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2010.06.02.―機動戦艦ナデシコ―

 自動車を運転しているときに楽しむものといえば音楽ですが、先日、知名度からみたときおそらくエヴァの後継的SFアニメであるところの『機動戦艦ナデシコ』の主題歌「YOU GET TO BURNING」を傾聴いたしまして、ナデシコの可能性を再発見した次第であります。
 主人公テンカワアキトくんの可能性はそれはそれは大層なものでして、かつて、俗世のナデシコSSでは黒アキトと黄アキトの邂逅がもてはやされたものです。すなわち人体実験とかそれ系の捕虜虐待をうけて荒んでしまった劇場版テンカワアキトくん(黒アキト)と、アニメ本編における健全な、この世に善も悪もないからどうのこうのと戦争終結のために和平交渉に励んでいたテンカワアキトくん(黄アキト)とがそれぞれのエートスをぶつけ合い、主に黒アキトくんのマキャベリズム的思想が勝利するというSS界の風潮があったのでありました。
 主人公テンカワ・アキトのキャラクター性に関しては非常に同情的・肯定的に描かれていたナデシコSSでありますが、それとは対照的にホシノ・ルリやミスマル・ユリカといったヒロイン連中の人格は一般的に軽侮されておりました。アニメにおける彼女たちの感情先行型の振舞いから、SS作家たちは、彼女たちをいっさいの思想を解さない、それゆえ人間精神の深遠を解さない人格として描く……ひとつの真実を描写する決意をしたのでございます。

 そのSS作家の姿勢は、18世紀の啓蒙主義が理性(あるいは経験)によって外界のすべてを説明できるとしたことに対して、ロマン主義が「想像力」の重要性を説くごときでありました。
 理性は理性によって把握できる範囲に人間精神を制限してしまう……。理性によって把握不可能な無限の何かは、日常などの有限なもののなかに現存しており、それは感情と想像力を通して知られるのである。
 ジョン・キーツというイギリスロマン主義の詩人はこう言ったのです。「私にとって確かなのは、心の感情の聖性と想像力の真理だけである」と。

 へー、そうなんですか……。
 というところですが、ミスマルユリカやホシノルリには、その「想像力」の重要性はきっと理解できなさそうだなというSS作家の深い洞察と認識があり、だからこそユリカやルリは、一種のやられ役として物語に配置されたのであります。

 しかし、そもそもヒロインがやられ役として配置されることはSS界において非常に一般的であり、ナデシコのルリやユリカだけではないということも忘れてはなりません。
 有名なところでいえば、エヴァのミサトさんバッシングがあります。アンチ・ミサトSSは、SS界において公的なスポーツとして論じられるほどであり、それはSS作家の貴族的たしなみという風情がありました。ミサトさんの言動の粗探しをし、理路整然と論理的誤りを指摘することがわれわれSS作家の学問であり、ミサトさんとは異なる作戦案を提示することが、われわれSS作家の想像力の訓練でありました。
 しかしもちろん、ミサトさんがバッシングされればされるほど、ミサトさんの潜在的価値は高まっていったのです。その価値を再発見したのがエヴァSS第3世代あたりのSSとして有名な、逆行シンジがミサトさんに憑依するSS――「シンジのシンジによるシンジのための補完」だったのです。
 残念ながらいまは読めないようなのですが、このSSは非常に革新的なSSであり、当時エヴァSSに飽いており、いまや時代の寵児は「ネギま!」SSであると歴史の無常の流れを痛感していた古のSS読者たちは、新しい画期的な哲学としてこのSSを受け入れました。シンジくんがミサトさんの立場に立つことによって、ミサトさんの心情が共感的に描写される。これ自体がすでに新しく、そしてかつてのミサトさんの言葉をシンジ君は思い返すのです。ああなるほど、ミサトさんは……とこうくるというわけです。
 …批判的エヴァSSの読者をして「心がやさしくなれる」と言わしめたほど、作者の姿勢は愛にみちておったのです。

 アンチにはじまり愛に終わるという哲学的流れはおそらくエヴァやナデシコだけにあったのではなく、『GS美神極楽大作戦』のSSでも若干その傾向はあったように思う次第であります。時代が過ぎるにつれ、アンチから原作主義へとSSの全体的傾向はうつりかわっていったのかもしれません。原作至上主義は、SS黄金期においては蔑視されていたところがあります。想像力の欠如であるとの指摘があったのです。
 しかしながら、SSの主要作家層が30代から20代、20代から10代へと退行していき作家の批判的観点が薄れていったこともあって、また過激なアンチの反省もあって、SSというものは童話じみたものとなっていったのでございます。

 結局、エヴァSSに起源が求められるアンチSSは歴史のなかに埋もれていき、永続的な読書に耐えられるSSは、やはり愛にみちた創造的なSSでございました。それはかつて名作を量産したトータスさんの「Vulnerable Heart」を頂点とした作品群であり、1990年代に連載がはじまり今なお意欲的に更新が続けられているGenesisQ'の「Lost in PARADISE」でございましょう。これらの作品が、エヴァSSの創作的原点でありつづけることは想像にかたくない次第であります。(了)

ーーー

 ただいま歴史神学の分野における近・現代の項を読んでいるのですが(『キリスト教神学入門』)、そろそろマルクス主義が登場するようで面白そうでございます。マルクス主義が神学にいかなる影響を与えたのか……興味が尽きない次第であります。
2010.06.03.―ハーメルンのバイオリン弾き、再―

 深夜――。チワワの子供に手ずから哺乳するという保育師的任務を与えられた私は、真夜中ごろ、次のチワワ哺乳タイムが刻々と迫る中、神の真理を見出さんとしてひたすら漫画を読んでおりました。その漫画とは『ハーメルンのバイオリン弾き』でございます。
 『ハーメルンのバイオリン弾き』の盛り上がるところ、14巻から最終巻の37巻まで、チワワの子育てに忙しい国政に携わる財務官僚のような心もちで読んでおりました。
 それも面白いところしか読まないという頑固な大工さんの心もちでもあったため、2時間程度ですべて読んでしまったのですが、これはとにかく売れる……と静的な確信に支配された次第です。

(今アニメ化しないでいつアニメ化するのか)

 とさえ思い、ギャグパートでキャラクターがデフォルメ化する原作の方法をアニメでは無視し、真剣なシリアスパートの面持ちでギャグをするよう、演出指示を京都アニメーションの監督に与えてまでおりました。
 古くて新しい、「ロミオの青い空」に匹敵する世界名作劇場を基盤とした物語が出来上がったと、京アニの監督さんは自負に満ちた微笑を私に見せてくれたのです……。


 ハーメルの世界観は、モンスターや魔王などといった旧態依然としたファンタジー世界を引用することによって非常に安定しており、読者は苦もなく作品世界に案内されるのであります。

(中略)

 というのも、この自由な創作的感性は一種同人誌的であり、また作者と読者の密接な相関関係を生み出すものであるからであります。作者が、ときに自分の作品の一読者として二次創作的に紙面を描いている趣があり、つまるところハーメルの二次創作的ギャグをハーメルのなかで描いているのでございます。

(中略)

 このシリアス部分に関する読者の「疑いようもなく暗鬱なシリアスだ」という納得もまたハーメルの面白さの大きな一部分であり、このシリアスがあることによって、暗鬱な雰囲気を打破する二次創作的ギャグのおかしさが清涼剤として活きてくる次第です。

ーー

 二時間ほどハーメルレビューを書いておりましたが、あまりにダラダラしてしまったので、遺憾ながら省略いたしました。

 とにもかくにもハーメルのギャグ的面白さとストーリー部分における道徳的啓蒙性とは、この世の児童にとって普遍的なものであると確信するにあたり、一刻も早い再アニメ化が期待される次第であります。
 またアニメ化の際には、絵柄の古さを緩和するためにギャグ部分における原作絵を改善する必要があり、加えてハーメルの物語内容が本質的にきわめて真面目なものであることを考えて、暗めの色彩で画面を覆っていただきたい次第でございます。
 おそらく原作の雰囲気どおりアニメ化すると、画面がスレイヤーズ的色彩になる恐れがあり、その安っぽさを回避するための手段を監督さんと模索していきたいと考える次第です。(了)


●参考動画:【MAD】ハーメルンのバイオリン弾き〜二人に祝福を〜
2010.06.04.―正確な表現を模索した日のこと、そんな日のこと―

 本日久しぶりに秋田の友人とお話をいたしました。
 その際ふとしたきっかけからbraveheartくんのお話になったのですが、私はbraveheartくんの精神疾患である広汎性発達障害について、この機を用いてあまねく言及したのです。
 そしてブレイブハートさんがいかに差別や誤解を生みやすい人間であり、いかに保護すべき人間であり、いかにその人生において理解者と指導者が必要であるのかを、武市半平太のように力説した次第でございます。
 ブレイブハートくんの心情と性質はこうであり、他者からはこう認識されており、だからわれわれはこうすべきであり、こうしてはならない!

 一通り説明を終えると、友人はためらいがちにこうおっしゃいました。

「ブレイブハートくんのことが心配なんだね」

 私はその言葉をお聞きして、自分の心境とは微妙に異なるものを感じました。そのときは残念ながら微妙な差異の原因に心当たりがなかったので、ぼかして答えたのですが、しかし後でよくよく考えた結果、自分の心境を理解したように思うのでございます。
 その心境とは以下のようなものだったのです。

「ブレイブハートくんを心配するという感情も私のなかにはあるのですが、しかしブレイブハートくんに対する同情とそれにもとづく支援を惜しまないという『心配』の感情は私のなかではそれほど支配的ではありません。むしろ、ブレイブハート君の精神疾患を理解しようとしない大衆に対する『義憤』が支配的なのです。
 なぜそのような義憤を抱いてしまうのかと申しますと、私が精神的領域に対して非常に大きな興味をもっているからです。また発達障害に対する無理解は単なる勉強不足として、私のなかで認識されてしまうからです。ウィキペディアで勉強してから出直して来いという感情が芽生えてくるのでございます。

 つまるところ、精神というものが自分の興味の対象であることから、精神疾患というやや特別といえる常識を他者に求めてしまい、結果として私はブレイブハート君に対する差別に義憤を覚えるのでございます。『心配』という感情は、私の感情をぴったり言い当ててはおりません。『心配』は下位の感情であり、そのような『心配』を引き起こすもとの原因――これに対する『義憤』の感情が上位にあります」

 なんとなく言い当てていない印象を受ける記述ですが、8割がたそのような感情でございました…。
2010.06.11.―ヘフナーのバイオリンベース―

 「ポストモダニズム」というとても語呂のよい、スマートかつアグレッシブな言葉を聞かれたことのある方も大勢いらっしゃるかと思います。
 私もまた

「ポストモダニズムね……はいはい。うちの店にあったかな、ヘフナーのバイオリンベースなんて」
「ヘフナーのバイオリンベースでなくては駄目なんです」

 と、かわぐちかいじがモーニングで連載しているタイムスリップもの第2弾『僕はビートルズ』の主人公のような断固たる表情で、かつてポストモダニズムという勇ましい言葉を聞いたものでした。

「恐るべきことに、やつらの音楽には日本臭さが一切ない……。マコトは『yesterday』を夢のなかで聞いて作ったらしい」
「ええ、彼らは天才よ……」

 という感じでございます。つまり、マコトとショウはビートルズのデビュー前(1961年)の日本にタイムスリップしておりますので、そこでビートルズより先に、ビートルズとしてデビューしようとしているのです。
 そこで本物のビートルズと対決して、誰も聞いたことのないビートルズの新曲を聞いてみたい……と泣けるビートルズ愛を発揮しているのでございます。
 これからマコト(ポール・パート)とショウ(ジョージ・パート)のビートルズとしての快進撃が始まると思うと、まさに大手SS投稿サイトのアルカディア的作風である……げにまっこと痛快なほど大衆的である、と胸弾む思いであります。


 そういうわけで、私はポストモダニズムという用語をいつもの『キリスト教神学入門』の歴史神学の項でお読みしまして、自分がこのポストモダニズムという時代にまっこと影響されていることを覚えて恐怖したのです。時代というものから脱却することは人間には不可能なのでしょうか……。

 引用いたしますと、このように著者のマクグラスは記述しております。


 こういうわけで、真理の問題に関してポストモダニズムは初めから相対主義あるいは多元主義になることが決まっているのは明らかであろう。(中略) 
 こうして、あらゆる解釈は等しく有効であるか、あるいは等しく無意味である(これは、あなたの見解次第である)。……ポール・ド・マンが言うように、「意味」という考えそのものにファシズムの気味がある。……「メタ物語」、つまり、意味の発見のための普遍的な枠組み……一般化する物語は権威主義的であるとして退けられる。意味を「見出す」どころか、そのような物語はファシスト的なやり方で意味を押しつけるのである。



 なるほど、ポストモダニズムにはソシュールが初めに展開した構造言語学的視点があるらしいのですが、つまるところ言語っていうのは恣意的なものであって、記号内容とその内容の表現方法の関係性に、普遍的なものはないよっていうのがそれらしいのです。
 その構造言語学が文化や社会に意味はないから!っていう思想に繋がっていくようでして、神学的にもそのポストモダニズムの影響はあった……ということのようです。

 それはともかく、引用であげた「真理の問題に関してポストモダニズムは初めから相対主義あるいは多元主義になることが決まっている」というところの「決まっている」という記述の仕方にぎくりとするわけであります。
 確かに、それは決まっておりますよね……とうなずく心境でございます。
 決まっておりませんでしたら、それは異文化を否定することになってしまいますのでいろいろと問題があるように思われます。たとえば『悲の器』の主人公正木典膳のように「卑劣漢!」と女子大生にののしられ、「誰が言った! 今誰が私のことを卑劣漢と言った!」と偉大な教授らしく、戦時中の苛烈な思想弾圧も知らぬひよっこの女学生に対し恐ろしい剣幕で怒鳴るようなことが起きてしまうのです。

 しかしながら、私ども小さき者は福音主義的キリスト教徒であります。小さき者にとって真理はイエス・キリストであり、ただ聖書のみであり、真理は相対主義的なものではなく絶対主義的なものでございます。
 もちろん聖書だけではなく、聖書と無縁ながらも聖書的であるもの――喜ばしいことにこれも真理の一端を担うものとして伝統的に解釈され、受け入れられているように思われますが、しかし悪魔的、あるいは非聖書的と思われる事柄に正当性をおくことはほとんど不可能に近いように感じられる次第です。
 また私自身といたしましても、非聖書的な行為や事柄というものは、真理という概念からはほど遠い、単なる人間の習性というものに感じられる次第であります。(先日、クリスチャンの友人と『ハーメルンのバイオリン弾き』が悪魔的かどうかについて、すなわち真理の一端がハーメルに内在しているか議論したのも懐かしい記憶です)


 ポストモダニズムのほかに、ポストリベラリズムとか福音派とかいろいろ同時代の思想潮流があるようなのですが、自分の所属する教会は福音派の思想的流れのなかにある次第でございます。  「福音派」という言葉はキリスト教界においてはよく使われる言葉で、聖書を神の言葉として誤りないものと定義している教団・教会を指す言葉です。いっぽう、「福音派」の対となる言葉で、「リベラル」という用語もよく使われます。
 「リベラル」は自由主義的という言葉として字義通り使われるのではなく、伝統的教理に懐疑的であるといったニュアンスをこめて使われる言葉であります(たとえば創造の教理など。進化論を認める教会は「リベラルだね」と福音派教会から指摘されるであろう感じです)。

 各時代を支配していた思想潮流をざっと読んでみまして、やはり自分の思想というものの検討と発表は慎重にせざるをえないものだなと思った次第です。
 というのも、教科書の記述を読んでおりますと、基本的にその時代の思想潮流というものは一時代前の思想に対する反抗の形をとっているように見えるからです。
 自分の神学的立場を決めるのは、ほとほと慎重でなければなりませぬ。福音派教会に所属しているからといって、とくに考えず福音派たる神学的立場をとることは、絶対の聖書的真理を探求する信徒としては不十分であるように感じる次第です。行き着く先は福音主義であっても、それが一時代の思想潮流であることを踏まえ、よくよく考えた末に福音主義的立場を取らねばならぬ……と思った次第であります。

 なぜ結局福音主義に行き着くであろうと想像するのかと申しますと、これはまさしくキリストのからだである教会――私の母教会と所属教会が福音派であるからであり、聖書の十全性を信ぜずしてどうして人間の魂の救いを信じることができようか、といういつもの主張があるからでございます。(終)
2010.06.12.―久しぶりの小説作業―



 信仰とは神に対する信頼であるが、その神は聖書の神であると同時に、個別具体的にわれわれに働きかける神でもある。


 言葉は全然違うのですが、大体そのようなことを記述しているクリスチャンのブログを拝見して、なるほど……含蓄がある、と思わされた次第です。
 つまるところ、上記の考え方は神学の歴史的な歩みに如実に影響されているからであります。「聖書の神」(聖書中心主義)というプロテスタント宗教改革的な考え方、そして「個別具体的にわれわれに働きかける」という敬虔主義的な神と人間とにおける一対一の強調、個人の宗教体験の強調――このあたりに神学の歴史的側面が現代において無意識に結実されている……と驚嘆するのです。

 しかし、だからといって神学が進歩しているとはなかなかいえないところがあります。そうすると進歩史観に陥り、人間中心的発想に繋がってしまからであります。
 かつて17世紀の啓蒙主義、19世紀から20世紀にかけての自由主義プロテスタンティズムにおいて、人間とそれに関わる文化や理性が神学において重視されました。結果として現在はそれに反抗する形で多元主義をうたうポストモダニズム、聖書内での信仰的完結をうたうポストリベラリズム、聖書の十全性を信じ、福音宣教の緊急性をうたう福音派が台頭して……と時代はうつりかわっておるようです。
 しかしながら、神の領域をあつかう神学において、正しい神学という方法はおそらく存在しないのでしょう。
 神学者は、ただ神を愛し、ただ自分の罪深さを神の前に告白することにおいてのみ、正しい姿として神の眼にうつるのでありましょう。

ーーー

 昨日久しぶりに小説を執筆した次第でして、小説っていうのは恐ろしいジャンルだなとあらためて感じました。小説というのは本当に作者の妄想に過ぎないものであり、しかもその妄想にリアリティを付与することを作者は危惧しない……。

 ※

 すると、次第に彼女はまぶたに涙を溜めていった。カエルのような瞳をぱちくり動かし、懸命に涙腺を締めつけているようだった。
「論理がすべてではありません、言葉の説得力がすべてではありません。私は聖書を信じております。心から神様を信じております。これが、わたしの根拠です」
 彼女は小さな背を曲げて、机のなかをまさぐった。そして中版聖書を胸の前にもち、腕を前に差し伸ばして村山くんに示した。
「神の言葉には権威があります。私はただそれを信じ、それを述べ伝えるだけです」
 村山くんはしばらく沈黙してから、「わかりました」と慎重に発音し、ゆっくり着席した。
 ここまで来ても、他のイリス教徒は気まずそうにしているだけだった。ぼくのなかに、それでもイリス教徒か、彼女を弁護してあげればいいのに、と思う気持ちはあるにはあった。でも、たしかに発言しにくい空気をぼくも感じていた。
 京藤えすてるがずっと突っ立っているのを見かねて、福沢先生が着席を促す。京藤えすてるはがっくり肩を落として、机の上で、亀のように縮こまった。その甲羅の陰には聖書があって、彼女は酷い近視の人が文字を読むときみたいに、聖書の表紙をじっと眺めている。
「村山くんの質問には、私が答えましょう」
 福沢先生が、失敗したな、というひきつった顔でイリス教の神について説明をはじめた。
 時々、京藤えすてるやイリス教の生徒に確認して話を進めていたが、ほとんどの人は先生の言葉に耳を傾けていなかった。というのも、その内容は神学の授業とさほど変わらないものだったから。
 授業はなし崩し的に終わり、最後、「それでは感想文を提出してくださいね」という福沢先生の涙声で授業は締めくくられた。
 ぼくは居たたまれなくなって、京藤えすてるの席の近くに行った。えすてるは、さっきと同じ格好で、聖書の上に覆いかぶさるようにうつむいている。
「お姉さまのおっしゃる通りだわ」
 とえすてるがうつむいたまま言った。
「まりあさんは何て言ったの」
 つぶやくような小声で聞くと、彼女も息を潜めて、重大な秘密を打ち明ける子供のように、声にならない声でこう答えた。
「地獄に行く人間は絶対に、絶対に、いる、とお姉さまが……」
 ぼくは唖然として、彼女の茶色い後頭部を見つめた。まりあさんの引き攣った笑顔と、柳のように細い肢体が脳裏をかすめた。まりあさんの顔は赤く火照っている。赤いカーテンが日差しを浴びて発色している。
 ふと、えすてるが顔をあげる。彼女のカエルの瞳は充血していた。
「聖書にも、そのように書いてあるんですか」
「はい、確かに……地獄に行く人々の姿は記述されています」
 彼女は悲しそうに微笑んで、そのとき、ちょうどカエルの瞳からすすすと涙がこぼれた。彼女は、何かの妖怪が自分の正体を隠すように、急ぎハンカチでそれを押さえた。

   ※
 
 というのを書いて、哀れな……と思いました。さまざまに哀れである!
2010.06.14.―愛の神と悪―

 この世に悪がある理由についてのキリスト教的問答。

  一、

A:虚無だ……。虚無的なものがこの世にはある。なぜ、この世に悪があるんだろう。
B:アウグスティヌスによれば、それは、サタンの誘惑の結果、人間が堕落したためです……。そこから罪が入り込んだのです……。
A:それじゃあ、どうして神が善く造ったはずのこの世界に、悪の権化であるサタンが存在したのだろう。
B:サタンはもともとは善き天使だったのです。それが神のごとく振舞うようになり、堕落し、離反してしまったのです……。
A:それじゃあ、どうして善き天使は、堕落してしまったのだろう。善い存在だったのでしょう。なぜ悪の方向に影響されるのだろう? 悪が存在しないと、悪に影響されないんじゃないか。
B:それは……。
A:創造の際に神が意思していなかった領域が、もしかするとあるんじゃないか。その意思しなかったものが、虚無という空間であり感情なんだ、きっと。真空に吸い寄せられるように、人間は虚無に落ち込もうとする。そして、それに対抗する形で、神の光、すなわち神の意思があるのだと、僕は思うよ。それを信じるというわけではないけれど、キリスト教と悪の関係を僕はそういうふうに考える。
B:神は全知全能です……意思しない領域など、ありません……。
A:じゃあ、なんで天使が堕落してしまったのだろう。
B:分かりません。

A:……。神が悪を造った意図があるのなら、それは最終的に人間や被造物のためでもあるということかな。
B:……。
A:そういうふうに解釈するなら、悪が存在するのも分かるよ。つまり、「善を選べ」という聖書の命令は、この世に善と悪がなければ成立しないわけだし、悪を知らなければ善も分からない。苦難を経験したキリスト教徒が、苦難のなかにおいてこそ神の愛と恵みを感じて、神に向って歩む決意をするのも、それで納得だよ。人間がそうなるために、神は悪をお造りになったんだ。
B:……。
A:でも、それだと、まずいな。苦難が人間の霊性を養うものだったら、大きすぎる苦難の存在がまずいことになる。ヒロシマやアウシュビッツの死者たちは、霊性を養う前に死んでしまった。殺人だってそうだ。事故死だってそうだ。……悪や苦難が意図されたとなると、その事件を知った第三者の霊性はともかく、被害者の霊性についてよくわからなくなるね。
B:……。はい。


  二、

A:……。違うふうに考えるのなら、こういうふうにも考えられるよ。神は人間や事物に対する強制力をみずから退けたんだ、封印したんだ。なぜなら、神は本当の意味で自由意志を人間たちに授けたかったから。神は、聖書と聖霊を通じての説得という行為しかできないんだよ。本当にわれわれにゆだねているんだ。そして事実、人間の悪を悲しんでいる。黙認などしてはいない。悲しんでいて、説得に励んでいるんだ。
B:……。
A:それなら、自然災害で人間が命を落とすことも説明がつくよ。神が人間に強制力をもたないということは、自然に対しても、きっと同様のことをしているんだ。
B:……理神論(※)みたいで、わたしには……ぴんときません……。そのような神様は、聖書の神様らしくありません……。
A:じゃあ、聖書的に説明してよ。なんで悪があるのだろう。
B:神様には、わたしたちには到底分かりえない真意があるのです……。神様を理解できる人間などいません。そして人間には分からないことがたくさんあることを、わたしは受け入れます……。
A:たしかに聖書的だね。ヨブ記だよ。
B:神様の御旨を、人間の哲学に依存して考えるのに、わたしは否定的です……。
A:その哲学が廃れたら、たしかに神様も廃れちゃうから、気持ちはわかるよ。でも、人間には考える力が与えられている。その力を神について考えるのに使ってはいけない、というのは残念だよ。
B:そんなつもりはありません……。わたしは、聖書にのっとってその力を使うべきだと言いたいのです……。
A:それだと、思索するための材料がかなり制限されてしまうよ。それって、人間に与えられた知的能力を十分に行使しているとは言いにくい環境になってしまわない?
B:そんなことはないです。
A:そう。まあ確かに、きみのほうが信仰心はありそうだから、きみのほうがどっちかっていうと神様の眼にかなうのだろうね。
B:……。
A:結論としては、人間には分からないってことだね。
B:そうです。


※理神論……創造者としての神を承認しても、世界への神の継続的な関与を否定する神観。


 一、の前半でAくんが述べている――

「創造の際に神が意思していなかった領域が、もしかするとあるんじゃないか。その意思しなかったものが、虚無という空間であり感情なんだ、きっと。真空に吸い寄せられるように、人間は虚無に落ち込もうとする。そして、それに対抗する形で、神の光、すなわち神の意思があるのだ」

 という部分がおおよそ新正統主義のカール・バルトの意見です。

 二、でAくんが主張するのが、ホワイトヘッドのプロセス神学の意見であります。つまり、以下に挙げる部分であります。

「神は人間や事物に対する強制力をみずから退けたんだ、封印したんだ。なぜなら、神は本当の意味で自由意志を人間たちに授けたかったから。神は、聖書と聖霊を通じての説得という行為しかできないんだよ。本当にわれわれにゆだねているんだ。そして事実、人間の悪を悲しんでいる。黙認などしてはいない。悲しんでいて、説得に励んでいるんだ」

 個人的には、カール・バルトの「神が意図しなかった領域」という考え方は一応の共感ができますが、ホワイトヘッドのプロセス神学は聖書から離れすぎているような気がいたします。なんとか神の全知全能と、この世に悪が存在する理由を両立させようとした結果、頑張りすぎて聖書の指し示す道筋から離れてしまった……というようなものを感じます。
 といってもプロセス神学の項をまだ全然詳しく読んでいないので、この印象はほとんど一時的なものといえるかもしれません。ホワイトヘッドさんの哲学も楽しみであります。
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