに再び帰ることができますように。そしてどうか由乃さんの結婚を祝福してください。男性はクリスチャンではないようです、どうかその佐藤信介という男性もまた、あなたの言葉を受け入れ、あなたの愛を信じることができますように、イエス様の御名によってお祈りいたします、アーメン。

 しばらく沈黙の時間がつづいて、ようやく祐巳は祈りの形で合わせられていた手を解きほぐすと、にっこり笑った。それからふらふらの足取りで自室に帰った。コートをクローゼットに仕舞うと、眠気をこらえながらすぐに返信を書き始めた。
 手紙の返信はもらってすぐに書くということを、祐巳はかつて母教会の牧師に厳しく躾けられていた。手紙を書きながら、その頃、つまり大学時代のことを思い返して、祐巳はふと微笑んだ。あの頃は、まだ私も信仰の何たるかをまだまだ分かっていなかった。志摩子さんにも悪いことをした。……

「前略。私は相変わらず未熟ながらリリアン大学部で教鞭を取っております。今、学生たちに詩篇を講解しているところです。彼女たちがわずかなりとも神様のことを信じることができるように、私なりに工夫していることがあるんですよ――」

 そこまで書いて、結婚の祝福を手紙の冒頭で述べなければならないことに気づき、祐巳は便箋を丁寧に折りたたんでゴミ箱に捨てた。
 もう一度椅子に座りなおし、新たな文面を考えはじめると、祐巳の意識はついに朦朧となりはじめ――いつの間にか、長くなめらかな髪を頬の下の両腕におとして、祐巳は夢を見はじめていた。
 夢の中で、

「祈りは祈りにあらず。祈りとは儚き我らの内面的真実であり、同時にそれが哀れであるからして、主は我らを憐れんでくださるのである。祈りとは祈りにあらず、祈りとは儚き自己充足に対するおのれが一喜一憂であり、ああだからこそ、我らは祈り、それが主によって応えられるのである」

 祐巳は自分が髪を振り乱して、学生たちに訴えかけている姿をみとめ、それに力強くうなずいた。そこでハっと夢は覚め、祐巳は机から飛び起きた。そうして叫んだ。

「xxはxxxxxx。祈りはxxxxxなり」

 祐巳はそれから猛然と、先日から何を書こうか悩んでいた牧会ジャーナルの原稿を書きはめたのである。


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 惜しくも若くして先日亡くなられた福沢先生が著した37年前の論文「祈りは祈りにあらず〜耳朶をうつ魂の声〜」は『リリアン女子牧会ジャーナル』の4月号(リリアン女子大学出版会、2015)に書かれたものである。
 ほかの軟弱な思想的信仰とは一線を画する、まるでジョン・ウェスレーもかくやといった福沢的信仰を理解するためにも、ぜひ一読する必要があるのだが、昨今(2052年現在)なかなか手が入らない。短編集などで復刊を希望する。
 福沢信仰の原点をわれわれ神学者はこの短い論文(ページでいえば、わずか13ページにしかすぎない)に垣間見るのであり、牧師や神父などの教職の方々にとどまらず、一般信徒もまたその奥深い祈りの精神に触れて、自身の信仰を省みる必要があるだろう。

 ――日本基督教団XX教会牧師、小笠原祥子のブログ『心の奥の愛を求めて』(http://www.xxxxx.xxxx.)2052年3月7日の記事より


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 というのを、なんとなく久しぶりに福沢祐巳シリーズを書いてみようかなと思って無理やり書いてみた次第でございますが、やはり途中でどうしようもなく飽きたというわけでございます。
3月10日―クラナドアフターストーリーほぼ全話視聴―

 参考動画:クラナドアフターストーリーOP



 僭越ながら暇を満喫しておりましたため、クラナドアフターを一話から見てみるというちょっとしたスリルある愚行を体験させていただいたのございますが、やはりクラナドはなかなかやるな……もはや泣きゲーを極めてしまっているといっても過言ではなく、これ以上どうやって人間を本能的、生理的に感動させればいいのか、と私は作り手側の視点で考え込んでしまったのでございます。

●クラナドの良いところ
・時々火垂るの墓のセイタや節子に匹敵する迫真の演技を岡崎朋也が見せてくれるところ。

 とくに渚が16話で出産に耐え切れず死亡したときの、悲哀と絶望の極致を見事表現した岡崎朋也さんの演技(うしお、ママだよ…)は素晴らしく、ディカプリオに対して拍手するようについ拍手してしまいました。


・17話で5歳児のうしおが初登場するのですが、その生態が素晴らしくよく描写できているところ。

 自由奔放かつ本能で息吹しているかのような幼児の、あきらかに効率の悪い身体の動かし方は見ていてもどかしいものがございます。(食事など)
 育児放棄していた岡崎朋也がそのうしおに対して若干の苛立ちを覚えるのですが(さらに自分のつくった昼食をまずいといって食べないうしおに不満を募らせます)、その父子の演技もまずまず及第点といったところでございます。

「うるせぇ! ちったあ周りのことを考えろ!」

 新幹線のなかではしゃぐ見知らぬ子供に対して死ぬ気で怒鳴る岡崎朋也と、それをみてビビりまくるうしおの自然な演技に失礼ながら感動させていただきました。

 ――役に成り切っているとしか言いようのない岡崎朋也でございますが、うしおとの初対面時は抑えた演技でいき、そしてうしおとの父子関係の再構築の場面において感情豊かな演技をする、そういった演技者としての側面もしっかり出来上がっておりまして、なかなかやるなと思った次第でございます。


・いわば世の中に氾濫しているドラマの間隙をつくようなドラマ的内容であるというところ。

 恥ずかしながら私はドラマというものをまったく拝見しない次第でございますけれども、やはり珍しい種類の物語だといわざるをえないのではないでしょうか、というところが正直なところでございます。
 とくに高校3年生の岡崎朋也と古河渚の一年間の描写、そして卒業後の岡崎朋也と古河渚の関係の変化、岡崎朋也が仕事をみつけてからの半同棲生活、結婚、自宅出産、渚死亡、とまさにどこの尾崎紅葉的大衆小説だといったふうに様々な要素がつめこめられているのが感心でございます。
 さらに申し上げますれば、この様々な要素がこと細かく描かれているところがギャルゲーというジャンルのすさまじいところであり、小説やドラマでは決して出来ないところでございましょう。小説として文章に直したらきっと省かれてしまうような些細な描写が生活感を感じさせる次第でございます。(岡崎朋也の細かな仕事内容や、自宅における渚とのラブラブっぷりの映像をこれでもかと流すところなど)
 すなわち岡崎朋也という人間がわれわれ視聴者とほぼイコールの存在にならざるをえないという、そういうくどいほどのリアリティがある次第でございまして、岡崎朋也の日常が単なる日常ではなくなるのでございます。日常そのものがドラマとなり、ドラマ的物語を楽しむ心よりも、岡崎朋也(われわれ)が日常を平安のうちに送ることを願うような祈りのドラマとなるのでございます。
 いわば一種の共感的同情を岡崎朋也に抱くのでございますが、この同情が一時的な無責任なものではなく、自分自身に対するかのようななかなかに持続する真なる同情であるところ、これがドラマとは一線を画す、日常を描きまくることが可能なギャルゲーにしかできぬところでございましょう。
 つまるところ、泣きゲーにたいしたドラマは必要ないということをKEYは言ってみせたのでございます。たいしたドラマは必要ない、必要なのはリアリティある日常(これがなかなか難しいのですが)であり、キャラクターを視聴者に同一化できるかどうかが唯一の問題である。……

 作り手側としては、大衆が共感可能な人間をつくることは結構難しそうだなって思ってしまうのですが、もしかしたら結構簡単なのではないかとも思ってしまう次第でございます。
 個人的な問題としましてはキャラクターたちの個性をどうするかという問題がございます。クラナドを拝見しておりますと、キャラクターたちが真の善人としてありつつも何らかの前向きな、同時にオタク産業的な記号的個性を保有しているのでございます。
 このキャラクターたちの見事なところは、一切の不快をわれわれ視聴者に与えないというところでございまして、この点まさに衝撃的でございます。そういうキャラクターたちを作ってみたいという意欲は、いわば人間の超人をつくってみたいという一種の試みでございまして、しかし余興でもあるかもしれないと思う次第でございます。
 しかしながら、もし古河渚がもっと具体的人間としての性質をさらしておりましたならば、古河渚はあれほど岡崎朋也(というわれわれ)に感銘を与える人格とはなりえなかったのでございましょう。そういう意味で、やはり主人公以外はほのかに人間味かおる、しかしオタク産業的キャラクターでいくのがベストなのかもしれない次第でございます(ギャルゲー・ラノベにおいて)。
 さらに申し上げますれば、そのオタク産業的真なる善人キャラクターに精神を癒してもらう具体的人間の要素を強くもった主人公、という形が泣きゲーのスタイルなのかもしれない次第でございます。


・総合的にはやはり、「クラナドは人生」とおっしゃった熱狂的クラナドファンもおられるようですけれど、まさに岡崎朋也の人生においてもっとも重要な場面をこと細かく描写しているところが、クラナドと他のアニメとの決定的差異なのだと思った次第でございます。
 すなわちクラナドを全話みることが「お菓子をよく買ってもらいました……手をつないで、散歩にいって」と悲しげに語る岡崎朋也さんの人生をすべて見ることに繋がるのでございます。クラナドアフター最終話において、岡崎朋也が渚・うしおと3人で菜の花畑のある父の実家に旅行しにいく段階で、岡崎朋也の人生はあきらかに終わるのでございます。それほど作品内で岡崎朋也の苦難、苦悩、価値観の変遷といったものが消費しつくされているというわけでございまして、つまるところひとりの別の人生をすべて体験できたという大きな満足感を視聴者は味わうことができるということなのでございます。
 その満足感が、「クラナドは人生」という言葉に帰結していくのでございます。


●悪いところ
・幻想世界がいまいち理解できないところが、残念きわまりないといったところでございましょう。
 何度クラナドを消費しても、幻想パートにおいては大まかな輪郭以外つかむことができない次第でございますので、なんかノリでつくられているとしか思えない次第でございます。
 しかしながらクラナドはファンタジーでございますので、そういう意味で幻想世界の存在はたしかに「あったほうがいい」ようには思います。ただし、あったほうがいいよね、ぐらいのレベルで創作されているように思えてならず、あったほうがいいならもっと考えてつくったほうがいいんじゃないでしょうか、となんとなく思う次第でございます。


・アフターの序盤における、宮沢ゆきねの脇役シナリオは正直飛ばしてしまいましたので、悲しかった次第でございます(アフター序盤10話ぐらいまではみなさん高校3年生なのです。卒業してからが渚との本格的対話のはじまり、みたいな感じでございます)。
 ゲームのほうでも宮沢ゆきねシナリオは死ぬほどつまらなかった記憶がございますので、これはもう原作の責任であるという感じでございます。
 ただし同じ脇役シナリオといたしましては、春原陽平シナリオ、寮母であるミサエさんだかなんだかさんのシナリオは非常に秀逸でしたので、この辺は興味深く拝見できた次第でございます。


 というわけでございますので、みなさんもあふれるほどの暇がございましたら、クラナドアフターをぜひご視聴なすってくださいというふうに感じた次第でございます。つまるところ、アニメもなかなか面白いじゃん! って見直した次第でございます。


 ●クラナドとクラナドアフターほぼ全話
 アフター14話からが卒業後のお話ですので、そこから視聴するのもありだと思う次第でございます。しかしながら、ギャルゲーというものは感情移入しておりませんと非常につまらない代物でもございますので、ご覧になるのでしたらもはやクラナド無印の最初から見ることをすらお勧めしたいと思う次第でございます。
3月14日―信仰こそ旅路を導く杖なり…―

 今日は久しぶりに文学的だなと思える体験を教会においてできまして、非常なる満足を覚えさせていただきました。
 つまるところ今日の昼食会では54歳の半身不随の方と隣り合ったのでございますが、僭越ながら私、昼食の準備中、てきぱき配膳などを努めておりましたときに、ずっと新聖歌275番「信仰こそ」を敬虔な態度で口ずさんでおったのでございます。  それに触発されたのかその方も、顔面を痙攣させながら口をむにゃむにゃさせて「信仰こそ」を歌いだしたのでございます。

「にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんなー…」

 私はそれをじっくり拝聴いたしまして――彼女とはあまり年齢を気にせずに付き合うような間柄でございますので――彼女の大きな肩をぽんと叩きました。そうして
 
「ですよね! 歌詞分からないですよね! ガハハハ」

 ふたりで適当な歌詞をつけて、まさしくどこかの老人ホームのような雰囲気で、聖徒の交わりという抽象論が具体化したような感じでほのぼのと歌っておったのでございます。
 そんなわけでございますから昼食中、

「ゆあさキョウダイ。イチバンだけで よろしいので カシをおおきくカいてくださらない?」

 彼女はほとんど目が見えないのでございます。新聖歌の歌詞も読めないので、大きな字で歌詞を読みたいと、家の部屋に貼って歌詞を覚えたいと、そういう意味でおっしゃったのでございます。よだれを垂らしながらも、真に美しい日本語でもって彼女は私におっしゃったのでございます。
 そんな美しいお願いを断るなんて無粋はできませぬから、「承知いたしました……」相も変らぬ彼女の心底敬虔な精神に頭を下げ、牧師先生に白い紙とマジック・ペンを借りもうしあげた次第でございます。
 それから大きな白い紙を2枚つかい、一世一代の集中力をもって、恐縮ながら新聖歌275番「信仰こそ」の一番の歌詞を書かせていただいた次第でございます。


   信仰こそ旅路を導く杖
   弱きを強むる力なれや
   心勇ましく 旅を続け行かん
   この世の危うき 恐るべしや


 ほんと渋い歌詞と音楽なのでございますが……その後はもうこの白い紙をみながら一番だけの歌詞を永遠の時間その方と歌い続けたわけでございまして、もうすっかり歌詞を覚えてしまった次第でございます。
 その方はよほど嬉しかったのか、昼食後もずっと一人で歌っておられましたので、教会をあとにするときには医大生の方がオルガンを弾いてくださり、役員のSさんはギターを弾いてくださり、皆さんでもって、その障害者の方を囲んで微笑ましく「信仰こそ」の一番を10回以上ループして歌うという奇跡的キリスト教文学体験をしたというわけでございます。まさにドストエフスキーもびっくりな宗教体験でございましょう。

 それはそれは……その厳かかつ晴れやかな、まさしく「ハレルヤ、アーメン!」と自然に口をついてしまうような雰囲気というものは、やはり教会においてしか決して経験できぬ文学体験でございまして……教会とはなんてポテンシャルを秘めた場所なんだ……と聖霊なる神の御力に恐れおののいたというわけでございます。アーメン? アーメン!


 参考音楽:新聖歌275番「信仰こそ」のmidi音源
3月16日―第6次聖杯戦争とKGK全国大会の感想―

 3年に一度開かれるKGK(キリスト者学生会)全国大会のふりかえり用ムービーがユーチューブにアップされておりましたので、心して拝見してみた次第でございます。
 心して……つまるところ学生たちの信仰のあり方が、はたして史上最年少で国家錬金術師の資格をお取りになったエドワード・エルリックさんの宗教的価値観(神という太陽に近づくと燃えちまうんだよ、こんな風に!)のようなものなのか、それともエドワード・エルリックさんがマスター・岡崎朋也のために真理の扉をひらき、英霊たる自分の生命と引き換えに岡崎うしおの人体錬成をなしえたときの、岡崎朋也さんの「キャスター……」という涙の言葉のようなものなのか(ニコニコ動画「第6次聖杯戦争」より)……それをしっかり判断するために、心してその動画を拝見した次第でございます。

 KGK全国大会ではなく第6次聖杯戦争を振り返ってしまったために、肝心の動画の記憶がもはや風前の灯となってしまったのでございますが、そう、しかしながら、第6次聖杯戦争のおかげでアンチ・ハガレンとしてオタク界隈を威風堂々と闊歩しておりましたわたくしが『鋼の錬金術師』とその主人公エドワード・エルリックさんを愛することができるようになったこと、このことは確かな事実なのでございます……。
 いわば英霊エドワード・エルリックさんとマスター岡崎朋也さんの微笑ましい師弟関係(岡崎朋也さんがエドワード・エルリックさんから錬金術を学んだりするのでございます)にSS的醍醐味を垣間見てしまった次第でございまして、キャスターのエドワード・エルリックさんがアーチャーの高町なのは(マスターは八神はやて)、セイバーのフェイト・テスタロッサ(マスターは禁書目録の上条当麻)などと無力な岡崎朋也をかばいながら奮闘し、ついには最終兵器彼女のちせの砲撃によってぶっ殺されてしまう名シーンなど、久々にクロスオーバーSSの禁忌的可能性に活力をいただいた次第でございます……。

 そういうわけでございますから、ハガレンのアニメでも見てやろうかなと、昔のほうのアニメを一話だけみてみたのでございますが、なんとなく2話をみることなく、そのかわりに聖書をひもとき「ヨハネの手紙第三」と「ユダの手紙」を読んでしまった……という悲劇もすでに体験済みでございます。(ハガレン第一話が宗教に対するアンチテーゼ的テーマでしたので、まさに悲劇でございます)
 ハガレンに関して思いますに、おそらくハガレンで描かれる思想自体はそれほど深くないのでございますが、しかし二次創作としての可能性は非常に大きいという……奈須きのこ作品にみられるようなSS的価値を秘めている作品がハガレンではないか、と思った次第でございます。
 もはや原作にではなく、二次創作にこそハガレンの本質がある、といってもきっと過言ではございませぬ! それはつまるところ、ネギま!の原作を読む気は残念ながらなかなか起こりませんんが、歴史的名作とプッシュされておりますネギまSSでしたらまあチラっと読んであげてもいいかな……と思うようなニュアンスにおいてでございます。


 そこで……やっとKGKの全国大会のお話に戻りたいと思う次第でございますけれども、もはやわたくしは一体何をお伝えしたかったのでしょうか……それこそわかりませぬ……。
 ただ……わたくしは、信仰とはなんぞや、と彼ら彼女らにぜひともお聞きしたかった、ということなのかもしれない次第でございます。
 ……まずドストエフスキーやトルストイを読んで真実敬虔な信仰者の苦悩の姿を確認してみましょう! とぜひお伝えしたい気分でいっぱいでございます。
 この科学の支配する現代において、人間が神に敬虔であることそれ自体の奇跡を若者たちもまた認識すべきである! と思った次第でございます。あるいは峰Fさんが監督をされ、braveheartさんが主演された映画『ぼくのともだち』を視聴し、もしかしたら自分よりもbraveheartさんのほうが神と交わっているのではないか(もちろん信仰としてではなく、その人間の性質として)…と感動していただきたいと思う次第でございます。

 参考動画1:第6次聖杯戦争 1章(ニコニコ)
 参考動画2:KGK全国大会2010(ユーチューブ)
3月21日―化物語と新約聖書―

 少し時間がかかりましたが、皆々様のお祈りに支えられて、つい先日新約聖書の2週目をついに読破することができた次第でございます。今後はなるべく旧約聖書を一日10章ずつ読みつつ新約聖書のほうで精神と観念の練磨をしていき、とくに教会献身を見据えて祈りに本格的に励んでいかなければと考える次第でございます。

 加えて、本日非常に喜ばしい感謝な出来事がございました。
 教会に通っておられる女子学生さんが洗礼を受ける決心をされたということを礼拝前の教会でうかがい、私は非常なる感銘を受けた次第でございます。

(彼女の実家は普通の無宗教的仏教徒で、大学に入ってからキリスト教に触れた方でございます。彼女はつい先ごろまで、卒業して自立するまで洗礼は受けないとおっしゃっておりましたから、まさにどうしても抑えきれぬといった奔流のごとき信仰告白なのでございましょう)

 学生というモラトリアム的身分において、イエスという神を信じる、イエス様がご自身の血によってわれわれの罪をあがなってくださったことを信じると告白する……。これは生半可な思想で出来るものではございませんし、まさに真の信仰を有する学生ではございませんか…。
 信仰告白とは生き方の決定であり、相対的真理の放棄であり絶対的真理、イエス・キリストに対するまがうことなき心からの賛美と服従でございます。
 それをその年においてなしうるとは! なんと発達した精神か!
 恥ずかしそうに照れてうつむく若き女子学生の横顔を見て、私は非常なる衝撃と感銘を受け、信仰とはかくも美しきなりやと呟いたという次第でございます。ハレルヤ!
 

 ●通読2週目の段階における新約聖書に関する大まかな感想


 先日峰Fさんに私はこう申し上げた次第でございます。
「何か面白いことはございませんか?」
 そうすると、峰Fさんは著しい苦悩を5,6分見せたすえに
「化物語の4話までの総集編(?)でもどうでしょうか」
 と控え目なご提案をなさったのでございます。

 せっかくのご提案でございますし、数少ない日本有数の児童精神科医になったような優しい気持ちを獲得した上でその『化物語』というジャパニメーションを視聴させていただいたのでございますが、最終的にかれらの恋愛に偏重する精神に苦言を申し上げたくて居ても立ってもいられなくなってしまったのでございます。

「武市半平太を見い! 武市さんが奔走したのは自分の藩のためじゃったか! 薩摩だ長州だとひとつでも言ったことがあったか!」

 『お〜い! 竜馬』において、かつて薩長同盟を感情的理由でなかなか締結しようとしない桂小五郎などの長州勢にむかって、作中の坂本龍馬さんは怒髪天を突く勢いで叫んだのでございます。武市半平太が土佐勤皇党を率いたのは土佐藩のためだったのか、勤皇をつらぬいて三文字で切腹して果てた武市さんは、なんのためにこの日本を変えようとしておったのか! 天誅組をひきいて死んでいった那須さんらは、なぜあえて幕府に対して負け戦を決意したのか!

 …化物語の主人公である元吸血鬼アララギさんに、またヒロインである体重がない×××さんに対し、その坂本龍馬さんが同じことを叫んでおられるのを、わたくしはゴムプレイヤーの小さな枠内において幻想的に垣間見た次第でございます。

「蟹がなんじゃ! カタツムリがなんじゃ! 自分のくだらない見栄なんか捨てけつかれじゃ! 真理を探すんじゃ、真理を……。おまんらは時勢に流されて右往左往しておるヨウドウさんみたいなやつらじゃ……」

 坂本竜馬さんがきっと化物語をご覧になったら、なんと表層的・記号的ジャパニメーションなのか……これじゃあ日本は異国にのっとられてしまうがぜよ! おまんらちちくりあっとる場合か! と嘆かれることでございましょう。
 記号と演出とツンデレとかによってのみ構成されたこのジャパニメーションは、いわば「芸術のための芸術」を根拠に「記号のための記号」をアニメにおいて目指してみたのですけれども、原作者を含めた製作者たちが抱く「芸術」やツンデレという概念にはどこか連想ゲーム的な薄っぺらいものを感じざるをえず、つまるところ物事の本質というものに切り込んでゆくのを製作者たちはおそれておりました。

(ヒロインはツンデレ的架空の存在であり、決してツンデレ的人間ではない。口封じのためにホッチキスで人間の頬を止めてしまうようなヒロインを見て、良心の呵責を覚えながらも未来の猟奇殺人者と、そのヒロインによって殺された被害者のあわれな姿を想像しない人間がいるだろうか……。のう、以蔵さん…)

 というようなことをガンパレード・マーチの柴村舞を思い出しながら、彼女のほうがまだ戦死とかするぶん化物語のヒロインより人間であった……と感慨深く思う次第でございます。

 しかし製作者たちがなぜそういった記号的ツンデレや記号的演出をがんばれ元気以上に頑張ってしまうかと考えてみますと、視聴者層であるオタクの方々が物事の本質を欲しておられないからであると思わざるをえないのでございますが、つまり何を申したいかといいますと、かれらは自分なりに一生懸命ビジネスをやっておられるニッポン人であった、というところでございますぜよ!

 
 そういう多感な精神状態であった昨今、新約聖書におきまして「神は愛なり」という御言葉を一週目より感受性豊かに受け止められた次第でございます。
 感受性豊かにと申しますのは、すなわち聖書に疑念をはらんでおりました一週目以上に、素直に「神は愛なり」と受け止められたということでございます。
 より詳細に申し上げますと、聖書というものを批判的に研究する姿勢がやんだというわけでございまして、しかし聖書を盲目的にそのまま唯々諾々と読むようなわけでもない……というような按配でございます。
 いわば聖書の包括的受容段階(≠律法的受容)であろうと思われますが、キリスト教信仰というものは個人的に以下の順に変遷していくのではないかと考えられる次第でございます。


 1.聖書に真理の一片を垣間見る
 2.聖書の真理を受容する
 3.聖書の真理を律法化してしまう。
 4.聖書の律法化を恥じる。
 5.イエスの姿に信仰者のあるべき姿を見る。
 6.信仰によって人を裁く矛盾を反省し、イエスの愛を重視する。
 7.聖化(聖霊にみたされ、イエスのような愛が行える)を望む。
 8.いかなる信仰者であろうと罪的性質の残滓があることの自覚。
 9.聖化とは心からの謙遜であるとの認識。
 10.神こそ唯一のまことの愛なり。


 個人的な急所といたしましては、聖書をそのまま律法化し、絶対に守らなければならない法律書というふうに解釈することを忌避し、聖書以上に愛なるイエス・キリストがもしこの場におられたら何を思い何を感じるのかといったところを優先する、というところでございましょうか…。
 つまりイエスであったら決して人を裁かぬであろうとの認識でございます。信仰を根拠にして他者を裁くクリスチャンに対してはお怒りになるであろうが、しかしいかなる悪人・罪人・偶像崇拝者であろうと彼は決して裁かれず、慈しまれ、憐れまれ、その者が神に立ち返るよう切に祈られるのみであろう……という価値観を聖書の細かい文言以上に大切に思うことが、信仰の深化の一過程であると個人的には考える次第でございます。
3月22日―進化的創造論と信仰的創造論―

 進化論と創造論をめぐる議論について、「進化的創造論」立場の考古学者の教授(金沢医科大学で人文社会系の講義を担当されているらしいクリスチャンの方)が書かれたエッセイをインターネットで拝見いたしました。久しぶりにこの議論に触れてみて、あらためて自分の考えが整理された次第でございます。
 断片を引用するならば、以下のような感じでございます(引用元リンク)。太字はなんとなく私がつけさせていただきました。

ーーー

創造論者は、「サルからヒトへ進化したなんてとんでもない」と憤慨し、「サルはサル、ヒトはヒトとして初めから創造されていたのだ」と主張する。しかし、ヒトがどんなに原始的な生物から進化したとしても、生物創造の最初の時点から、ヒトに進化する種も、サルに進化する種も、それと定めて創造されていたとするならばどうだろう。この進化的創造論では、サルの祖先とヒトの祖先は過去にさかのぼるほど近似するかもしれないが、けっして共通の祖先にたどりつくことはないということになる。
ーーー

聖書を「信仰の誤りなき規範」とする信仰告白は、聖書が科学書として誤りがないと宣言しているわけではない。聖書には、その書かれた時代や社会の知識・習慣・環境などが反映しているから、現在の科学知識に反する記述があっても不思議ではない。

(中略)

「聖書の記述に一部でも誤りを認めると、正しいかどうかの判断が神にではなく人間によってなされることになり、確かさの根拠が失われるから、聖書にはあらゆる点で誤りがないとしなければならない」と主張する人たちがいるが、はたして聖書とはそのようなものであろうか。そのような主張は、私たちが手にすることのできる聖書がどのような歴史をへて現在のような形をとることになったのかを考えてみただけでも、妥当ではないといえる。神の御導き、聖霊の御働きによるとしても、人間の手によって記され、編集され、翻訳される以上、なんらかの誤りが生ずる可能性はある。にもかかわらず確かさの根拠を聖書に求めることができるのは、それが記された時点はもちろんのこと、その後もたえざる聖霊の御働きのもとに読み解かれてきたという信仰に裏打ちされてのことだと思う。

ーーー

 おそらく文芸部の先輩のNeleusさんが創造論者に対して抱かれておられるご見解に近しいように思われます。この方のさらに明確な立場を引用してみますと、

「――神の存在を科学的に証明することはできないし、神の存在を信ずるか否かは科学の問題ではない。だから、科学としての進化論と宗教としての創造論を区別するとともに、両立の思想をひろげ深めることがキリストの福音をのべ伝えるうえでも好ましいと思う。」

 なるほど、確かに科学と信仰を両立させようとするそのスタンスは調和が取れていて素晴らしい! と思う次第でございます。信仰と進化論が見事に両立しているさま、そして客観的視点による中立的・平和的スタンスはクリスチャンらしくて好感がもてる次第でございます。


 しかしながらやはり私の胸にはひとつのしこりが残るのでございます……。それはすなわち信仰とは果たしてそのようなものなのか……という信仰観の違いでございます。
 この疑念こそが理系的人間と文系的人間との本質的差異なのではないかとなんとなく思う次第でございますが、つまるところ、文系的人間たる私といたしましては、結局よく分かっていないことだったら聖書をそのまま信ずることこそ信仰ではないでしょうか……というところなのでございます。
 もちろん無知で信じやすい幼児などとこの問題に戯れる場合においては、おそらく私も上記に挙げた考古学者の方のようなスタンスを取るのではないかと想像してしまいます。しかしこの方のような「進化的創造論」によって中立の説明をしたあとにやはり「信仰的創造論」みたいなものを付記せざるをえない次第でございます。

「…つまるところ自分は科学者ではなくどちらかというと文学的理想論的傾向のある人間であるからして、神の愛というものを出来るだけ純化して受け止めたいと考えている次第でございまして…」

 というような感じでぜひとも付記しておきたい次第でございます。

「科学の分野においては、生命は原始的存在から進化して今の複雑な生体機構を獲得するに至った可能性が高いとされるようでございます。その理解をおしすすめるならば、神がわれわれを造ってくださったというのは、ヒトという種にいたる原始的生命を創造され、そして神の導きによりヒトという種にいたったということでございます。猿や類人猿にいたる種とは起源が異なるということも十分考えられますので、神が今ある種を天地創造時に造られた、という考え方と矛盾はしないでございましょう」

「科学と信仰は矛盾しない。この考え方は信仰者としておさえておかねばならぬところでございます。神のつくられた摂理を説明する科学と、その摂理が神によってつくられたと信じる信仰は矛盾しないので、科学分野において進化論に牙を剥く創造論の闘争がそれほど重要ではないということを幼児たる君たちも知っておくべきでございましょう」

「しかしながら大進化などの実証不可能な問題におきましては、科学分野においても結局のところ仮説にすぎないのですから、その進化的創造論が説明するように神が御業を働かれたかの真偽につきましては当然不明でございます。蓋然性は高いかもしれませんが、もしかしたらパッと神様がおつくりになったかもしれないのでございます。その真偽は不明なのでございます……」

「しかしある1つのことの真偽は確定しております。神はわたしたちを愛されておられるということ、これは真実でございます。ヒトがいかにして造られたかという問題は、この大きな真実に比べるとその真偽はまことに不安定でございます。ですからして、わたしたちはこう言ってみるのもいいかもしれません。神様がどうやって私たちを造ったかは人間にはおそらくわかりません、と。これがもっとも誠実なる態度でございましょう」

「そしてさらにこう付け加えておきましょうか。愛する神様がどのようにして私たちを造られたかはわかりません、進化的創造論で説明されているようになのか、聖書のとおり神様は塵をこねて《ご自身の似姿である》アダムをお造りになり、アダムの肋骨からエバをお造りになったのか。それは本当にわかりません。聖書を字義通り解釈するのが正しいのか、それとも聖書のある部分を比喩で読み通すことがありますように、創世記におけるアダムとエバをお造りになった部分も比喩とみなすべきか……」

「ですけれど、どうしてもわからない問題に関しては、私たちは聖書を信じたいと思います。だって、結局わからないんだったら、神様が私たちに与えてくださった聖書を信ずるしかないじゃないですか、と……。神様はね、《きっと》アダムを聖書のようにお造りになったんだよ……。それでは幼児の皆さん、進化論と創造論の無意味な戦いは今日でおしまいにしましょう! 科学においても進化的創造論として1つの《信仰的な》仮説が十分成り立ちうるのですから。同じキリスト教信仰なのですから、リベラルなクリスチャンが進化的創造論を選択していることに対して、私たち聖書主義的人間がそれに違和感を抱いたとして、しかしそれは大好きなカレーを食べるときにニンジンをひとつ多くお皿に盛るかジャガイモをひとつ多くお皿に盛るかの違いにすぎないのかもしれませんよ!」


※この日記は、創造科学的創造論が科学的でないという趣旨の記事ではございません。

(天地創造時、神が今ある種をそのままの形でお造りになったことを科学的に証明する科学が創造科学でございます)

 引用元の方が進化的創造論を選択されておられたので、進化的創造論を科学分野に矛盾しない創造論として挙げたのでございますが……科学分野における創造論としての創造科学的創造論も、人間がいかにして造られたかを信仰と科学の両面で検討する際に当然考慮対象になりうる説であるように思われる次第でございます。
 しかしながら、今のわたくしには創造科学的創造論が科学分野に矛盾する・しないは正直よく分からない次第でございまして……だからして、創造科学的創造論はやはりまだ市民性を獲得していないとの考えから、市民性を獲得している進化論と創造論を合体させている進化的創造論を科学分野における創造論の代表として挙げた、というところもある次第でございます。
2010.03.24.―祈りとは何か―

 祈りとは、祈る必要が根本的なところで生じなければ、決して行われる行為ではないのでございましょう。そして根本的なところで「祈らねばならぬ!」との思いが湧き上がるときというのは、おそらく真実、祈りでもってしか対抗できぬ何かが眼前に現れたときのみである、といっても差し支えないでございましょう。
 では、祈りでもってしか対抗できぬ何かとはなにでございましょうか……。今思いますに、本来抽象的なものであり神秘的なものであるはずのものが、しかし眼前に具体化しているという恐るべき馴染みのない奇妙な何かが、果たしてそれではございませんでしょうか。

 死、病、不幸……これらが誰かに対し、真なる恐怖をもって肉薄しているのを目の当たりにしたとき、我らに何が出来るか、という問題がございます。慰めの言葉をかけるのか、何か行為としての慰安を与えるのか……。
 しかしながら、それらの恐怖がもし自分自身に起こったことであると考えたとき、(外的救済手段を考慮し尽くしたのち)最終的に自分自身は祈ることしか出来ず、最終的にその不条理かつ奇妙な恐怖を打開・緩和するには、われわれすべての人間どもの協力一致の大きな祈りを知るしかない、という結論が導き出せるように思われる次第でございます。祈りというものこそが、抽象的観念が具体化して現れた何者かに対して対抗できる、唯一の力ある措置なのであると、やはり思わざるをえない次第でございます。
 というのも、精神の取り扱いは精神から発し、肉体を通して精神によってなされ、その真摯な精神の行き着く先はどうしたって祈りという迫真の精神なのでございますから……。

 わたくしたちは肉体のうちに住んでいると錯覚しがちでございますが、しかしながらわたくしたちは肉体と精神のうちに住んでいるのでございます。祈りというものは精神の修養であり、精神を考慮する人間のつとめであり、鬼気迫る祈りなくしてどうして他者の精神を本質的に慰めえるのでございましょうか。

 わたくしどもは恐怖という観念が現実として具体化する現場にそれほど出会いませんので、どういうわけか現実の自分に肉薄してくるその観念というものを想像できないでいる次第でございます。
 しかし苦しんでいる人間たちのうちでより一層苦しんでいる方々というのは、われわれの肉体的な日常体験と異なり、現実化する観念というものに苦しんでいるのではないでしょうか……。病と闘っている人間、障害に苦しんでいる人間など、彼らは恐るべき見えない何かが現実的に自分を攻撃してくる様子に震えおののいているのであって、それは現実と直面せねばならない闘争というよりは観念と直面せねばならない闘争であるように思われる次第でございます。

 ある観念に直面せねばならぬとき、人間は何を求めるのでございましょうか。彼ら人間が求めるものは、その恐怖の観念に対抗しうるだけの救いと解放の観念でしかやはりありえず、そのとき人間は、救いを求めてはじめて祈るのでございます。祈りの対象はさまざまでありますし、その祈りを呼び起こす恐怖もまたさまざまでございましょう。
 しかしながら、おそらく人間は一生のうちに一度だけは鬼気迫る精神でもって祈るのでございます。それは自分の死ぬ直前でございます。死ぬ直前、人間は自己の救いか他者の救いか何かを、必死の極致の思いで瞬間的に祈るのでございましょう。
 それが瞬間的な祈りであろうとも、彼らは祈るのでございます……。キリスト教で申し上げますならば、死の直前の病床洗礼というものがございます。病床洗礼を決意するまでの祈りという行為は、まさしくその人間の一生を賭した切実極まりない祈りであり、それを否定する人間はまさしくその人間の一生を否定する者であり、そして観念の具体化なるものを想像できない者ではございませんでしょうか……。

 恐るべきことに観念は具体化するのでございます。人間は肉体であり精神であり、うんぬん、でございました、ということを、ユーチューブの「アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズム」(ユーチューブ)や好地 由太郎(「日本キリスト教人物史」というサイトから)という昔の巡回伝道者の壮絶な信仰を見て思ったということでございました。

 つまるところ、信仰とは観念による観念に対する戦いであり、なぜ観念でもって人生を闘うのかといいますと、神という観念でしか対峙しえぬものがあると彼らは強烈に認識しているからでございます。


ーーーー

 明治16年(1883)4月12日ごろ、22,3歳くらいの青年が入獄してきた。由太郎が、さっそく牢名主として青年に「娑婆で何の悪事を働いたか」と問うてみれば、青年は「何事もしていません」と対応した。由太郎は監房のものたちと一緒に立腹して青年を袋叩きにした。ところが、青年は豪傑ぞろいの囚人に抑えられながらも「わたくしはここで殺されても天国に参りますが、ここにいる方々は神を信ぜぬ罪人です。どうか、この方々の罪を許してください」と小さな泣き声を出した。実は、泣き声は祈りであったのだが、当時の由太郎にはわからなかった。

 騒ぎを知った看守は青年を他の房へ移そうとして引き立てた。由太郎は不思議な心騒ぎがして、引き立てられていく青年の袖を捕まえ「どうすれば君のような心になれるのか、教えてくれ」と熱心に問うたところ、青年は戸口でたった一言「耶蘇教の聖書をお読みなされ」と答えて去った。そのとき由太郎には、聖書に出てくるステパノが石をもって殺されそうになりながらも、殺そうとしている群衆のために神にとりなしの祈りを捧げた姿を青年に見出すことなどできる由も無かった。

 青年は、路傍伝道で耶蘇教(キリスト教)について語っているときに巡査の命令に服さなかったために官吏侮辱の違警罪で投獄された。取扱上の手落ちで重罪犯の監房に入れられた。入房して出て行くまで20〜30分間の出来事であった。本人はもとより誰の目にも心にも、このとき由太郎がのちに監獄巡回の伝道師になるとは想像だにしていなかった。

ーーー

 死を賭けた壮絶な由太郎の信仰生活の、以上のようなはじまりを振り返ってみて、ほんと泣ける次第でございます…。
 18歳で強姦・殺人・放火の罪を犯した好地由太郎は無期懲役の獄中における青年との出会いののち、聖書を読むために文字を必死に習い、獄中で死ぬほどのリンチをされながらも信仰を手放さず、病死する者の多い独房を志願し、独房の劣悪な環境によって足が腐ろうとも聖書を読む時間ができるならと数年間過ごしてほぼ聖書を暗記し、覚えた文字によって自分の罪の被害者の方に謝罪とわずかながらの金銭を同封した手紙をおくり、しかしそれでも自分の罪がぬぐえぬことを思った由太郎は……というような感じでございます!
 塩狩峠より全然泣ける……と思った次第でございます。仮出所して後、不幸すぎる瀕死の妻(捨て子であり、男性に暴行された際の頭部の打撃により知的障害になり、くわえてトラホームという眼病にかかっている)との昼夜を徹した一心不乱の祈りの場面など、まさに涙腺を刺激させられる次第でございます。

ーー

断食も行い、昼夜絶えることなく祈りを熱くして夫婦で神に感謝を捧げ讃美歌を歌った。妻は自分の病状を尋ねた。由太郎は、「せっかく自分のところに来てくれたが、まもなくこの世を去らねばならない状態だ。神の国へ行けるか」と妻に問うと、妻は答えた。「まことに長くお世話になりました。わたしのような足らないものを今日まで愛してくださってお礼申し上げます」と。そして自分のために夫や母に難儀させたことを詫びたいから「お母さんにあいたい」と、付け加えた。

 由太郎は妻の願い事に胸を打たれた。自分のために23年間泣き通した母の恩愛を思えば、母のもとに踏みとどまるべきだったと、また哀れな妻を自分が愛していたと思っていたが、霊魂の哀れな自分こそ妻に愛されていたことに気づき、妻への感謝がこみ上げてきた。

ーー

 というわけで、祈りは大切だ! と思ったということでございました。
2010.03.28.―聖化について、人工妊娠中絶について―

 最近の関心事は正直申し上げますと祈りにしかございませんので、祈りとは何ぞや……と相変わらず考えさせていただいている次第でございます。
 祈りとは人間の精神が聖化していく際にもっとも必要なものでございまして、祈りをせずに信仰が深まるわけもなく、また聖化を求める祈りをせずして聖霊なる神から聖化を与えられるわけもないのでございます。

 ここでいう《聖化》とは何かと申しますと、まさに身も心も全能なる唯一の主に捧げることでございまして、「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加える」(第2ペテロ1:5〜7)ことでございます。
 最終的に、まっこと愛に帰結せずにはおられないというのがイエス様のお教えでございますので、やはり愛に行き着くのでございますが、しかしながらその愛に行き着くまでに「信仰・徳・知識・自制・忍耐・敬虔・兄弟愛」を各個撃破するかのごとく獲得してゆかねばならぬのでございます。

 一方で、このような「せねばならない」という思考はクリスチャンによくある思考であると同時に、注意せねばならぬ思考でもございます。つまるところ、「せねばならぬ」という義務感によって「しようとしない」他者を批判してしまう悪癖が、わたくしどもクリスチャンにはままあるのでございます。
 だからして、クリスチャンたちは迫真の祈りをもって愛を磨いてゆくのでございます。他者に対する愛を獲得し、他者には愛をもって接し、信仰の弱い、不敬虔なものたちを愛することによって導き、加えて未熟な自分自身もその愛によって導いてゆくのでございます。
 「せねばならぬ」ことも実行できない自分自身の罪性を認め、しかしその自分さえも神は愛してくださっているのだという真の悔い改め、聖化を求める祈り……これを数年、数十年繰り返すことによってのみ、精神の聖化は導かれるのでございましょう。


 近頃はクリスチャンの端くれでございますわたくしも、ようやく全てのことどもにおいて主に祈りながら行動できるようになりかけておる次第でございまして、そのつど生命の意味というものを思っている次第でございます。
 つまるところ、たいした存在意義もない人間がなぜかくも大量に生かされているのかという事実は、その存在を造りたまいし主を褒め称えるためでございます……というクリスチャンらしい敬虔な心に思いを馳せている次第でございます。

 とくに先日、受精してから12週間から13週間ぐらいまでの成長していく胎児の過程を描いた動画をユーチューブで拝見したとき、この小さき軟体動物はまさしく人間である、ということを思いのほか衝撃的に拝見したのでございます。
 以前塾生の保護者と雑談をしているとき、保護者の方から「やっぱり私も子供は神様からの授かりものだと思っているから」という言葉をうかがいまして、わたくしは「一般の人間も神様などという言葉を普通に使うのか!」と衝撃を覚えたことがございますが、なるほど、胎児の成長過程を具体的に拝見してその意味をおぼろげながら理解した次第でございます。たしかに、この不思議な生命の発生過程は人智の及ぶべくもない……みたいな敬虔な気持ちが生じてくる次第でございます。

 その動画をみた結果、やはり中絶は殺人行為だなあ……と一種の直感的確信を得てしまったのでございます。恐るべきことに、12週間ぐらいで子宮のなかを飛び跳ねて遊んでいるかれらは受精した瞬間から明らかに人間でございまして、子宮内での胎児の成長は、わたくしどもが赤子から老人に成長する過程とまったく同一の成長過程といえるのではございませんでしょうか。
 存在からして、それはつまるところヒトなのでございます……。
 その人間のかたちをすでにしている人間存在を、残酷にも掃除機みたいなもので吸引したり(吸引法)ペンチみたいなもので引っ張って分解したりする行為(掻把法)は、生命の尊厳をあやうくする行為であると同時に、やはり罪深き人間の罪であるように思われる次第でございます。
 
 存在としての胎児の生命を守るためにも、小さないのちを守る会の方々にはこれからも頑張っていただきたいな…とひそかに思った次第でございました。

●参考動画:胎児が成長してゆく過程(ユーチューブ)
     :妊娠12週目の胎児が飛び跳ねている様子(ユーチューブ)
2010.03.30.―『7月4日に生まれて』視聴―

 『7月4日に生まれて』を十年ぶり以上くらいに視聴させていただいた次第でございます。
 小中学生ごろに視聴いたしましたときは、それほど面白くない映画だなとの感想を抱いたのでございますが、今回視聴いたしましたときは前半の結構な面白さと後半の政治的展開の結構な疑問といいますような…不思議な感想を抱いた次第でございます。

 思いますに、最後まで個人的激情でトム・クルーズは人生を生きるべきでございました……。
 映画の前半は、まさしく愛国心に燃える若き青年としての国家に殉じることの恐怖、熱心なクリスチャン家庭で育った青年としての戦争・殺人への恐怖、一途な恋愛を欲する青年としての彼女と別れたくないという思い、これらが渾然一体となってトム・クルーズの内部で渦巻いております様子がひしひしと幼少期からの描写で視聴者には伝わってくる次第でございます。
 そして映画中盤における、トム・クルーズが誤射で仲間を撃ち殺してしまい、また民間人を殺してしまう部分がトム・クルーズの個人的激情の最後の発露……という感じでございまして、残り一時間半はほとんど反戦思想家に傾いていくトム・クルーズの悲しい末路の表現…といったところでございました。

 つまるところ、帰還兵としてベトナム反戦運動を展開していくトム・クルーズの「国家に騙された!」と感じる感情・傾向は、それこそかつて愛国心に燃えていたころの過ちとまったく類似する感情ではないか……と思わざるをえない次第でございました。
 しかしながら、序盤に見られるトム・クルーズの儚き大衆としての愛国心は、自分自身の内面に向かってその矛盾が別の観念によって漠然と糾弾されていたからこそ、見るべきところがございました。彼はたしかに葛藤しておったのでございます。
 一方終盤になってしまいますと、もはや確固たる思想として、何の迷いもなく、「真実を語る」などと断じて「反戦」というプロパガンダをトム・クルーズが述べていくのでございます。

 戦争は確かに犯罪でございますが、トム・クルーズの反戦運動家としての活動ぶりは、やや大衆を扇動するがためのパフォーマンス的側面がございまして、そこら辺が逆に大衆の「真実」に対する理解を妨げてしまっているように見えた次第でございます。
 トム・クルーズは自分の感じた「真実」を個人的に訴えるべきであり、決して大衆を扇動するような形で訴えるべきではなかったのでございます。「大衆のまえで立派に演説する」ことがどういうわけか強調されておりましたが、果たしてそれがベトナム帰還兵としての主人公にとっての真実の反戦なのか、疑問でございます。
 一般大衆として反戦するべきである、「全アメリカ国民の前で話せて名誉だ」とか緊張の面持ちでインタビュアーに答えている場合ではない! ――最後、視聴者はきっとこのように思いながら車椅子に乗ったトム・クルーズが演説する姿を見つめ、感動的なエンディングの音楽を迎えるのではないでしょうか、といった感じでございました。

 しかしながら、トム・クルーズが下半身麻痺の帰還兵をいわゆる名演されているのは疑うことあたわじでございますので、トム・クルーズ好きならば良い映画である、といった感じでございます。トム・クルーズさんはディカプリオなみに万人が納得できるような魅力を伝えてくださる俳優さんでございます……。


 それにしても映画音楽は良い曲が多いなあということも思った次第でございまして、映画『ピアノ・レッスン』のテーマを久しぶりに無限ループで聞いてしまった次第でございます。
 ピアノレッスンのテーマはまさに芸術的なピアノでございまして……ピアノって実は素晴らしい楽器だったのか、ということをあらためて認識させてくれるような不思議な曲でございます。  ユーチューブにアップされている動画は映画のカットをいれたPV的な感じでございまして、いまだ見たことのないピアノレッスンのあまりに芸術的なつくりっぽいところに感動する次第でございます。

 参考動画:ピアノレッスンのテーマ Michael Nyman
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