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2010.04.08.―こなかがSSとヨブ記―
ただいま旧約聖書のヨブ記を通読しております。 ヨブ記を読むのは2回目でございますが、ヨブ記はまさしくキリスト教文学の極致でございまして、2回目にもかかわらずびっくり仰天の連続でございます。 そうでございますね……この恐ろしいほどの感激というものをキリスト教にお馴染みでない方々に説明いたしますならば、これは本当になかなか難しいことなのでございますが……。 そうでございますね! いわばそう、こなかがSSというものがございます。もちろんご存じの方も大勢いらっしゃると存じますが、なんでしょうか、あの…、らきすたのキャラクターをもちいたカップリングSSらしいのでございます。らきすたをまったく見たことのない私が申し上げるのも恥ずかしい限りなのでございますが、「こなか」と「かがみ」というキャラクターの百合的カップリングでございますね。 先日とあるサイトで「百合」と「レズビアン」の対立について学んだ次第でございます。百合という萌え的感情は、社会で白い目で見られることの多いレズビアン(同性愛者)の、その真実の苦悩と現実的立場というようなものをまったく理解してござらん! 現実を直視せよ! というふうに、「百合」SSの書き手に対して警告を発しているのでございます。 それをお読みいたしまして、私は本当に目からうろこがこぼれおちたのでございます。アナニアのお祈りによってサウロの目からうろこがこぼれおち、迫害者サウロから伝道者パウロとなったように、私もまた「確かに百合とレズビアンの性の実態は乖離しておることはなはだしい次第でござる」と認識いたしました。 問題は、レズビアンの性的アイデンティティを――物語から離れた現実において――百合好きの方々もまた差別的に嫌悪する可能性があるというところでございます。物語のなかにおいて同性愛(百合)を描いていながら、しかしながら現実においてリアルで生々しい同性愛を忌避するような人間のなんと多いことか……(多分)。 私もまたキリスト教徒でございますから、いわば伝統的教理において同性愛というものを完全に肯定することは出来もうしあげません。しかるに聖書において同性愛がいかなる描写で書かれているかと申し上げますれば、聖書においては非常に性的に堕落している人物として同性愛者が描かれているのでございます(ソドムとゴモラなど)。つまるところ婚前交渉や不倫と同じように、行為の罪として描かれているのでございます。 そういうわけでございますから、同性愛の方々が存在的に神の祝福から離れておいでであるというわけではないような気がいたします。たとえ性の対象が同性であろうとも、主に祈り、真剣にみずからの性と向かい合うならば、それはまさに祝福された性でございましょう……。 同性愛の方々にとって最大の問題は、今の法制度では結婚できないところでもあるようでございます。しかしながら、本当に個人的かつ偏見にみちた意見となってしまうところ恐縮なのでございますが、結婚というものを同性でする意味があるかというと、本当のところ私としてはよく分からない次第でございます。 もちろん法律的に結婚できてもいいのではないか、と思うところもあるのでございますが……、同性愛者も結婚できるようにすべきだ! とは積極的に発言しにくいものがあるというのが本当のところでございます。 やはり私の本音といたしましては、同性同士の結婚によってはたして夫婦の一致が完全になしうるかといった、やや聖書的な方向での個人的懐疑がある次第でございまして、それが同性愛者のための結婚制度を整えるべきだとの積極的思索・発言を躊躇させているらしいのでございます。 つまり結婚というものを、まさに双方が双方の本質的助け手としてよく機能するもの…両性の本質的平等観を促すであろう異性同士の和合と一致…といったものであると、私は解釈しておるのでございます。 同性同士で結婚なさっても、男女どちらかの社会的性質、思考方法的性質、コミュニケーション的性質……などが欠如してしまいますので、お互いがお互いに足りないものを補うというような本質的助け手になりにくいのではないか……みたいな感じでございます。 もちろん夫婦のどちらかが性同一性障害であるならば、夫婦として機能する可能性は十分あるような感じがいたします。しかしながら一方が性同一性障害であったといたしましても、もし他方が性同一性障害の方の性的特徴から同性愛的認識をもってその方に好意を抱き、結婚したならば、なかなか上手くいかなそうでもございます。その場合は、本格的な祈りの精神でもって、夫婦の一致に努めていかねばならないように存じます。 上記の旨を同性愛とは直接的に関係しない方向で要約いたしますと、恋愛の延長が結婚であるとの考え方はあまりよろしくないのではないか、というところでございます。 恋愛は一時の性的欲求によく支配されますが、結婚は決してそのような安易な願望・欲求に支配されてはならないのではないか……。 恋愛から結婚に発展することを否定するのではなく、恋愛と結婚は確実に別な種類のものであるということを私たちはゆめゆめ忘れてはならぬのではないか、というところでございます(婚前交渉はあきらかに個人的欲求に基づいていると考えますので、やはり否定せねばなりません)。 何において別種であるのかと申しますと、お金がいるとか子供が出来るとかそういうものではないように存じます。まさに夫婦がひとりの人間として一致するという点でまったく異なるのでございます。 離婚・不倫が起こるということは、夫婦のどちらか、あるいは双方が結婚を恋愛と混同され、無責任な振舞いに走ってしまったからではないかと思う次第でございます。一時の感情で不倫したりあれこれやっているようでは、なぜ結婚されたのか、ということの意義が弱まってくるように感じる次第でございます。 夫婦たるもの、ともに向かい合って、互いのことを毎日祈りあってはいかがでしょうか……難しいことであろうと存じますが、真にお互いがお互いを慈しみあう努力をしてみてはいかがでございましょうか……ということでございます。 というわけで、先日偶然NHKの「八日目の蝉」というドラマを見て若干憤激したことどもを合わせて述べてしまったのでございますが、こなかがSSについて頑張って話を戻したいと思う次第でございます。 私はこなかがSSを一本も読んだことがございませんが、こなかがSSの魔性に気づかざるをえない次第でございます。 こなかがSS……私がチラっと読んだこなかがSSは、隠上神社さんの文学的SSだったのでございますが、これがまた本格的に同性愛についてお考えになっている雰囲気が醸されているSSでございまして、私はその最初と最後の文だけ読んで目からうろこが零れ落ちたのでございます。 美しい文章というのは内省的であり、また自己批判を辞さない覚悟のある文章であるのかもしれません。そしてまた真理を模索する人間で自己批判をしない者はおそらくいないであろうと存じます。 クリスチャンにとって真理は三位一体の神でございます。すなわち三位一体の神のみが真理であるのでございますから、人間が捉えうる思想など真理ではない、という徹底した自己批判・自己崩壊が最終的には求められる次第でございます(生真面目なクリスチャンにとって)。 それでは、神を信じない、神を念頭にまったく置かない人間の真理探究はまったく無意味なものなのかといわれれば、「然り、然り」ではなく「否、否」のほうでお答えせざるを得ない次第でございます。 真理――非常に曖昧な言葉ですので言い換えますと、善きこと、もっとも正当性があると考えられる思想、の探求ではないでしょうか――を探究する人間は、自分の考えが絶対に正しいとはやはり思っておられないのでございます。 絶対に正しくはないけれども、「今のところ」自分のなかではもっとも正しいとされる考えではあります、正しくないと感じられるのであれば、ぜひその問題についてのあなたのご意見を聞かせていただきたく存じます、みたいな感じなのでございます。 それくらいある問題について内省的・自己批判的に熟考されておられるのが、その文学的こなかがSSの美しい文章からそこはかとなく感じ取れた次第なのでございまして、しかし全然読んでおりませんので、どういう問題についていろいろ考えておられるのかは恥ずかしながら存じ上げない次第でございます……。へへへ……。 そう、そしてヨブ記にもまた、そのような文学的たたずまいがあるのでございます。 ヨブは律法を完全に守っている、神様に唯一正しいとされた人間でございました。しかしながら、そのヨブの信仰を試そうと、神様の許可をえたサタンがヨブにあらゆる災害を見舞うのでございます。 最初、ヨブは「神は与え、取られる」「裸のまま生まれてきたのだから、裸のまま帰ろう」とその試練に耐えておりました。神を賛美しつづけておりました。 しかしながら、全身が悪性のできもので覆われ、眠れるときがないほどの痛みと痒みが襲い、親しい人間の誰もがこれがヨブであると分からないほどの状態になったとき、ヨブはついに神様を訴えはじめるのです。自分を殺してくれ! といい始めるのでございます。 私が何をしましたか、私は一切罪を犯してきませんでした! ヨブは自分に罪は一切ないと言い張り、だから神は善人も悪人も関係なく打ち滅ぼすのだと言うのでございます。友人たちは「そんなわけはない、人間はみな罪人である! お前にも何か罪があるのだ。悔い改めろ、そうすれば神は憐れんでくださる」というのです。どちらも根拠をもった、正当性のある言なのでございます。神による因果応報(旧約的な考え方)を説く宗教家と、いわれのない受難の代表者としてのヨブの嘆きなのでございます。 ヨブと3人の友人たちの凄まじい議論の応酬は、ヨブ記の記者の耐えがたき内省と苦悩と自己批判の結晶なのでございます。信仰の葛藤なのでございます。なぜ罪があるべくもない人間が自然災害などで呆気なく死んでしまい、不正をなす者がこの世で祝福を受けるのかという疑問。そしてまた、しかしそれでも遍在の神はすぐそこにいて、私たちの思いと行いを見ている、私たちの全てを見抜いている、その思いと行いによって人間を裁いてくださるとも思っているのでございます。 (ヨブ記は旧約なので、信仰のみで救われる新約的な神観ではございませんが) 最終的に、ヨブは祝福をふたたび受け、回復するのでございますが、それまでの過程がまったくもって文学なのでございます。何が罪なのか! 私が罪と認識できない罪までも罪と定義するのは、主よ、それはあまりにあまりではございませんか!等…。 (つまり、罪と災害を結びつけるのはおかしくないですか、という旧約時代の民衆の価値観に対するヨブの魂をかけた反論でもございまして、それは信じる者を無償で贖うイエス・キリストの予告でもございます) 文学として聖書を見るのはあまり敬虔とは言えず、私もあまりそういう風に聖書に言及したくないのでございますが、しかしながらやはり、ヨブ記は誰にとっても理解されうる文学であると感じてしまった次第でございます。 皆様も旧約聖書をお読みになるときがありましたら、ヨブ記に少し触れてみてはいかがでしょうか……完。 |
2010.04.10.―ピアノ鑑賞―
『ピアノの森』にいたく感動してしまいましたので、ついついユーチューブで若き才能豊かな人間たちのピアノコンクール予選や本選、あるいは入選者の演奏を堪能しておりました。 なるほど、才能ある人間の演奏は確かにピアノの森の主人公、一ノ瀬海のような演奏でございまして、ピアノはなんと繊細かつ恐ろしい楽器なのだろうと思った次第でございます。 ピアノの音はまさに弾き手によって自由自在なのでございます。それゆえ聴衆は演奏者の音楽的詩的感性に敏感にならざるをえず、しかもそれは正確なリズムと強弱の上に乗せられた、非常に難易度の高い感情表現なのでございます。 というわけで、上原彩子が凄いとなんとなく思いました。ピアニストについては本当に無知ですのでなんとなくでございますが、一線を画しているヤポンチカ(日本野郎)に思われまして、2002年チャイコフスキー国際コンクールで女性初・日本人初の優勝を成し遂げたヤポンチカでございます。 その猫背的姿勢、菩薩のごとき泰然とした表情からしてあたかも「シャイン」の主人公のごとく自己の内部に埋没している様子が見受けられる次第でございます。時々音の行方を見守るように上方やあらぬ方向を凝視したりするのもまた愛嬌があって恐ろしい次第でございます。 ●上原彩子(2002年チャイコン) おそらく22歳のときにチャイコフスキー国際コンクールのピアノ部門で優勝したときの演奏でございます。演奏終了後の「ウラーー!」というロシア人観客のカタルシス的反応に共感せざるをえませんので、ぜひ最後までご視聴していただきたく存じます。 とくにピアノの森を読んでから視聴いたしますと、いかに完璧に自分の演奏をすることが難しいかというのがおぼろげながら分かる次第でございまして……またそれにしてもあまりに素晴らしい演奏が続きますので、聞きながら手に汗握ってしまった次第でございます。 よし! いい導入だ! カイくん、その調子…! みたいな感じです。 |
2010.04.13.―クラシック的理解……―
クラシックを聞きまくっておりましたところ、中国の名ピアニストであるラン・ランの演奏は許されるかどうか悩むところまで行ってしまった次第でございます。 つまるところ、第10回ショパン・コンクールでイーヴォ・ポゴレリチは予選において聴衆から奇跡的スタンディング・オベーションを獲得しましたが、第2次予選(『ピアノの森』で一ノ瀬海と雨宮修平が今頑張っているところでございます)で最低に近い成績、第3次予選で落とされてしまい、聴衆は怒り狂いました。そしてまた審査員のマルタ・アルゲリッチはポゴレリチ落選に激怒し、「彼は天才だ!」と言い残して審査員を辞退したことで有名でございます。審査員側は急遽「審査員特別賞」なるものをポゴレリチに与えたのでございます。 (アルゲリッチはその20年後の2000年、第14回ショパン・コンクールで審査員に復帰します。アジノ・ソウスケのショパコン落選とそれに激怒して審査員が辞任するエピソードが『ピアノの森』にありますが、その元ネタでもありそうな実話でございますね……) 私といたしましては、ポゴレリチの予選における演奏はまったくもって許容範囲内ではありますが、ラン・ランほどの激しい感情をこめた演奏となると、その超絶技巧はよしとしてもやはりピアノを自分勝手に弾いているような印象がどうしてもぬぐえず、賛否を引き起こさざるをえないという感じでございます。 しかしラン・ランのピアノは聴いていてまったく飽きないので、素晴らしくコンサート向きであることは疑いえずでございます。 ニコニコ動画にラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を聴き比べる動画がございましたので、ぜひあとでご視聴していただけたらと存じます。4人のピアニストでラフマニノフを聴き比べるのですが、そのなかに映画『シャイン』で有名なデイヴィッド・ヘルフゴットも入っております。 しかし注目すべきは一番目に出てくるブロンフマンの演奏と、2番手のラン・ランの演奏の比較であると考える次第でございます。 ブロンフマンは楽譜を大事にする緻密な正確さと情熱的感情のバランスがよく取れており、一方ラン・ランはその曲の潜在的可能性を表現すること、具体的感情表現を重視しております。双方別種の演奏をしながらも、かなりの迫力をもってわれわれに迫ってくることに相違ございませぬ。 ラン・ランのあと、3番目に清水和音による演奏を聴きますと、コメントに「武士だ」とか書かれるように、まさに楽譜どおりに弾くことの意義がわかる次第でございます。正確な演奏はそれこそ曲に秘められた可能性というものを聴衆に暗示するのでございます。 いわゆる繊細な音楽性とでもいうような感じでございまして、演奏者の張り詰めた集中力と謙虚かつ繊細かつ優しい人間性に、なんだか人間存在の儚さを涙とともに感じる次第でございます。やはりピアノの森の雨宮修平はこの路線で攻めていくのだろうな……というものでもございます。そして一ノ瀬海はもう少し控え目だとは思いますが、どちらかといえばラン・ラン路線なのでございましょう! 4人目のデイヴィッドの演奏もブロンフマンに似た中庸的演奏でございますが、デイヴィッドの場合は悲哀の表現が強くにじみ出ている感じでございます……。独特な間をとった演奏方法に悲哀を感じる次第でございますが、ブロンフマンのほうが力強く流れるような迫力がある次第でございます。もはや本当に、好みの問題であるような気がいたします! 私といたしましては、デイヴィッドのほうが悲劇性があって好きでございますが…(そしてこの悲哀的感動は清水和音の演奏でも得られるところでございます。しかしデヴィッドの悲哀はそれに対して抗おうとする悲哀であり、清水和音の悲哀は優しさゆえの受容的悲哀でございます) 曲調と若干矛盾するおそれのある意味合いを感じるところもございますので、難しいところではございます。 また、こちらのショパンピアノ作品聴き比べもかなりおすすめでございます。「子犬のワルツ」における個性の引き出し方、快活な子犬なのか優しい子犬なのか……。またポリーニによる「木枯らし」の演奏は衝撃的で、まさに一ノ瀬海……っていう感じでございます。 ルービンシュタインの「ノクターン13番」は、ヤポンチカである私にはよく分からない次第でございますが、おそらくかなりのレベルでショパン的といえそうな情感でございます。 アシュケナージのノクターンには魅惑的な美しさがありますが、ルービンシュタインのノクターンには優しい静寂がございます。ここはノクターン(夜想曲)という題名とそれにふさわしい曲調、加えて悲哀を好む人間として、ルービンシュタインの勝利といえなくもございません……。 結論として、人それぞれ好みの旋律と解釈がございますので、クラシックCDを買うときは結構聴き比べたほうがよいと思ったわけでございます。暗めな演奏が好きなのに明るめに弾く演奏者のCDを購入してしまったら悲しいような感じでございます。 しかし上のラフコン3で申しますならば、クラシックにあまり馴染みのない方々におすすめするときは、死ぬほど悩んだ末ドラマチックなラン・ランを推してしまうかもしれない次第でございます。しかしラン・ランは曲の解釈が自由すぎて雑に聞こえなくもないから……ブロンフマンもおすすめだよ! という感じでございます。 (デヴィッドの嘆いているような心のこもった演奏、とくに中盤から後半にかけての魂の叫びのようなロマンチックな感情表現は4人の中でもっとも想像力を喚起するものであるといえるのでございますが、音のリズムの均衡、和音の正確さ、綺麗さを見たときブロンフマンに勝てない面があるように思えます。しかし『シャイン』の影響もあってか、個人的には一番好きでございます) (そしてまた清水和音さんの演奏を何十回も聴き比べをしたあとであらためて聴いてみますと、まさにその丁寧さが美しい……と恐ろしいほどの音の正確さに腰を抜かしてしまった次第でございます。『ピアノの森』の雨宮修平のピアノのよさが初めて分かったといいますか、音楽のそのままの美しさに感嘆の吐息をもらしてしまうのでございますが、おそらく初めて聴くと眠くなる可能性が高いのでございます) (すなわち個人的に好きな順をあげてみますと、デヴィッド→ブロンフマン→清水和音→ラン・ランとなる次第でございます。ラン・ランは、マジかよ…やりすぎじゃないでしょうか…と思ってしまうところがございます。そして最後に、聴き比べをするときは、ながら作業ではまったく違いが分からなくなるおそれがございますので、目をつぶって本気で旋律を追いかけることをお勧めいたします……) ーーー しかし実際ピアノのことを日記に記述しようと思っていたわけではございませんで、聖書について書こうかなと思っていた次第でございます……。しかしながらこの日記を記述するためにラフコン3を延々と聞き比べてしまい本気で疲れてしまったのでこの辺で……。衝撃的なことに3時間かけて4人×3分間の演奏を聴き比べてしまった次第でございます! |
2010.04.16.―聖書は読まねばならないか―
今日のお昼、喫茶店でコーヒーを飲みながら聖書を読んでいたのでございますが、さまざまに思うところがございましたので、非常に憂鬱なものを心に抱えた児童のようにノートにいろいろ書きなぐってしまった次第でございます。 それに1時間ぐらいかかったような気がいたしましたので、あまりにももったいないので引用してみたく存じます。 ーーー 題:「しなければならない」習慣について 我々は神様との接近を考えて、よく聖書を読まねばならぬ、祈らねばならぬと思うものである。 しかしながらそのような義務的精神は律法的精神となんら変わらないものといえる。むしろその義務は、他者を裁くパリサイ人としての心をその人に抱かせるように思う。 聖書を毎日読んでいる私の感情をより詳細に分析するとどうなるか。それはまさに「必要に駆られて」おり、聖書を毎日読むことが「自然である」ような心情である。 習慣というものはえてして義務でもある。食事や排泄など、生存に不可欠なものは義務的習慣とはなりえないが、霊的瞑想が身体的必然性を伴わないものである以上、そこには「しよう」あるいは「しなければならない」という積極的意思が介在し、その行為を習慣とするためにはより強い「しよう」「しなければならない」という意思、義務が求められる。 それでは、なぜそれを習慣とするのか。それが切実に求められていると感じるからである。読書を毎日する習慣も同じである。それが求められており、かつ有益であることを知っているからこそ、嫌でも「しよう」という意思、義務がその心に生じるのである。 (行為をするときの心情において、義務の割合があまりに高くなるとそこに嫌な感情が生じ、精神に負荷がかかる。義務の割合がおさえられた、自分なりの神とのコミットの仕方を模索すべし。たとえば一秒くらい神のことを考えるなど。神とのコミットは義務ではないが、強くおすすめするものである) 普通、祈りや聖書を読む習慣は、神との対話を促すものとして、やはり切実に求められる習慣である。そしてこれらの習慣は、神様との交わりのひとつの手段として必然であると同時に、この習慣を維持するためには義務にも似た強い意思が必要となる。 しかしその習慣が当人にとって大きな負荷となる場合、その習慣はその人間にとって必然ではないといえるのではないか。神様はそれを当人に求めておられないのである。もっと違った形で神との交わりをもつ良い方法があるはずであり、その模索をしてみるのもよいかもしれない。 問題はどのように日々神にコミットしていくかであり、その最善は、いかなる方法が自然に神と対話できるツールとなりうるかの模索によって見つけられるように思う。読書を好む人は聖書から神の御言葉を聞く、会話を好む人は祈りから御言葉を聞く、漠然と神の愛にひたる者は沈黙してその幸福感に身をゆだねるのである。 神とのコミット、交流の仕方を教えるために、その一手段として信仰者はひとまず聖書を読むことをすすめ、祈ることをすすめる。特にクリスチャンホームとは無縁な環境で育った人間は、神との交わり方が感覚的に理解できないので、神からの語りかけであるところの聖書を読むことをおすすめするのである。 また、聖書には神様がどのようなお方で、どのようなことをおすすめになっているのかも書かれているので、ぜひ読みたいところではあるが、しかしそれは絶対に必要なものとはいえないところがある。 何よりも、神とのコミットが我々の日々の目的なのであって、その手段の伝統的方法に多大な負荷をもって固執することはない。信仰者に神様のことを聞いてみたり、牧師に聞いてみたり、あるいは自分から誰かに話してみたり、そのようにして神とのコミットをすすめていっても当然よい。もちろん独善的にならないよう、つねに聖徒との交わりは我々には必要であるが。 何ごとも興味をもって取り組むことが肝要である。あるいは意義を見出して取り組むことである。 義務が8割以上を閉める習慣はほとんど負荷が高すぎるといえる。しかしその習慣を続けていきたいと思うのならば、それは忍耐することに意義を見出しているともいえるので、ぜひ続けてもらいたい。 要は、「なぜそれをやっているのか?」という懐疑の気持ちが大きいのならば、別の方法を模索してもよいということである。 聖書を毎日読まねばならぬ、祈らねばならぬ。 これは方法に固執して目的を見失っているに等しい状態である。我々の目的とは神と交わることであるので、別にそれは聖書を読まなくとも可能であるし、祈らなくともちょっとした会話で可能である。 自分が出来そうだと思えること、そしてチャレンジしたいと思えること、この行為を自然に無理なくおこない、神様との交流を「習慣として」日々深めてもらいたい。 ーーー 読み返してみて、なるほど、その通りでございますね……と頷いてしまった次第でございます。 つまるところ、私などは聖書を毎日読むことはそれほど苦ではないのですが、本気で読書嫌いの方や忙しすぎる方にとっては苦痛すぎるかもしれないと思い当たったということでございます。そのような方が無理に聖書を読んでも辛いだけであるように思いますので、1秒でも神様のことを考えること、これを日々の習慣として無理なくやることを、神様は望んでおられるのかもしれないと思った次第でございます。 |
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