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2月3日―キリスト教のお葬式――

 以前日記にも書いたことがございますけれども、大館にお住まいの膵臓がんと闘病しておられます盲目の兄弟がこのたび天に召された次第でございます。
 私は塾を二日間お休みして、お葬式のお手伝いに泊りがけで兄弟宅にお世話になった次第でございまして、大変勉強させていただいたのでご報告申し上げたく存じます。

2月1日

・18時30分
 荷物をもって教会員の方の車に乗り込みます。
 私のほかに2名の姉妹も同乗されますので、姉妹のお宅を訪問いたします。
 その際さすがS兄弟でございまして、道中困っているお方がいらっしゃいましたので、コンマ一秒の躊躇もなく車からお降りになり、その困っておられる婦人の問題を解決してから姉妹のお宅を訪問。

「あの、お名前をお聞かせください……」
「いやいや、なんもなんも」

 という感じでございまして、S兄弟も「善きサマリア人になれたかな」と微笑しておられました。ご自身をサマリア人と謙遜されるところにキリスト教的すごみを感じた次第でございます。

・19時ごろ
 2人目の姉妹宅に到着し、姉妹が作ってくださったおにぎりを食べながら大館を目指します。道中われわれ4人は話に花を咲かせておりまして、いろいろ世間話をした次第でございます。
 そこに亡くなられたH兄弟の死を悲しむ雰囲気はとくになく、まさしくいつもどおりの雰囲気でございました。キリスト教の素晴らしい点は、「死は悲しむべき出来事である」という世間一般の偽善的道徳律に支配されていないところでございましょう。悲しいときに悲しみ、感動するところで感動し、嬉しいときに喜ぶ――これでよろしいのでございます。故人を目の前にして嘆き悲しむクリスチャンもおられますれば、とくに悲しまずに平然と「天国で再会いたしましょう」と別れを告げるお方もおられます。  そのどちらがよろしく、どちらが悪いという観念が存在しないのでございます。

・21時ごろ
 大館に到着いたします。訃報をお聞きしてすぐに大館に出発した牧師先生と2名の姉妹、そして故人の奥様が出迎えてくださいました。
 まずは棺に入っておられる故人にご挨拶をし、どのように亡くなられたかを奥様から拝聴いたしました。

「痰が固くなって、なかなか取れなくってねえ。年配の看護婦が『どいて!』ってグッグッと管をいれて、スルスルーとまた出したら、こんな黒い血の塊が出てきて、○○さんは『ギャア』って痛がってましたよ」

・22時ごろ
 前夜式での残り物をいただきつつ、奥様たちと世間話に花を咲かせ、そして先生が一所懸命印刷してくださった出棺式と告別式のプログラムを60部ほど折り、ホッチキスで留める作業に入りました。
 男手であります私とS兄弟とが折っておりましたら、ご高齢の姉妹の1人も手伝ってくださいました。どのページを中にして折ればいいのかということをなかなか覚えることができず、S兄弟に「××さん、これ逆だよ」と笑われながら何度も指摘されていた次第でございます。

「年を取るとねぇ、あやぁ、指紋がなくなっていってねぇ、つい指を舐めて紙をめくってしまうのよ。娘がねぇ、ほら、母さん、また舐めて! って怒るのよ。あっはっは」

・23時30分ごろ
 作業を終えた先生が、紙を折る作業をしている居間にやって来られまして、「すみません、お茶をいただけますか」とお茶をご所望いたします。そしてお茶を飲みましたら、「それじゃ、先に寝させていただきます」とこれまた一瞬の躊躇もなく寝床につかれました。


2月2日

・0時ごろ
 作業を終えたので、私も就寝いたしました。
 10年単位の付き合いであるS兄弟と姉妹2名がいろいろお話をしておられ、1時30分ごろに就寝されたようです。

・5時30分ごろ
 起床いたします。姉妹の方々がすでに忙しく働かれておりまして、姉妹と奥様が車座になっての早朝祈祷を拝聴しつつ、歯を磨いたり髪を水で塗らしたりしておりました。
 この頃に私が受付をやることになっているらしいことに気づきまして、さすが先生、すべての人間に仕事を割り振っておられる……と感心した次第でございます。(S兄弟は教会代表で弔辞を頼まれ、K姉妹は献花を渡す係り、などでございます)

・7時ごろ
 朝食を食べ終え、お花料のお返しを袋に詰め込む作業をしておりました。

・7時30分ごろ
 受付開始。先生からA4一枚のマニュアルを渡されまして、すこし質問してから玄関前で待機。

・8時30分
 出棺式でございます。
 私は受付でしたので、玄関脇で先生のメッセージを拝聴いたしました。歌われた賛美歌は「主よ、みもとに近づかん」。映画『タイタニック』で、タイタニックが沈没するときに楽団員の人たちが最後まで弾いていた曲としても有名でございます。

 主よ、みもとに近づかん。
 のぼる道は十字架にありとも、など悲しむべき。
 主よ、みもとに近づかん。
 さすらうまに日は暮れ
 石のうえの仮寝の夢にもなお天を望み
 主よ、みもとに近づかん。
 主のつかいはみ空に通う梯のうえより招きぬれば、
 いざ登りて、主よ、みもとに 近づかん。
 ・・・

・9時30分ごろ 
 出棺。霊柩車に棺を乗せて、火葬場へバスで移動いたします。
・10時
 火葬場につき、棺のまえでもう一度「主よ、みもとに近づかん」を一同で賛美し、ローマ人かどこかの厳かな朗々たる先生の聖書朗読を聞きつつ、皆さん厳粛に献花をいたします。その後兄弟に最後のご挨拶をしてから棺が焼き場に入ります。

・12時ごろまで控え室で会食。火葬が終わりましたら、骨を骨壷に入れて兄弟宅にバスで戻ります。

・13時ごろに兄弟宅に到着。
 それと同時に14時から始まる告別式の受付を孤独に開始。
 盲人の方を2名引率して来られている、高貴な感じのする高齢のご婦人と宗教についての問答を若干いたします。

「今流れている曲(先生は賛美歌のBGMをCDで流しておりました)がプログラムに載っている『驚くばかりの』ですよ」
「わたくし、結婚式で2度こういう曲お聞きしたことがありますよ。お葬式では始めてです」

・14時
 告別式が始まります。
 今回受付をしていて驚きましたことは、眼鏡を忘れたから字が書けない、というお方が何名かいらっしゃったことでございます。眼鏡がないと近くがまったく見えず、字がかけないというのは、それはまさしく相当の視力でございまして、すさまじいものを感じました。

 私はお花料を脇にかかえ、受付に近い廊下で正座をしつつ先生のメッセージを拝聴いたします。
 聖書箇所は下に掲げますヨハネの福音書9章1〜7節。賛美歌は「いつくしみ深き」「驚くばかりの」「主よみもとに近づかん」。とくに「驚くばかりの」はアメイジング・グレイスとして有名でございますので、非常に皆さんが歌いやすい選曲でございました。

 ○ヨハネ9:1〜7
 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」
 イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。私たちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です」
 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい」
 そこで彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 ベーチェット病で突然20代で失明をされ、その苦しのなかで主に導かれてキリスト教を信じた故人でございますから、この聖書箇所はまさしく真に迫るメッセージを伝える箇所でございます。
 また故人の奥様も昨年洗礼を受けられ(私もその洗礼式に参加させていただきました)、まさしく主の御手に導かれた家庭であるな、と思う次第でございます。
 上記の聖書箇所にもとづく先生のメッセージはやはりまことに宗教的本質をよくつかんだメッセージでございまして、大きな情熱と、その情熱・感情を支える「どうしてそう思うのか」という論理の道筋がしっかり会衆に示され、安心して聞くことができました。人間的目線では確かな幸福とは言いがたい人生を故人は送ったかもしれませんが、しかし神の目線からみたとき、大いなる幸福にみちた、素晴らしい人生であったとわたくしは思います……という感じでございました。

 また、盲人会代表の方の弔辞が素晴らしくもあり、場は一層感動の渦に叩き込まれていきます。その弔辞は文学的でございまして、まるで高橋和巳の病床を訪れた作家が書いたエッセイのごときリアルな様相を呈してございました。

「『Hくん、どこが痛いの』と私は言いました。そうしたら、Hくんは腰のあたりをさすったらしいのです。『この辺が痛いんだよ』。私はHくんの上着をめくり、腰をさすりました。Hくんは『なんだか楽になったような気がする』と笑って言ってくれました」

 盲目の方々によるまさしく精神的交流としか言いようがない交流……盲人会で出会ったこと、その後仲良くなり故人と旅行に行ったこと、旅行先で食べすぎ、呑みすぎによって身体を壊して、故人に看病してもらったこと等涙ながらに語られては、こちらも泣かざるをえないというわけでございます。


 弔辞ののち、故人の思い出をスクリーンに映し、故人の結婚式や、最近の家庭集会の写真などを皆さんと一緒に鑑賞し、さらに故人の人生に思いを馳せさせていただきました。
 その後、「主の祈り」を一同で祈り、また頌栄「父、御子、御霊の」を一同で賛美し、喪主である奥様が挨拶をいたしまして、ふたたび会食でございます。

 驚くべきはその喪主挨拶でございまして、奥様の一大決心が伝わる挨拶でございました。その挨拶は非常に伝道的であり、どうか皆さまもまた、イエス・キリストを信じて、永遠の生命を得てください。それが私たち夫婦の願いでございました……。
 というような感じでございまして、私は度肝を抜かれると同時に、ややクリスチャン的見方の強い伝道メッセージに、少しく物足りなさを感じてしまった次第でございます。
 その言い方では、ノンクリスチャンに、どうしてイエスを信ずるべきか、その理由がよく伝わらない……と感じた次第でございますが、しかしながら心底封建的な田舎において、それほど仲がよろしくない親戚一同の前でその台詞を述べられた奥様の決心はいかばかりか、と思うと感心でございます。

・17時ごろ
 片付け。

・18時ごろ
 後片付けを最後まで手伝う牧師先生と2名の姉妹を残して、S兄弟の車で秋田に戻りました。

・21時ごろ
 帰宅。睡眠。


 以上でございます。その人の人生を振り返って思い出を偲び、そして天国で安らかに新たな生命を満喫していることの確認が、キリスト教のお葬式でございました。
2月5日―クロフツ『樽』読了――

 F.W.クロフツの『樽』を読了いたしました。
 まさしくクロフツは犯罪の遂行というものに非常に心を配っておられた作者なのだな……と感心いたしました。
 クロフツにとっては探偵の魅力などは些細なものであり、犯人が試行錯誤して計画した犯罪、その隠蔽工作、アリバイ作り……これら苦心の芸術、まさに他人が考えた純粋思考そのものを、警察関係者ら探偵がさまざまに解釈して事件にぶつかっていくお話が『樽』なのでございます。
 探偵らの地道な聞き込み捜査、証言や現場の証拠にもとづく思考……これによって徐々に事件の全貌が見えてくるような錯覚に探偵と読者は陥ります。しかしながら、それはもちろん頭脳明晰な犯人によって疑惑が他者にかかるよう仕向けられた証拠などにもとづく探偵らの思考なのでございますから、探偵たちは犯人の思う壺に陥ってしまうのでございます。
 ようやく証拠を見つけた! これであいつを落とせる! と探偵も読者も思うのでございますが、しかし実はそれは犯人につかませられた証拠でございまして、まさに警察も大変だな……と思った次第でございます。

 事実を知ったとき、まさにすんなりと納得できる簡単なトリックなのでございますが、しかしながらここまで隠蔽工作に励まれてしまいますと、まさに調べる側としては謎が深まるばかり。なぜ死体の入れた樽をロンドンとパリの間で往復させる必要があったのか……。
 犯人は大体2人に絞られるが、しかし方やアリバイは完璧であり、方や樽に入った死体をみたときの表情は演技にみえない。一体どちらが犯人であるのか、これは主観ではまったく判断できない要素であるから、証拠……そう、客観的根拠にもとづいて犯人を断定せねばならない! その客観的根拠、明々白々たる犯人を示す証拠こそ、犯人がつかませようとしているものであるのに!


 といった感じで、意外に簡単な事実でさえも、犯人が懸命に工作したら他者にとっては難解きわまる事件になる、ということを知れてとても参考になった次第でございます。
 まさに犯人になったつもりで、どうやってこの死体を片付けよう、そしてどうやってあいつを陥れよう……と作者も一緒に苦心しなければならないんだなって思った次第でございます。

 確かに江戸川乱歩がいったように、『樽』の構成美、犯人の思惑全体の構築性……これに関してはクリスティやヴァン・ダインなどは足元にも及ばない、という感じでございます。
 クロフツは本当に実録的な犯罪を想像し、実際罪を犯した犯人がどういう行動を取るかを第一に考え、まず犯罪ありきの創作姿勢だったのでございましょう。犯人がリアルに出来うる限りの、考えうるすべての工作を頑張ってしておりました。
 ただ雰囲気から言いますれば、キャラクターたちみんなが偏執的なヴァン・ダインのほうが探偵小説らしくて魅力的でございます。うみねこのBGMはクロフツでは使えませんが、ヴァン・ダインでしたら使える気がいたします。

ーーー

 加えて、エドガー・アラン・ポーの短編「黒猫」も読んでみた次第でございますけれども、結構面白い怪奇小説で驚いた次第でございます。横光利一の「機械」みたいな雰囲気でございまして、やはり短編というのはこういうのが一番インパクトがあるのだなと短編執筆に励んでおられる文芸部諸氏にお伝えしたいような気がした次第でございます。

 次は同じくポーの短編、初めて本格的に《密室殺人事件》を扱ったらしい「モルグ街の殺人」を読んでみまして、その後3大倒叙推理のひとつとして挙げられておりますクロフツの『クロイドン発12時30分』を読んでみようと思っている次第でございます。
 ちなみに、倒叙推理というジャンルがどういうものかと申しますと、最初に犯人の犯行を頑張って綿密に描き、その後登場する探偵によって犯人が追い詰められていく様子を描き、犯人と一緒に一喜一憂するジャンルでございます。
2月9日―クロフツ『クロイドン発12時30分』――

 クロフツ『クロイドン発12時30分』が非常に面白く、なるほど、倒叙推理小説というジャンルは犯罪全体の構成、いかに犯罪がなされたかを愛するクロフツの本領発揮でございますね、といった次第でございます。
 そういうわけでございますから、主人公チャールズ・スウィンバーンが叔父アンドリュウ・クラウザーの毒殺遂行を思いついた動機から、良心に苛まれながらもどうやって叔父を殺そうかとする思案、思案の結果であるところの犯罪準備とその完了、殺さなければ失業し路頭に迷ってしまう従業員がいる! と涙ながらの断固たる犯罪の実行……と犯罪のすべてがクロフツの細密な筆致によって事細かく描き出され、今までの探偵視点の推理小説ではあまり感じなかったある種の犯罪心理学的関心をもってむさぼるように読んでしまったわけでございます。

 200ページぐらいまでは非常に秀逸であり、良心に苛まれながらも着実に犯罪を準備していくチャールズに、まさに小市民的な実際の犯罪姿を垣間見ているような気になり、大きなリアリティがございました。
 今は250ページぐらいを読んでいるのでございますが、少しおもしろさがペースダウンしてきたかな……と思うわけでございます。というのも、やはりこれからフレンチ警部によりチャールズが追い詰められていくことを想像すると可哀想でございまして、そしていわば、主人公チャールズの活躍はもうある意味終わったからでございます。
 あとはもうチャールズが積極的に出来ることは何もなく、おそらくただチャールズの受動的な心理描写と追い詰められていく姿を刻々と描くだけでございましょう。その辺が倒叙推理小説のネックになってくるのかもしれませんでございます。
 個人的には、処女作『樽』のようにもはやフレンチ警部に視点を移動させてしまってもよろしいのではないかとも思うわけでございますが、しかしながら主人公としての大きな資格をチャールズに託しているように思われますので、視点移動は起きなさそうともいえる次第でございます。
 SSでは、よく勘違い系のジャンルにおいて視点移動が頻繁に生じますが、そういう勘違い系的ニュアンスを推理小説に適用しても面白いかな……と思う次第でございます。


 ちなみにエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」は非常に楽しく読めた次第でございます。なるほど! という感じでございます。探偵役のデュパンも魅力的であり、短編推理小説としてはなかなか良く出来ていると思った次第でございます。
2月12日―『クロイドン発12時30分』読了―

 クロフツの『クロイドン発12時30分』を読了させていただきました。
 なるほど……悲しい結末でございます。読者とチャールズ・スウィンバーンには突然の出来事である劇的な逮捕。動揺し、狼狽し、絶望しながらも表面上平静を保って「すぐに戻る」と執事に言うチャールズが悲しかった次第でございますけれども、その後話は法廷劇へと移り、チャールズが検察官と弁護士の弁論を聞いて激しいまでに一喜一憂する姿、また最終的に裁判の経緯よりも被告席の机の上に這う蜘蛛の様子に重大事を感じている姿には、情感豊かな知的犯罪者の心理が如実に現れているように感じられた次第でございます。
 チャールズの有罪、そしておそらく死刑が確定したのち、チャールズの弁護を担当した弁護士2名とフレンチ警部が「(読者にはすでに知らされている)真相を知るために」対談をしている場面になるのですけれども、まさに現実世界の世知辛さを感じた次第でございます。弁護士と警部は歓談しておりまして、そこに敵味方という雰囲気はなく、いやああの事件ではやられましたけど、次は仇をとりますよ! 正直今回のは勝ち目はないと思っていたんですよ、はっはっは、みたいな感じでございまして、チャールズ・スウィンバーンがそれを聞いたらその心痛はいかばかりか! といった次第でございます。

 なるほど、『クロイドン発12時30分』は『樽』よりも読みやすく、また面白いといえますのでお勧めでございますけれども、真なる本格を求めておられる方にはやはりいつまで経っても真相が藪のなかである、謎が謎を呼ぶ『樽』のほうが興味深いのではないかと存じます。
 推理小説の危険なところは、ただ推理のみに焦点があてられるとつまらないところであり、そして推理以外のものを強調しはじめると、なぜ推理小説を読む必要があるのか、別に文学作品を読めばよろしいじゃないか、という気分になるところであり――でございますから、推理以外の要素もまた強調したい場合には、文学作品なみの文学的水準を兼ね備えていないとまったくもって凡作になりさがる……というふうに感じた次第でございます。
 そういう意味で、『クロイドン発12時30分』は『樽』ほど突き抜けたものを感じない、どこか評価の難しさを思う作品であったなと思う次第でございます。

 最近は有名な『毒殺チョコレート事件』や三大倒叙推理小説のひとつである『殺意』の作者であるアントニー・バークリー(『殺意』はフランシス・アイルズ名義)について、その作品をひとつも読んでいないのにもかかわらずシンパシーを感じている次第でございます。
 というのも、なかなかに推理小説というものに懐疑的な視点をもっているようでございまして、毒殺チョコレート事件などはひとつの事件に対して6人の探偵たちが6つの論理的解答を用意するなどしております。つまるところ、小説のなかの名探偵の解答が正しいとは限らないということをそれによって示唆しておる次第でございます。
 また読みたいと思っております『ジャンピング・ジェニイ』などは、うかつにも犯人扱いされた探偵がフルに頭を使ってアリバイの口裏あわせや証拠の偽造などをして嫌疑を逃れようとし、一層泥沼に入り込んでいくというコメディチックなお話らしくて、いわばひとつの勘違い系としてなかなか面白そうだな……と思われる次第でございます。

 しかしながら、今は手持ちのエラリー・クイーン『Xの悲劇』を読んでいる次第でございます。プロットのみを追いかけていくクロフツの簡素な描写になれてしまった身としては、クイーンの文体はなんだか余分な文章がありすぎて退屈だ……と思ってしまうところではございますが、論理の究極として名高いエラリー・クイーンでございますから、頑張って読んでみようと思う次第でございます。

 と同時に、昨日アマゾンでなんとなく眺めていた『零戦撃墜王―空戦八年の記録』を面白そうだと思ってしまった感じでございまして、本屋に立ち寄ることがございましたら探してみようと思う次第でございます。十数機程度の零戦によって数十機から数百機の迫り来る米軍戦闘機を日々迎え撃ち、伝説の撃墜王として戦後まで生き残ったシロガネタケル少尉もびっくりな経歴の持ち主でございます……。
2月16日―クラナドよ、君たちクラナドよ――

 クラナドアフターの第4話がパソコンのなかでひそかに生息していたことに気づきまして、なんとなく見返してみましたところ、それがいわば白痴的癒し系でございまして――春原陽平さんが

「メイを泣かせるんじゃねえぇェェッッッ! メイを泣かせるヤツは僕が許さねえッッ!!」

 と感動的に叫んだりしておられる様子を、離人症患者のごとき気持ちで拝見いたしました。
 なるほど、これが泣きゲーか……とつまるところ老後になってマルクス主義をはじめて理解した、かつて全共闘を戦い抜いた歴戦の闘士のような悲しき「気づき」を経験した次第でございました。

 真理の探究のためには仏をもマルクスをも殺す覚悟がなければならぬように、泣きゲーの真理を探究するためにはクラナドをも斬って捨てねばならぬのだと思います。
 ライアーゲームで天才詐欺師のアキヤマさん(前科者)もおっしゃっておりました。疑うことがその人を理解するはじまりであると。わたくしもその高橋和巳的アキヤマ精神にのっとって彼ら(岡崎朋也・春原陽平・春原メイ・古河渚)を観察したところ、彼らの一連の行動に、リーマン予想を解決に導くようなたいした意義を見出せないことに気づきまして、一体この方たちはなぜこれほど無意味なことに人生を費やしていらっしゃるのだろう……ダウト一億円!これで第三国口座は13億9904万円! と恥ずかしながら、真理の御旗のもとにあって、しかしながら自文化中心主義的発想をもって彼らを内心侮蔑してしまったのでございます。

 つまるところ何が言いたいかと申しますと、高校生を主人公にしている時点で知的真理から遠ざかるんじゃないかという恐れ……でございます。人間の本能に訴えかけるような情動豊かな真理にかえるには、わたくしもいささか年を取りすぎてしまったのかもしれない次第でございます!
 そしてライアーゲームが意外に面白く、アキヤマの数学的思考力、問題解決能力はライトくんを超えるかもしれない……とその才能に恐れおののくような漫画でございますことに気づいてしまったことを報告させていただきたく次第でございます。


 というわけで、ライアーゲームの2回戦、原作第8話から始まる「少数決ゲーム」がユーチューブにアップされておりましたので、ぜひアキヤマの天才っぷりをご覧になってみてください。文字が小さくて読めないので、最大化してくださるようお願いいたします。メイを泣かせるんじゃねぇぇぇぇッッ!!
2月18日―クラナド再――

 クラナドを誤解しておりましたことをここに告白せねばならないと思う次第でございます。
 先日クラナドアフター第4話を視聴しましたあと、クラナドを勉強しなおすことがギャルゲー一般に対する価値観の見直しに繋がるのではないかという気運が全体的に高まっておりましたので、ときどきリトルバスターズのギャグセンスに感心しつつクラナドムービーやアフターの最後の辺を見させていただきました。

 その勉強の最中――すなわち「CLANNAD泣かなきゃ負け!!名場面」という血気盛んなタイトルの動画を納豆卵かけご飯をもくもく食べながら見ていたときでございました。その名場面集のランキング第2位、主人公岡崎朋也とその父親の和解の場面において今まで見落としていた事実に気がついてしまったのでございます。

 岡崎朋也はその娘、潮(うしお)をつれて今まで反感を抱いていた父親のもとに和解に出かけます。この頃岡崎朋也は4,5年の育児放棄ののち潮との父子関係を再構築しはじめておりまして、父親という立場を実感しておったのでございます。
 岡崎朋也は数年ぶりに父親と再会し、自分の幼いころの父親の優しさと自分そっくりの父親の顔をフラッシュバックのように回想するのでございます。そしていかに自分が愛されていたかを感動的に思い返すのでございますが、そんな感じでその愛情を敵視していた自分に対する懺悔と父親に対する感謝の思いでつい泣いてしまうのでございます。そのとき、その泣き顔を不思議そうに見つめておりました幼稚園児である潮が、ふと

「光が……」

 と恐ろしいほど観念的な言葉を口にするのでございます。
 その台詞は、すなわち岡崎朋也が救済されたことを意味する言葉でございました。 
 この台詞を聞いた瞬間、忘却の彼方でございましたクラナドの設定を瞬間的に思い出してしまった次第でございます。クラナドの設定といいますれば、主人公岡崎朋也は各人間を幸福にすることによって「光の玉」なるものを入手し、岡崎朋也に関係する全ての人間の「光の玉」が集まると真なるエンディングに到達できるというようなシステムだったような気がいたします。
 つまり、岡崎朋也自身は気づいておりませんでございましたが、妻である渚を失ったとしても、潮との関係、父親との関係をふたたび構築することによって岡崎朋也は自分自身を救済しえたということでございます。ここで重要なのはやはり岡崎朋也の幸福において古河渚というヒロインは必要条件ではないということでございます。
 今まで毛嫌いしてきた家族という概念を認めることが、岡崎朋也の幸福にとって必要であった……というわけなのでございますが、アフターの本質はつまるところ岡崎朋也は自分自身の救済によってようやく全ての人間を幸福にできたということでございます……。
 岡崎朋也を含めた全人間の幸福、この恐るべき人間の不断の努力によって「町」が本当の意味で「家族」になり、そして家族となった「町」は家族の一員である住人のためにひとつの奇跡を起こす。つまるところ悲しむ家族の幸福のために渚の生命を守る、という設定だったらしいのでございます。(アニメ版エピローグにおける渚と朋也のモノローグによりますと)


 しかしながら、クラナドを視聴して素直に感動できてしまうことに泣きゲーの真髄をみた気がいたします。潮をはさんで、朋也と渚がだんご大家族という不思議な歌をうたっている様子(Clannad After Story - Happy Ending -)に、朋也ほんとよかったね……と思わざるをえない次第でございました。
 そしてまた、原作よりもアニメのほうがむしろクラナドのテーマを徹底させていることに驚きもした次第でございます。
 原作でございますと、家族という概念がややこじんまりとしているような印象もあった次第でございまして、渚の父母と岡崎の父母、そして岡崎と渚の子供、それに限定された家族でございました。
 しかしながらアニメでございますと、まさしく散歩や七五三や公園での野球など、無名の住人たちとの共生関係みたいなものがよく表れておりました。この世界全体が朋也と渚のような家族を有しているということ、すなわち町全てがひとつの家族であるということ、これを示してエンディングを迎えておるところ、これまた評価したいと思う次第でございます。
 そしてエピローグの最後にうつるのが、朋也とその父親が手をつないで歩いている、かつてありし情景だというところも評価したいと思う次第でございます。それはすなわち、岡崎朋也が主人公であるゆえんを強調するという意味においてでございます。不幸な家族関係をもっていた岡崎朋也の救済こそがこの作品のテーマであり、すでに幸福な家族をえていた古河渚の救済はテーマではないという意味でございます。

 確かにクラナドはギャルゲーを語る際に必要な何かしらの要素はもっているような気がいたしました……。
2月25日―●REC――

 久しぶりに映画を拝見いたしまして、やっぱり映画はゾンビに限る! っていうことをあらためて思わせていただきました。
 ゾンビ映画っていうのはどうしてこうも面白いのか謎でございますが、今回は「●REC」という映画を見させていただき、感染者を助けたい! というその博愛主義的情けこそが、まだ感染していない人たちの健全な肉体と精神を危険にさらしてしまうという世の中の悲しさを覗き見てしまった次第でございます。

 見ていて感じました問題意識としましては、感染してしまった人間たちの生命の取り扱いでございます。グォォオオォ! と襲いかかってくる彼らは、設定的に悪魔に取り付かれてしまった人間だとはいえ、しかし紛れもなく人間なのでございます。
 消防士のおじさんなどは、襲いつき、肉をむさぼろうとしてくる彼らの首の骨を容赦なくへし折ったり、木槌でガツンガツンと頭蓋骨を陥没させてみたりしておりましたが、しかし彼らは人間なのでございます……。
 キリスト教的にいえば神からいただいた生命ほど尊重すべき要素はないというところでございまして、一信仰者といたしましては、まさに襲い掛かってくる彼らの悪魔的悲鳴を聞きながら、地にひざまずき神に祈ることしかもしくは出来ないのではないでしょうか……と思った次第でございます。

 そのようなことを考えながらも、しかしながら、登場人物のひとりである警官が感染者を皆殺しにする気持ちで最初からいたならば、感染は登場人物全員には広がらず、救われる人間がいたはずである……ということを思わずにはいられない次第でございます。
 自分ひとりだけの場合でございましたら、神に祈りつつ殺される感じが信仰的にベストではないかとなんとなく思う次第でございますが、誰かの生命を守る立場にある場合、とにかく被害者を増やさないために最善の人間的努力をもなすべきでございますよね。
 目の前にゾンビさんがうろうろ歩いておりましたら、背骨を叩き折って歩けないようにするつもりで鈍器を背骨に叩きつけるか、あるいはゾンビさんに脳みそという概念があるかわからないのですが、頭を鈍器で叩きまくるのもありですよね。
 閉鎖空間における警察官というものは、そういうゾンビ殺害の重大な責任が双肩にかかってくるものでございますが、●RECにおける警察官は冷静な状況判断があまりできていなかったとしか言いようがございません。少女の儚い命を守りたいという彼の博愛精神にはらはらと涙を流してしまうのと同時に、銃をもった警察官が感染した瞬間に感染者を皆殺しにする機会が大幅に失われ、アパートに閉じ込められた登場人物たちの全滅は避けられえない事態となってしまった……という感想を抱いた次第でございます。
 警察官というものは、ちょっと殺しを楽しんでしまうぐらいが警官としての適性があるのですね!

『●REC』日本語予告
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