TOP > Diary > January
TR>
1月4日

 みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
 日記を書いていたらフリーズしてしまったので、私はもう怒り心頭でございます。もはやこのパソコンは信用できません、斬って捨てておやりなさい! と言わんばかりの憤怒が湧き出たのでございますが、しかし愛をもって微笑みながらパソコンを再起動させて今に至るというわけでございます。

 そうですね、もしかすると皆様はうみねこエピソード6でもプレイしているのでしょうか……。私はといいますと、フェルミ・パラドックスなどというかっこいい用語にハマってしまいまして、真・恋姫無双SSでついつい地球に宇宙人が来ていない理由を考察する北郷一刀を描写してしまう次第でございます。
 出来うるならば、一刀さんがリアルに関羽を現代的価値観に洗脳するSSを書きたいなって思っていたのでございますが、新幹線のなかでついに携帯の電池が切れてしまい、一刀さんが関羽に拾われて終りになってしまいました。


「関羽さん、張飛さん」
 不意に声を掛ける。すると、小気味よく2人は俺のほうを向いて、伏し目がちに「はっ、なんでしょう」と言ってくれる。
「あなたがたは一つ罪を犯しました」
「……」
 さっと顔色が変わるふたり。やべえ……って感じで首をすくませている。それがいっそこいつ殺してしまおうか、という思考に変わる前に、俺は言う。
「あの黄巾の方達は俺が日本の王族だと知り、今までの己の悪業を詫び、これからは俺に仕えて正義をまっとうすると誓ってくださったのです。あなたがたはそれと知らず、話も聞かず、その正義の芽を無残にも刈ってしまったのです。この罪は重い。なぜならば、俺の臣下を殺したのだから」
「でもでも!」
「やめなさい、鈴鈴!」
 反論しかける鈴鈴の頭を関羽が激怒して殴る。鈴鈴は泣きそうな顔で関羽をみつめ、俺をみた。
「あれはお兄ちゃんを助けようと……」
「やめろと言っている!」
 思わず関羽は馬から飛び降りる。そして張飛を馬から引きずり降ろし、頭を地面に押さえ付けて土下座スタイルにする。鈴鈴は大人しくなる……んだけども、俺は操縦を失った馬上で、彼女たちの先をぽくぽく進んでいたのだった。
「関羽さん、なんとかしてください!」
「はっ、少々お待ちを!」
 関羽が異常な身体性を駆使して跳ね上がり、馬にさっとまたがると手綱をとる。馬はすぐにとまり、あらためて関羽が馬を降りる。手綱をとったまま、腰をかがめて頭をさげ、臣下の礼をとる。鈴鈴がふてくされたようにやってきて、関羽の隣でぺこりと頭をさげる。
「ごめんなさい、なのだ」
「いいからいいから」
 俺は鷹揚に手をふり、ゆるやかに二、三度うなずくと、話を戻す。
「君達は罪を犯してしまったのです。あなたがたはその罪の報いを受けなければならないのです」
「……はい」
「本来ならば、死罪でございましょうが、しかしあなたがたの正義を志す気持ちはわかりました。そしてここは日本ではなく中国……俺のことを知らないのも無理ありません。なので、まず、あなたがたに申します。あなたがたが殺したふたりを後々埋葬すること。そして俺を守ってくださった最後のひとりを探索し、私のもとに臣下として派遣すること。そして最後に、これはお願いですが、しばらくの間、私の身辺警護をお願いできますか。国から迎えがくるまで……」
 関羽と張飛は


 で、電池が切れたというわけでございまして、今はうみねこの新BGMなどを拝聴して、バトラの魔術師姿に微笑を向けている最中でございます。バトラくんも成長したもんだ! といった感じでございますが、ついに正義正義とうそぶいていたバトラくんが魔女として悪の立場に至ったことに感無量でございます。バトラくんにはガンバっていただき、善と悪を超越した、まさしく無限の赦しを抱いた愛の世界へと歩んでいっていただきたい次第でございます。
1月10日―真なるうみねこ論―

 真なるうみねこ論、というものがこの世にはございますでしょうか……。

 礼拝後、ここ暫く忙殺されていたため書いていなかったオリジナルSSをまさしく降霊術のごとく書きつつ、「ワタシにも分からないの。与えられるようにも思えるし、与えられないかもとも思えるの。変、ワタシね、変なのよ。不憫な、ワタシたち以上にかわいそうな人を見掛けると、胸が火かき棒で貫かれたように痛むの。痛むのよ。ほんとよ? それでね、あんまり痛いから、心臓のあたりをぎゅうっと思いっ切りツネるんだけど、そのツネったところから、ドクドク血のめぐる音が聞こえて、そのなかに声があるの。赤ちゃん。赤ちゃんがね、泣いてるの……」
 と異常な台詞を言わせながら、私はやはりうみねこについて思いを馳せざるをえませんでした。

 というのも、喫茶店に行く前にアニメイトまでわざわざ足を運びまして、うみねこエピソード6が売られているかを確認し、当然のごとく売り切れていたからなのですが、……そう、今となっては竜騎士と自分は心の中でガッチリと握手をしていたのでございます。
 私は先日暇すぎて死にそうだったため、エピソード5をちょっとやり直してございました。このときの私はシグルイを立ち読みして興奮しておりましたのですが、……知り合いのサムライが仕官されたことを三重様よりうかがった源之助様が、「何よりにござる」と一切の虚心なく澄んだ表情を浮かべたことに、うっかり涙をこぼしてしまったのですが、……そう、つまるところ、よくよく考えますとうみねこよりも頭はシグルイしかございませんでした。

 源之助様が伊良子に負けてからが本番であるということを改めて認識した私は、ブックオフで頑張って立ち読みしたのでございます。片腕の源之助様が伊良子と再戦するため駿府に上るとき、三重様のお作りになった四方陣を食するのですが――しかし貧乏すぎて、かつ伊良子に敗れて生き恥をさらしている武家の娘にアワビを売ってくれる者はおらず、アワビのあるべき皿には何も入っていないのでございます。
 源之助様は当然のようにその何も入っていないアワビの皿に箸をつけ、モグモグと武士らしく静かに食し、ゆっくり味わってみせるのでございます。ぴんと背筋を伸ばして正座しておられる三重様は淡々と源之助様のその食事姿を見つめ……源之助様、討ってくださいまし……。その沈黙の殺意が伝わってくるあばら家での1シーンにまたもや涙を流してしまったというわけでございます。

「藤木源之助は、生まれながらの士(サムライ)でござる。士の本懐は、この貝殻のようにただお家を守ることにござる」

 このようにしてシグルイに感銘を受けたというわけなのでございますが、うみねこはうみねこで頑張っていると、淡くかすかに思う次第でございます。


 真のうみねこ論というもの……。
 これは何か。シグルイの影にかすんでおりますが、遠き過去の情景を思い返すようにおぼろげにその「真なるうみねこ論」とやらを回想してみますと、おそらくこういったことでございました。
 真のうみねこ論とは、この世にはたして愛以外の、愛以上の、愛より上位に位置してよい「真実」があるかという問題提起である。愛はもっとも貴きものであり、愛は誰にでも使える原初の魔法である。すなわち「うみねこ」という作品においては、愛をもってすれば他者の思惑を真の意味でうかがい知ることができるのでございます。他者の意思、行動の真意、表面上の振る舞いに秘められた当人の心の奥を、まるで当人のごとく見透かすことができる、これが魔法なのでございます。
 しかし愛を否定する者に魔法は使えません。バトラは当初愛の欠落ゆえに魔法が使えなかった次第でございます。
 しかし魔法によって存在が許されているバトラ自体、ベアトリーチェのまことのまこと、悲しき愛の結晶でございました。「私はだぁれ?」とバトラに問い続けるベアトリーチェの(一時的な)死によって、バトラは己が愛によって生かされていることにようやく気づくと同時に、異なる真実によって繰り返される魔女の虐殺行為のうち、もっとも上位に位置せる真実に気づき、愛とはかくもあわれなんめり、われついに愛を知れり、真実を知れり、愛はかくも人を生かすものなり、われらなんじら今も昔も魔女に殺されざりしぞぉぉおおぉ! とサムライのごとく号泣する……といった次第でございます。

 バトラさんはおそらくこれから魔法を使って、「我々は真実誰も死んでいなかった」という恐るべきもう一つの愛の真実を論証しはじめるのでしょうが、恐ろしいことでございます。
 観念の世界においてしか存在せぬ愛をもってこの世の肉体を復活せしめる。竜騎士はイエス・キリストをおそらく認めておりませんが、竜騎士は人間の精神と想念が人間を具体的に救済しうる力を有していることを訴えているのでございましょう。あるいはその人間を救済しうる想念こそ、神的存在による間接的な救いの手であり、そういう意味で神は存在するという……儚き希望。これを体現するために創作を続ける……といった感じなのでございましょうか! 
1月11日―名君ヨシヤとカノンくん―

 本日は教団の新年聖会でございました。
 牧師先生を含めた有志の方々と朝5時30分に出発いたしまして、会場である仙台に到着したのは9時30分ごろでございました。
 そこでいろいろございまして、おそれながら会衆の前で声を大にして切に神に祈りを捧げさせていただくなど……なおいっそう主の道に進むべく励まされたというわけでございますが、わたくしはただいまカノンくんの本名がヨシヤであることを知り、おいおい、竜騎士は旧約聖書に名君として記載されるヨシヤ王を明らかに知っておられるな……と驚愕いたしました。

「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。」(U列王記23:25)

「第八年(16歳)に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年(20歳)に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。」(U歴代誌34:3)

 クリスチャンホームの男性には「ヨシヤ」という音の名前がやはり多いのだそうなのですが、「シャノン」という響きも「シャロン」という聖書に出て来る地名を想起させますし、キリスト教に対する竜騎士のメッセージ性がなんとなく浮かび上がってくる次第でござりまする。アーメン。
1月13日―うみねこにおける愛アル自殺―

 いやー笑った笑った、がはははは!……が、はは……は…ぐぐぅぅ…と非常なる笑いとともにちょっとした感動を与えてくださる竜騎士さんは、やっぱり当代を代表するSS作家だなって思った次第でございます。
 もう本当にうみねこはSSでござりまして、当然のごとく決して文学ではなく、しかし最大限に文学を志向してございますところが感動的でござりまする。

 図で書くと、以下の感じでございます。SSという大きな円のなかに「自身の罪からの解放」という名前のついたまこと小さな円が左端に存在しておりまして、その左端の小さき円に向かって、自身の罪という記号性に嫌気がさしたキャラクターたちが突進しております。しかしその「罪からの解放」という円があまりに小さきため、入るためには自分自身の全ての記号をニッパーで切り取って排水溝に流すしかなく、それは自己の死を意味しておる次第でございます。
 主人公バトラは自分の記号性をまさしくニッパーで切り取ろうとしたのですが、やはりそれは難しく、結局のところあらゆる苦痛や嘆き悲しみに堪え、他者を救わんという愛をもって自分を殺すことができたのは、概念的にはベアトリーチェただ御一人でございました。(おそらく存在的にはカノンでございます……)
 記号という罪からの解放は、他者から認識されない存在に陥るということでございますが、その小さき円に凱旋したベアトリーチェ様はおそろしくも、自己を暴露し、自分自身の魔女幻想を消失せしめる赤き真実をすべての人間に伝えてしまったのでございます。
 罪からの解放という円に入るためには存在の死をもってしかありえず、またその円には最初ひとりしか入れないのでございまして、では誰が一番に入るのか……誰が一番最初に大きな愛をもって死にうるか……というのがエピソード6のテーマと言えなくもないような気がいたします。

 その円の中に入った者の使命として、孤独に円の拡大を目指して奇跡を待ち望むのでございますが、自己の死をもって、他キャラクターの罪という記号性に対しても愛を与え、存在を与える……いかに愛をもって人に交わりうるか。というのがエピソード6でございました。


●何が面白かったのか、何が笑えたのか……。

 この辺はとても説明に窮するのでございますが、もはや雰囲気が笑えるというしかございません。特にベアトリーチェ的性質を取り戻し、ふたたび無限の密室を作り上げる能力を獲得したようなベアトリーチェさんの開眼シーンに、本当に笑わせてもらいました……。

「右代宮戦人をどうやって密室から出すかを悩むんじゃない。……チェーンロックの密室? 馬鹿馬鹿しいね。……なら君は、そんなのより、もっともっと飛びっきりの、最高の密室を作ってやって、あいつらを悩ませてやろうじゃないか」
「悩むのは……私じゃなくて……」
「あいつらの方さ。地獄の悪魔も平伏して絶句する、最高の密室トリックを無限に使いこなす、無限の魔女ベアトリーチェの本当の恐ろしさを、そろそろ連中も思い出してもいい頃だ…!」

 という感じで、また一見して説明不可能な密室トリックを作り上げるベアトリーチェに、ハハハと声を出して笑ってしまった次第でございます。ベアトリーチェが帰ってきた!という感じでございまして……はい。それだけでございます……。


●愛について

 真の愛は他者を殺しうる。本当に相手を愛したなら、その愛をまっとうするためにいかなる障害、いかなる他者をも殺しうるいうのが延々とエピソード6で語られておりました。
 そしてこの愛は、他者のみでなく愛の障害となる全存在をも殺しうるのですから、すなわち自分自身をも殺しうる、というところに行き着きまして、竜騎士の訴えたいところはそこではないかと思った次第でございます。
 ベアトリーチェはまさしく自分自身の死によってバトラを救ったのでございましょう。あるいは誰が存在的に死んだのか……。しかしながら、愛ゆえに「誰かが自分を殺した」ことに変わりなく、その死した人間は愛ある真実にたどり着いた人間、としか言いようがないのかもございません。

 しかしながら、誰が死して誰が生きているのか、誰が自身の存在を偽っているのか……。おそらくシャノン=カノンであり、愛の決闘はどちらとして生きるべきか……という「シャノン=カノン」的存在の苦悩である。
 同時にカノンはクローゼットに隠れていない、なぜならば、そこに隠れているのはシャノンであるから、という恐るべき推理さえ可能であり……。
 このような愛のない推理をするのは作中で「愛がなければ」とかいろいろ言われているので言ってはいけないような気がいたします。むしろ愛がなければ視えない!! あそこに居たのは、まさしくカノンであり、カノンは魔法で消えたのだ!! 愛なる魔法をもって……っていう感じでしょうか。
 しかし同時にちゃんと考えろとも竜騎士さんに釘を刺されているような気もいたしますので、よくわからないのでございますが、しかし次回のエピソードで答え合わせらしいのでまあ考えなくてもいいやといった次第でございます。
 エピソード7で答え合わせ、エピソード8で大団円のための奮闘、といったまさにひぐらしと同じような感じなのでございましょう!

 エピソード6は序盤といいますか、愛の決闘が少々だるかったり、駒世界と上位世界があんまりリンクしているのでなぜ…? というところがあったのでございますが、しかし中盤バトラが自分自身の愛ある憐れみゆえに密室にとらわれて以降は興奮した次第でございます。
 ひぐらしよりも圧倒的に文学なので、それほど感動しないのでございますが、しかし観念的な哲学はいよいよ深まり、いったい何が真実なのだろうか……という疑念よりもまず、愛を獲得するために自死するベアトリーチェとバトラに感動といった次第でございます。

 点数は83点……。
 順位としては、バトラが悟りの境地に達しており激昂しませんので、エピソード3や4よりもやはり落ちるような気がいたします。5よりも少し面白かったかな……という感じでしょうか!
1月14日―アガサ・クリスティ―

 うみねこ再考

 ふと……うみねこエピソード6の2曲のボーカル曲を無限リピートし、腕組みしながらアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』といううみねこのオマージュ元作品を買いたいなあと考え込んでおりましたとき、私はうみねこの価値について突然思いを馳せた次第でございます。

 思いますに、うみねこの価値、存在意義とは、われわれミステリーとは相容れないと思い込んでおる文学人間に対し、ミステリーの面白さを再度再度しつこいまでに提唱することである……といったところではございませんでしょうか。
 ミステリーは本当につまらないと私などは思っておりまして、なぜトリックがどうのこうので犯人が誰だれだ、なんて素晴らしいトリックなんだ……ということに感動せねばならぬのか。そんなことよりも、人間存在の罪からの解放などの文学を通して考えねばならぬことがあるではないでしょうか。などと思っておるのですけれども、しかし確かに……SSとしての推理小説、ミステリーの価値について思いを馳せたことが、なんと一度もなかったのでございます!
 そして現に……うみねこの元ネタ作品であるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』の設定を覗き見たところ、これは面白そうである……! と思わざるをえず、なるほどミステリーとは世界文学であり、決して日本のつまらなそうなミステリーが全てではない、高校時代に読んで面白さがあまり理解できなかった日本の売れているミステリーが全てではないんだな……って衝撃を受けた次第でございます。

 『そして誰もいなくなった』はうみねこが参考にしているとおり、絶海の孤島での洋館ものという、それだけでなんか面白そうだなって思ってしまう小説らしいのですが、年齢も職業も異なる10人の男女のもとにU・N・オーエンという得たいの知れない人間から招待状が届くのでございます。
 実際その洋館に赴いてみたところ招待主は存在せず、彼らが不安に思いながら見事な晩餐を食べているとき、10人すべての罪を告発する声が蓄音機から流れはじめる……。で、童謡「10人のインディアン」を連想する死に方で一人ひとり殺されていき、最後には誰もいなくなった、さて全員死んでしまいましたが犯人はだれでしょう、みたいな感じでまさにうみねこなのですが非常に面白そうなのでございます。

 というわけで、今後アガサ・クリスティなどの古典ミステリーを少し読んでみようかと思うわけでございます……。
 『そして誰もいなくなった』『アクロイド殺し』『オリエント急行殺人事件』がものすごい有名らしいので、その辺をちょっと適当に……。
1月17日―孤高なる推理小説といったものたち―

 アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を読了いたしました……。そうですね……、言ってみますならば、小中学生向き児童文学として考えたとき、非常によく出来た小説でございましたけれども、しかしなんと言いますか、その、マーカムくん。非常に言いにくいのだけれど、これはまったく陰惨で、すてきな殺人事件というほかないんじゃないのかね。実に手際のよい、讃嘆にたえぬ犯罪なんだがね。僕はかねてから、こういうやつを待望していたんだよ、君。それを君たちといえば女中の昔の色事とかなんとか、そんなものの詮索の話をしている。がっかりさせてくれるよ……(ファイロ・ヴァンスさん)

 という感じでございました。
 つまるところ、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』がライトノベル的であまりにも読みやすく、一瞬で読み終えてしまいましたので、ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』というクリスティ以前の本格古典を読み始めたところというわけでございます。
 『グリーン家殺人事件』の主人公、社交界で有名な素人探偵ファイロ・ヴァンスさん(探偵ではないけれど頭がいいので意見を求められる)の、紳士的かつ柔和、知的でありながら殺人に対する大きな心理学的関心。被害者の心境に思いを馳せるよりも加害者の心境に思いを馳せ――「それで、あなたの非難はなにか、特別な証拠にもとづくものなのですか?」「あなたは論理学も苦手なようですね」とこいつが犯人に違いないと息巻く女性ににっこり微笑み、冷静に皮肉を交える異常人格的な探偵らしさ。こういうところに、まさに本格だ……と思った次第でございます。うみねこの古戸ヱリカの原点をさえ垣間見たような気分でございます。

 グリーン家を読んでおりますと、とにかく探偵の存在は大きいかな…と思うわけでございますが、ファイロ・ヴァンスさんがいらっしゃれば、「これは実に見事な犯罪だよ」と静かな興奮とともにベアトリーチェの密室殺人も解決してくださること疑うことあたわじでございます。


 アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』は73点ほどといったところでございます。描写が軽すぎて、最初は読みやすくてよろいし! と思っていたのでございますが、徐々にその軽さに物足りなさを覚えてしまった次第でございます。
 個人的には、推理小説を2000冊読破しクリスティの『アクロイド殺し』をアンフェアな推理小説であると論難したヴァン・ダインの推理小説中毒らしさに期待をかける次第でございます。あるいは“読者よ、すべての手がかりは与えられた。犯人は誰か?”と『Xの悲劇』で読者に挑戦を申し込むエラリー・クイーンの論理的知性に……。
 今後読むかもしれない推理小説、ミステリーのリストといたしましては、

●アガサ・クリスティ
  『アクロイド殺し』(ポアロ)
  『オリエント急行殺人事件』(ポアロ)
  『ABC殺人事件』(ポアロ)
  『牧師館の殺人』(マープル)
  『鏡は横にひびわれて』(マープル)
●ヴァン・ダイン
  『グリーン家殺人事件』
  『僧正殺人事件』
●エラリー・クイーン
  『Xの悲劇』
  『Yの悲劇』
  『エジプト十字架の謎』
  『オランダ靴の謎』
  『ギリシア棺の謎』
●ウィリアム・アイリッシュ
  『幻の女』
●コナン・ドイル
  『シャーロック・ホームズの冒険』
●チェスタトン
  『ブラウン神父の童心』
  『木曜の男』
●ハイスミス
  『太陽がいっぱい』
  『見知らぬ乗客』
●アルレー
  『わらの女』
●クロフツ
  『樽』
●ディクスン・カー
  『火刑法廷』
  『三つの棺』
  『皇帝のかぎ煙草入れ』
●ガストン・ルルー
  『黄色い部屋の謎』
●横溝正史
  『獄門島』
●松本清張
  『点と線』

 ――番外――

●チャンドラー
  『大いなる眠り』
  『長いお別れ』
  『さらば愛しき女よ』
●ハメット
  『マルタの鷹』
●バカン
  『三十九階段』
●アンブラー
  『あるスパイの墓碑銘』
●ル・カレ
  『寒い国から帰ってきたスパイ』


 グリーン家殺人事件を読みましたら、次は同じくヴァン・ダインの『僧正殺人事件』かエラリー・クイーンの『Xの悲劇』でも読んでみようかと思います。アガサ・クリスティはすでに大分ネタバレしているので、だいぶ記憶が薄れたころに読まねばまいりません……。
 推理小説の難しいところは、ネタバレがまったくもって危険である点でございます。みなさんも気をつけてくださると幸いでございます。決してウィキペディアなどをご覧にならぬよう……
1月22日―グリーン家殺人事件―

 彼はつぶやいた。それからぐるりと向きなおった。「たのんでおいた気象報告を見せてもらおうか」
 マーカムは引出しをあけて、タイプでうった一枚の紙をヴァンスに渡した。
 走り読みすると、彼はそれを机の上に投げかえした。
「しまっておくがいいよ、マーカム。君が善良、誠実な十二人の人間と対決するとき必要になるだろう」
「それで、あなたのお話はどうなんですか、ヴァンスさん」部長の声は、抑えようとして抑えきれぬいらだたしさを示していた。「マーカムさんの話では、あなたは事件の筋をつかまれたということですが。――誰かに対して確かな証拠があがったのなら、私に教えて、逮捕させていただきたいです、後生だから。このろくでなし事件では、まったく痩せる思いがしています」
 ヴァンスは居ずまいを正した。
「さよう、部長。僕は犯人が誰か知っている。証拠もある。――いまのところではまだ、君に話すつもりはなかったけれどね。しかし」と、ヴァンスはいって、断乎決意したかのように、入口のところに行った。――「もう、これ以上、ことをおくらすわけにはゆかない。手をくださざるを得ない。――部長、外套を着たまえ。――そして、君もだ、マーカム。暗くならぬまえに、グリーン家に出かけたほうがいい」
「でも、ヴァンス、どうしてまた君は」とマーカムはくってかかった。「考えていることをいってくれないんだ?」
「いまは話せないんだ。――あとになったら、君もわかってくれるだろう――」
「そんなにわかっているのなら、ヴァンスさん」とヒースが割りこんだ。「逮捕するのを、なぜおくらせるんです?」
「いまから逮捕に向かうところだよ、部長――一時間以内にね」ヴァンスは気乗りせぬようすで約束したが、それはヒースとマーカムのふたりには、電気にうたれたような作用を及ぼした。・・・

 古風な屋敷に住むグリーン家の住人が、屋敷内でひとりまたひとりと誰かによって殺されてゆく……。グリーン家の誰かが犯人に間違いないが、その誰もが性格的に異常者であり、事件後には家族間でお互いに犯人呼ばわり。そして遺産相続問題にまつわる陰謀・画策が渦巻いている。
 素人探偵ファイロ・ヴァンスも謎と偽証、途方もない嘘、殺害方法について悩み困惑し、解決の糸口がつかめぬままいくつもの惨劇を許してしまう。ついにグリーン家には疑わしき容疑者が3人残る。一体3人の誰が犯人なのか……。

 という感じのヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』をようやく読了いたしました。非常に面白く読ませていただき、推理小説の醍醐味を味わわせてくだすった、というところでございましょうか。
 必ず犯人がこの中にいるというクローズド・サークル的推理小説において、登場人物の誰かが嘘をついていることに他ならず、私はほとほとその登場人物の嘘に騙されてしまった次第でございます。
 探偵ファイロ・ヴァンスさんによる事件の真相についての大演説の前、ヴァンスさんが94項目にもわたってグリーン家殺人事件の一般的事実や登場人物のリアクションなどを時系列順にメモ書きしてくださるんですけれど、これはまさしく読者への挑戦状といったところでございました。
 これが推理すべき事実の全てである、あとは読者よ、これらの事実から事件の全体像を想像し、その全体像によって犯人を割り出し、確かにその動機によって各殺人が行われたのかをみずから検証しなさい……といった趣でございます。
 私もまたそこで10分ぐらいぼんやり考えさせていただいたのですが、しかしながらまんまと犯人に騙されてしまい、あやうくまったく無実の者を逮捕してしまうところでございました。ほんと冤罪ってありうるなって思わせていただいた次第でございます。

 息もつかせぬ惨劇の連続、誰が嘘をついているのかという緊迫感、異常な住人たちの雰囲気。好奇心を駆り立てる開かずの間の神秘。殺人が起きても「バチがあたったんだ」と誰もがその死を悲しまない……。
 さまざまな設定が非常に面白く、点数としては81点ぐらいでございましょう。惜しむらくはヴァンスさんがなぜそれほど真相を言うのをためらっているのかが謎なこと。また、『そして誰もいなくなった』もそうでしたが、終わり方があっさりしすぎていて余韻があまりないこと。この辺がマイナスのような気がいたします。
 しかし事件が起こるたびに読者としては「またか!」と犯人の大胆さにヴァンスさんたちと一緒に戦慄せざるをえず、誰が狂言をぶっているのかほんとわからない……というところでございます。

 次はヴァン・ダインの『僧正殺人事件』かエラリー・クイーンの『Xの悲劇』あたりでも……。
1月23日―推理小説とMAD鑑賞―

 ヴァン・ダインなどの古典的推理小説を拝読しておりますと、人間の精神を震撼さすべきすべての事件が極度に矮小化されておるような気がしてしまう次第でございまして、推理小説というものを愛読されたかつての人間たちの、いわば第1次世界大戦で成り上がったアメリカ黄金期の飽食とでもいいましょうか……感受性が灰色でありシニカルなのでございます。
 しかしながらそういったふうに――古典的ミステリが実際に起きたなら非常に衝撃的であるはずの事件を些細なものであるというふうに描くからこそ、読者はその事件の文学としての可能性を極限まで脳内で追求することができるのでございます。
 一例を挙げますならば、ドストエフスキーの小説に見られますミステリー性に、ヴァン・ダインのような完全なミステリーとしてのジャンルを適用するならばどうなるのか……といった按配でございますけれども、主人公の文学的苦悩と凄惨な事件に対する怒りや憎しみを想像してみますと……なるほど、うみねこである、となぜかうみねこにたどり着いてしまうところが悲しい限りでございます。
 しかしながら、殺人事件が起きるたびに探偵の心内に生じる衝撃と苦悩は実際おそらく相当のものであるはずでございまして、目の前の誰かがこの陰惨な殺人をやってみせた者で、かつそれを隠し通そうと笑みを浮かべている者であることを考えますと、善良な探偵といたしましてはその人間の精神性が普遍的な人間精神でないことを祈らざるを得ない次第でございます。
 だからして、ヴァン・ダインは『グリーン家殺人事件』において、探偵ファイロ・ヴァンスを不可解な旅に出し、このような陰惨きわまる事件を引き起こす犯人の出生を確認させたのでございます。……残虐かつ陰惨、およそ慈愛というものを感じさせないこの犯人の精神性を、先天的な犯罪者としての遺伝・資質によって説明するためにでございます。私は、ヴァンスさんの前時代的な犯罪者の子どもは犯罪者であるといった偏見に差別性を感じるとともに、ヴァンスさんは本当に人間という存在を愛しておられるのだな、と感じた次第でございます。

 そういうわけで、すべて人間は平等であり、すべての事件性は環境によって左右されるという観念のもとに文学としてのミステリを考えますとき、必然的に犯人の動機に迫るホワイダニットの要素が色濃くなるように思う次第でございます。
 つまるところひぐらし・うみねこでございましょう。特にうみねここそホワイダニット(とフーダニット)の究極であり、ベアトリーチェがなぜウシロミヤ家を惨殺したかがそのテーマに深く関わるのでございます。
 しかしながら、言ってみればホワイダニットは陳腐なのでございます。もはや明らかなのでございます。犯人にも人を殺すだけの理由があり、その理由を描写・説明する段にあたるとき……「説明している」という事実をもってホワイダニットと人類平等の観念が成立してしまっているのでございます。その内容はもはやどうでもよくなっているのでございます……。ホワイダニットこそ形式的文学の極地なのでございます。
 つまり何が言いたいかと申しますと、文学としてある種の人類救済作業を行うとき、ホワイダニットという形式を用いますとその形式によってすでに人類救済がなされてしまうため、もし真に作者が人類救済を望むのであるならば、別の角度から自己の視点でもって、形式の助けを借りず完全なる意図でもって切り込まねばならないということでございます。

 こういうふうに考えてまいりますと、もしミステリの要素を作中に加えるならば、私としてはやはり古典主義的フーダニットをおしていきたいと思っておる次第でございます。
 主人公の文学的営為、人類救済テーマ的営為の枠組みにおける殺人事件……。ホワイダニットは理由なき殺人を許容しないという点で差別性を内包しているように思う次第でございます。であるからして、その事件は理由なき殺人であり(または一見して明白なホワイダニットであり)、かつ作品のテーマを邪魔しないよう一定の思想正当化的要素を含んだものがよろしく、かつヒロインなど主人公の身近な存在がそれをやっている犯人ならばなおよろしい……。

 ということをかつて蒐集したMADをみながらぼんやり考えていたのでございますが、つまるところもはや……高校生が出てくる作品のMADの違和感はすさまじい……と思えてしまうようになってしまいまして、自分も老いたなと思った次第でございます。
 志貴くんや式、士郎くんの活躍も、まさしく究極の通俗小説としてしか捉えることができず、きっと彼らは夢を見ているんだよ……と人懐っこく微笑するしかございません! それに比べてムックの昔の歌はいつまでもわたくしにとって色褪せぬ文学でございまして……と「我在ルベキ場所」や「死して塊」などを拝聴して思う次第でございました!
1月27日―『僧正殺人事件』を読み終えて―

 ヴァン・ダインの『僧正(ビショップ)殺人事件』(1929年)を読み終えまして、私は感動してしまった次第でございます……。なるほど、確かに『ビショップ殺人事件』がヴァン・ダインの全12作の著作中もっとも優れた作品であるという評判はもっともであると、思わず膝を叩き、事件後のことを書いた1ページにも満たない淡白なエピローグを読み終えて涙したというわけでございます。
 グリーン家殺人事件におきましては、その淡白すぎるエピローグに不可解なものを抱きましたけれども、ビショップ殺人事件ほど愛憎入り混じった悲惨極まりない事件でございましたら、その淡白かつ幸福なエピローグは、事件の悲劇性とその悲劇を振り払うために進まんとする遺族の意志をより際立たせることに成功しておりまして、ベル・ディラードさん、おめでとうございます、といった感じでございました。

 『僧正殺人事件』がどんな物語かと申しますと、創元推理文庫の一ページ目の紹介文にはこう書かれておる次第でございます。

ーー
 コック・ロビンを殺したのはだあれ
  「わたし」って雀がいった。
  「わたしの弓と矢でもって
   コック・ロビンを殺したの」
 マザー・グースの童謡につれて、その歌詞のとおりに怪奇惨虐をきわめた連続殺人劇が発生する。無邪気な童謡と不気味な殺人という鬼気せまるとり合わせ! 友人マーカムとともに事件に介入したヴァンスは、独自の心理分析によって一歩一歩と犯人を断崖に追いつめる。「グリーン家殺人事件」とならんでヴァン・ダインの全作品の頂点をなす傑作とされている名編。本書を読まずして推理小説を語ることはできないといっても過言ではない。
ーー


 もう少し付け加えるならば、ビショップ殺人事件においては探偵ファイル・ヴァンスの、美術・文学・芸術的素養だけではなく数学的・天文学的・物理学的知識を垣間見ることができまして、まさにヴァンスさんは博学であらせられると感心せざるをえない衒学感たっぷりの口上に魅せられる次第でございます。

 とある事件で、死体の下に数学の公式が書かれたメモが置かれているのを聞いたヴァンスですが、それを見て興奮いたします。

「おやおや。これはおもしろい。さて、最近どこでこの公式を見たんだろう……むろん。ドラッカーはその著述のなかで、球面ホマロイダル空間のガウス曲率を決定するのに、この公式を使っている……でも、スプリッグは、これになんの用があったのだろう。この公式は大学の課程よりずっと高い」
「このテンソルは高等数学をやるものなら誰でも知っている。非ユークリッド幾何学でつかわれる専門の式のひとつなんだ。リーマンが物理学のある具体的問題に関連して発見したんだが、いまでは、相対性原理数学にとっては、きわめて重要なものになっている。抽象的意味で、高度に科学的で、スプリッグ殺しに直接関係は持ち得ようがない」

 探偵の名に恥じない、素晴らしい博学ぶりでござりまして、数学者たちとなにやら数学についての議論をしたり、チェスの戦術についてあれこれ話し合いながら心理分析をする感じでございます。
 あとはそうでございますね……登場人物のディラード教授の台詞が今回一番感銘を受けた次第でございます。
 まずヴァンスさんが自殺についてこう弁論いたします。

「ストア学派のゼノは、自由意志による死を弁護する熱情的な讃歌を残しています。それからタシタス、エピクテタス、マルクス・アウレリウス、カトー、カント、フィヒテ、ディドロ、ヴォルテール、ルッソー、みんな自殺の弁護論を書いています。ショペンハウエルは、イングランドで自殺が罪悪視されている事実に対して、手きびしい抗議をしていますね……しかもなお、いまにいたっても、この問題に定説があるかという点になるとあやしいものです。いずれにせよ、アカデミックな議論の対象にするには、この問題はあまりに個人的にすぎると、私は思いますね」

 これについて著名な数学者であるディラード教授がこう言われます。

 ――教授は悲しげにうなずいた。
「最後のまっ暗な時間、人間の心のなかに、何ごとか起こっているか、誰も知ることはできん」

 まさしく、本来の職業であった美術評論家としてのヴァン・ダインの、芸術を評論することのある種の観念的な悲哀がなんとなく感じ取れるところが感動的でございます。芸術は言葉では言い尽くせないんですよ……みたいな感じでございます。


 そんなわけでございまして、ビショップ殺人事件は最後の最後まで誰が犯人なんだろう? と興味深く読ませていただけたので、グリーン家よりも若干こちらのほうが面白いかもしれないと思う次第でございます。何よりも読後感がビショップのほうがすがすがしいというのがあげられます。読後感は非常に大事であるという次第でございました。

 次はクロフツの『樽』(1920年)かエラリー・クイーンの『Xの悲劇』(1932年)でございます。
TOP > Diary > January
inserted by FC2 system inserted by FC2 system