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9月7日

 新潟の友人たち4人が映画の撮影旅行のため秋田まで来てくださったんですが、非常に充実したかのような錯覚を体験させてくれる素晴らしいイベントでございました。
 とくに男鹿半島の特色のひとつ、「なまはげ」という生身剥ぐぞ、生身剥ぐぞ……という恐ろしい実演をなまはげ伝承館で拝見したことが僕には衝撃でした。

 うん? おめどこの奥さんどこさ行った? おめどこの子供の姿もみえねえなあ……女子供はいねがあ、子供はいねがあ、と地獄からの使者のごとき発声方法で家中をドスドス歩き回る姿はほんと、殺される前に殺せ……と思わず包丁を握り締めたくなる迫力です。のしのし歩きながら壁とかをバン!バン!と叩きまくるので、ほんと怖いのです。
 見学者である僕たちもなぜかなまはげの餌食にあってしまい、なまはげさんに山奥に連れ去られてしまいそうだったのですが、「すいませんすいません」と謝ったらあっさり許してくださいました。なまはげさんも本当はこんなことしたくないんだろうな、と思わせる暖かい心の交流を感じた次第です。


 しかしそんなことはどうでもよく、ブレイブハートさんを主人公にした映画撮影が、個人的には難航しているように思われました。僕もなんとかブレイブハートさんのすべての本能と理性、すべての罪悪と善性を浮き上がらせる議論をしたかったのですが、以前のブレイブハートさんと違って頷かざるをえないことを長々と語られますので、とくに反論することがないのです。
 反論することがないので、うんうん言ってるだけになってしまい、かつてのブレイブハートさんのひとつの特色であった動物性が露見されず、いったいこの映画はどうなってしまうんだろう……と思わざるをえませんでした。
 彼ら4人と別れる日の夜、ついにブレイブハートさんの強烈な本能によるかつての恐ろしい罪……彼いわく「自分にとってもっとも重い罪」を告白という形で撮影できたようですが、……あのあと彼と峰Fさんがどこまで激論をかわすことができたのか、気になって仕方ありません。
 カメラマンとしてブレイブハートさんとカメラ越しに見詰め合っていたO山さんが、彼の恐ろしい告白にどこまで耐えられたのかも興味深くあります。

 「僕はガムテープをとりに下(1階)に行こうと思ったんです」

 カメラの前でときどき自分の罪の重さに耐えかねるかのように苦笑し、視線をさまよわせ、それでも一生懸命懺悔する彼の姿は、まさしく善のかたまり的存在でした。


 で、彼らと一緒に日曜の礼拝にもいったんですが、そこでの牧師さんのメッセージにブレイブハートさんが泣かれていたのも非常に印象的です。
 ブレイブハートさんは僕の前の席に座っていたのですが、首を幾度もたてに振りながら、ごしごし眼をこする姿は……神様をすこし誤解しているんじゃないかと思わせつつも、しかしこれこそクリスチャンのあるべき姿じゃないか……とも思わせる、真実の美のひとつでございました。
 残念ながら動画撮影は許可されませんでした。ブレイブハートさんの泣き顔が撮れなかったことは残念だったように思います。

 礼拝後、ブレイブハートさんに「教会どうだった?」と尋ねてみたところ、「これからは教会に行ってみようと思う」と言ってくださったので、僕としては非常に嬉しい結果となった次第でございます。
9月8日

 峰Fくんが秋田に来られたとき、『エレファント・マン』のDVDをお土産にいただいたのですが、さっそく拝見してみました。
 なるほど……これはなかなか名作だなって思いましたが、プロレタリア文学みたいなある種の実験作品、思想作品だなとも思いました。

 あまり映画内で主人公たるエレファント・マン……ジョン・メリックの心境を語らず、彼と一定の距離を保ったままの脚本とその撮り方でして、不思議な幻想感を抱かせる内容となっておりました。そこに監督さんの意図があるようでしたが――すなわち「本当に人間はこの映像の中にいるのか」、という何か得たいのしれないものに疑義を呈するかのごときフィクション性があったように思います。
 あるいはそのフィクション性は「この登場人物のなかの誰が人間でしょう?」という幻想文学的問いかけでもあったように思いますが、しかしながら『エレファント・マン』を見たあとの第一印象として、僕はこの監督の問いかけに「このなかに人間はいなかった」と答えざるを得ない気がします。
 つまるところ人間とは結局動物にすぎない、という意味で……。人間たちは、自分が動物であることを忘れ、今ある境遇がいかに恵まれているのかを忘れてしまっている。人は自分のなかの善性・悪性、よきこと悪いことにこだわり、物事をそのまま直視することができないでいる。

 ジョン・メリックは人間存在が動物にすぎないことを僕たち視聴者に突きつける存在であり、映画のなかでメリックにむらがる人間たちはその異形の姿から眼が離せない。
 彼らははじめて人間という姿、人間のシルエットとしての姿を直視する機会を得て、はじめて自分の顔をみた人間のようにジョン・メリックから眼を背けることができない……。メリックをみて悲鳴を上げる人間、にやけてしまう人間、さまざまな反応がありますけれども、彼らははじめて人間をモノとして理解し、その形を分析し、人間にも模様や柄があるということを理解するのです。その模様や柄によって好悪がわかれる、ということを理解するのです。人は利便性とか機能性とかそういうのよりもまず、見た目によってその良し悪しを判断するということを……。生命あるものに対しても!

 見世物小屋で働いていたジョン・メリックはまさしく自分が動物……動くものであることを理解していました。その醜悪な外見から内面がまったく評価されず、ただ見た目によって判断される絨毯とか枕カバーのように扱われてきたメリックは、「人間」というものに過大な評価をせず、モノとして扱われるからこそ人間を「モノ」として直視していたのです。あるがままに現状を受け入れ、小さな幸福、その現象に素直に感謝することができたのです。
 ジョン・メリックは自分を匿った医師の行為を売名行為と決してうたがうことなく、ただ純粋にその行為に感謝します。ひとの内心という見えないものをあれこれ勘ぐらず、自分のために化粧箱まで用意してくれた医師に対し、「ああ、本当に素敵な友達だ」と心の底から感謝をする……。その現象と、その現象を運んできてくれた人間というモノに感謝するのです。ああ、本当にありがとう! と。
 この人間に対する純粋な視線こそ、人間の自分に対する視線に対し、

" I am not an animal....! I am a human being....!! "

 と……自分が動物であることを理解しながらも、それでもやはり僕は人間なんです……と号泣できる人間こそが……まさしく真の善の持ち主であると疑いようもなく思ってしまう映画でした。


 そんなわけでブレイブハートさんの映画の予告編をみてみると、「真の善とはいかなる理由があろうと差別を正当化しない心」とか「目上の人に対するような敬意ある態度を、目下の人にも取れるような人間が、真の善の持ち主である」とブレイブハートさんはおっしゃっているのですが、しかしエレファント・マンをみて、それはちょっとまだ……自分自身が真の善をもてるかのような発言であり、ブレイブハートさんの映画で彼に聞いてみたかったところであります。
 真の善というイデア的観念は、われわれ人間的人間、身体的人間には持ち得ないものなんじゃないか……と。真の善とは、この世でもっとも不幸といえる人間しか、身体性の崩壊したエレファント・マンのごときまったき精神的人間しか持ち得ないものなんじゃないでしょうか……と!


『エレファント・マン』予告(日本語字幕なし)
9月9日

 まずニコニコ動画でマイケル・ジャクソンを歌詞つきで聴いていますと、マイケルってすげえ歌詞書くな……って号泣してしまうのですが、そのほかによくわからない名曲っぽい洋楽を2時間聞き、そしてさらにニコニコでアニメとかギャルゲーの音楽を聴くと、なんか音楽って全部同じなんじゃないかという恐ろしい感想を抱いてしまうようになります。
 まさしく一体なんのために自分は3時間も音楽を聴いていたのだろうって……音楽を聴く、listen to music、という行為にはほとほと無意味さを感じざるをえません。念仏でも聞いていたほうが意味あるんじゃないですかって真顔で言ってしまう感じですよね。

 今の日本の音楽というのは、おそらく洋楽の影響を受けすぎているもので、歌詞を考えなければ洋楽だけ聴いてれば日本の音楽を聞いてることになるような気がします。
 しかし洋楽の歌詞も普通にニコニコではコメントで見れるので、歌詞が分かる段階で洋楽=日本の音楽という感じになり、それじゃあなぜあえて邦楽を選び、なぜあえて洋楽を選ぶのか……という不思議な幻覚を覚えました。


 アニソンもギャルゲーソングも音楽的には洋楽とほぼ同じで、ちょっと一つの音が長い演歌風味になって声がなんか違うだけ……。やっぱりそうなると、歌はとにかく歌唱力と歌詞が重要になってくるなって思います。
 マイケルジャクソンは素晴らしい歌詞を書くという意味でやはりなかなかやるなって思うような感じでしてですね……つまり何が言いたいかと申しますと、そうですね、特に申し上げたいことはなく、マイケル・ジャクソンがよかったよ、ということをはにかみながらご意見申し上げるといったところでして……!


●マイケルジャクソンの名曲集


 この動画の歌詞の和訳がいちばん上手かったので、この動画をおすすめ!
 最初の「Heal The World」、真ん中27:00からの「Black Or White」、最後42:43からの「Man In The Mirror」の歌詞と曲がかなり上手いな……って感じです。思想性がかなり強く、黒人だからこその平等と平和を求めるマイケルさんの理想主義的性質が強く出ているな……って感じです。  で、マイケルのダンスパフォーマンスがたしかに面白い……っていうのがよくわかるのがこの動画です。まさに眼が離せない感じです!
9月13日

 久しぶりに今日は教会において静かな怒りに身を焦がし、クリスチャン学生のいれてくれたコーヒーカップを固く握り締めながら、その当のクリスチャン学生たちに対して絶望と諦めの視線を送ってしまいました。
 いわばそのときの僕は、<善きこと>を真に追求すべき思想をもってキリストを信仰しないことの無邪気な悲惨さを感じてしまったのです。アフリカの飢餓に苦しむ少年に清涼飲料水を与えてしまうかのごとき純粋な善性、純粋な罪性に……それを目の当たりにしながらも、沈黙して苦しまざるをえない状況に追い込まれてしまったのです。
 まだマイケルジャクソンのほうがキリスト信仰を理解してるんじゃないか……と恥ずかしながら昨今のマイブームであるマイケルを引き合いに出して思うレベルの、それは本質的な怒りでございました。


 クリスチャンはなぜかくも異端というものを拒絶するのか。この差別性が僕には到底理解しえないのでございます。異端者に対しては説得と感化こそこころみるべきであり、彼ら異端者を排斥し差別することはまったくキリスト者としてあるまじき姿勢ではございませんか。
 僕はそのことを……彼女らの無邪気な信仰の差別性を……彼女らに伝えたくてたまらず、しかしそれを伝えることのできない、消極的にその犯罪を肯定してしまっている自分自身に悲哀の微笑を向けざるをえませんでした。
 今すぐ、まさしく今すぐ彼女らの差別を是正せねばおそらくはその差別は未来永劫にわたるであろうことを確信しながらも、僕はただコーヒーカップを握り締めることしかできなかったのです。

 彼女らはおっしゃいます。

「○○ちゃんが統一教会に通っていたみたいなんですよー。途中でなんか違うって気付いたみたいで、ほんとよかったです」

 そこからはじまる統一教会に対する差別的発言、モルモン教に対する差別的発言……無邪気に異端を排斥する正当を自負する人間たちの哄笑……。時代が時代ならば、They would surely hunt the witch ......と申し上げざるをえない無邪気さ…。
 さきほども申し上げましたように、私はちょっと場の空気を乱さないよう発言を控え目にしていましたが、心は怒りに打ち震え、耳を塞ぎたい気持ちを抱きました。なぜかくも自分たちの信仰に無条件の正当性を付与したがるのか、思想を抱かぬ人間というものは、そうやって異端を排斥することによってしかキリスト信仰に正当性を与えることができないのか……。そして沈黙せる自分もまた同様である、と……。

「大阪のとき統一教会の人で、こんなペラペラな靴を履いて、新しい洋服も買わないで、文鮮明に全部貢いでいた人がいたけど、それがやっぱり正しいことだと思い込んじゃってるから……」

(なんてことを仰る!)

 僕はほとんど怒髪天に突き刺す勢いで、とにかく反論したかったのでございます。キリスト教も献金するではありませんか、と。献金すればするほど祝福されるとおっしゃるではないですか。何をいっとるんだ。自分たちのことを顧みずに、あなたは自分自身の言動を棚に上げて何をいっとるんだ……。
 そこはこう言うべきでしょう……。見習うべき信仰心ですよね。そういう信仰の篤い異端の人こそ、救わなければならない人間ですよね、と……。
 さらに彼女らはおっしゃいます。


「よかったね〜○○ちゃん洗脳されないで」
「そうですね〜。洗脳されちゃったら脱会したあとまで鬱病とかで心身ぼろぼろになっちゃいますからね」


 しかし、やはり僕は目をつぶりながら、心のなかで無思慮な彼女たちの、それでも純粋無垢な可憐な顔を指差して言わざるをえないのです。キリスト信仰もまた洗脳ではないか。洗脳というマイナスイメージを異端の布教活動に当てはめながら、自分たちの教えについてなぜそれを当てはめないのか。私たちは声を大にしていうべきではないか。宗教とは洗脳であり、洗脳とは教育であり、洗脳とは思想的信条を後世に伝える営為であると。

 正しい教えだからか。正しい教えならマインドコントロールではないとでも言い張るのか。
 しかしながら、教育も道徳も、当然宗教もすべて洗脳でございましょう。そして宗教とはみずからある特定の洗脳を志願するものたちの集まりなのでございましょう。あたかも私たちは洗脳してないし、されてもいないなどというようなニュアンスで異端を排撃することは、……(中略)……自分の目におがくずが入っているのに、他人の目に丸太が入っていることを指摘するようなものではございませんか。


 彼女たちの異端に対する意見は的外れもはなはだしい、と僕は顔をうつむけて思います。

 そう、異端の非難すべきところは、非難せねばならぬところは、その教えが信徒の搾取に繋がっているところでございましょう。あるいはキリスト教を装って違う教義を伝えるところでございましょう。
 異端信徒に対する嘲笑めいた発言、危ないから近寄るなとでもいうべき差別、蔑視。話しかけて来るモルモン教徒に対する無知なる恐怖……すべて彼らの異端に対する見解は的外れにしか思えず、差別にみちた人間たちよ、エレファント・マンを人間として直視せよ! と恥ずかしながらマイブーム的発言をせざるをえない状況でございます。
 異端はわれわれが主に返ることを祈祷すべき人間であって嘲笑すべき人間ではありません。キリスト教の正当性において彼らに優越感を抱くことは、甚だ滑稽であり、悲しむべきあわれさでございます……。


 わたくしは最後、ついに耐え切れず、隣りに座られている先生にボソリと発言しました。

「しかし、彼らの布教姿勢は、われわれよりも熱心かつ誠実であり、良しとしか言えないのではありませんか。見習うべきじゃありませんか」

 少し緊張した面持ちで牧師は

「そうですね」

 とうなずいた次第でございます。しかし……書きながら結構どうでもよくなってまいりましたので、その後の話は割愛させていただきたく存じます。


 とにかくこの世に差別が生じるのは、差別を嫌悪する思想を信奉する人間が、差別を肯定しているからだな……と思ったというわけでした。
 そしてさきほど、暗闇のなかで今日の会話を回想し瞑想していると、不意に莫大な憤激、葛藤、憤怒、譴責、義憤が心内に満ちてしまったので、今日の会話を問いただすべくクリスチャン学生に電話をしてみましたが、彼女は出ませんでした。
 どうやら友達とスカイプをしているらしいのですが、しかし、私は彼女に何を言おうというのでしょうか。無思想なる彼女たちに、僕は思想以外の何をもって語るというのでしょうか。
 主よ、罪深いわれらをどうかお赦しください……。
9月13-2日

 クリスチャン学生との1時間20分にわたる……深夜の仮借なき闘争的電話を終え、僕は泣かざるをえませんでした。
 クリスチャン学生たるFさんの、そのあまりにも純粋な信仰に、まさしく信仰とは無思想である、自己犠牲であり、自殺である、と感動せざるをえず、つい目頭を熱くし、手放しで褒めてしまいました。

「本当に素晴らしい……、Fさんに感動しました……」
「え、ほんとー。えへへ、そんなことないよー」

 Fさんはそんなことをおっしゃいますが、しかしながらFさんの発言は僕にとって衝撃的であり、文学的でありました。まさしく小説の一シーンに絶対に使わざるをえない悲劇の一ページでございます。
 それは僕が洗脳について話しているときでした。この世は主によってではないある構造が作られており、そしてその構造に適合するよう僕たちはみずからを洗脳している。主の愛と正義を省みない自文化中心主義こそ洗脳であり、つまるところ自己の正当性を主張することこそなんらかの洗脳であるのです。自己正当化の最たる他宗教の排撃は、まさしく洗脳の一種といわざるをえないでしょう。

 僕はそう言いました。Fさんのすべての思想を徹底的に分解し、暴露し、破壊してやると決意した僕は……仮借なきことばを投げかけます。洗脳されている自覚がないことこそ、洗脳の証拠であると。われわれクリスチャンは、自文化によって洗脳されていることを声高に主張すべきなのであると。そしてそこから脱却し、神様に仕えることを望むべきだと。しかし神様に仕えようというわれわれの意思もまた、それもまた構造にすぎず、結局われわれ人間は洗脳から逃れることができないのだと。

「――……。悲しいですよね。洗脳されたくないからあなたと距離を置きます、と友達に言われると、本当に悲しいですよね……」

 ――え!?

 僕はそのことばを聞いて愕然とし、驚愕し、反射的に慰めの言葉をかけます。それはショックでしたね、とてつもない出来事ですね……と。

「うん、かなしかったよー。ほんとにショックだったよー、えへへ」

 僕はしかし、Fさんの言葉が本当に悲しかったのです。
 ふとある景色を想像し、自分の小説の一ページに起こったかのような出来事を夢想し、そして泣きそうになりました。なぜならば、彼女の振る舞いは、おそらくは本当に第三者的に見た場合、洗脳されている人間のそれであったに違いないと、本当に容易に、簡単に想像できたからです。

 彼女はおそらくはこんなことを言ったのでしょう。神様は私たちのことを愛してくださっているんだよ。神様はこんなことを言われているよ。

 Fさんの友人はそれを聞き、奇妙に思ったことでしょう。奇異に思ったことでしょう。自分自身が奇妙なことを言っているという自覚のないFさんの言動は、本当に洗脳されている人間のそれに見えたことでしょう。
 そしてあるとき決意するのです。あの人に関わっていると、宗教に勧誘されてしまうから、関わらないようにしようと……。
 Fさんは言います。洗脳されたくないから付き合わないと言われたFさんが、そのとき思ったことをこう述べます。

「そう言われたら、あなたはそう思うんですね、って思うしかないですよね、ほんと。でも思うんです。洗脳という言葉は、自分自身の利益につながる教義を述べ伝えることだと。神様から出ていない言葉を教えることだと。だからわたしは、自分は洗脳されていないんだよ、ということを、自分の利益を捨てた態度によって示さなくてはいけないんだと思いました。うん、そう」

「…………」
 僕は泣きました。それこそ洗脳されている証しじゃないのですか、と。僕はそう思ったのですが、言いませんでした。Fさんの信仰は本物だと思ったからです。録音してないことが惜しいぐらいに、本当に本物でございます。神の愛を真実心より崇拝している信仰でございます。

僕「Fさんは本当に素晴らしい人ですね」
F「いやいや、そんなことないよー」
僕「しかし、それは新たな誤解を生む可能性もあるんじゃないですか、もしかしたら……。僕だったらこう言います。『いやー洗脳されちゃったよ、ははは。キリスト教の教義が自分にぴったりすぎて、ついつい洗脳されちゃいましたよー』そうすれば、相手も『マジすげー。実際キリスト教ってどうなの?』って感じでこっちに歩みよってくれますよ」
F「でもそれだと、本当に、うーん、なんか伝わらないんじゃないですか?」
僕「とりあえずキリスト教が怖いものだという変な誤解は消えるように思います」
F「うーん、そっかー。なるほどー」
僕「いや、すいません。でもFさんがそれを言ったら駄目な気がします。ハハ!」


 ……僕の頑なな心は雪のように解けほぐれ、それ以降は一種の確認作業でございました。いえ、それすらも彼女にとっておそらく苛烈な言葉であっただろうことは想像にかたくないのですが、しかし僕の心は春の日差しのようにやさしかったのでございます。


「絶対に僕たちが忘れてはいけないのが、全ての人間は救われるべきだ、という考えですよね。クリスチャンはこれを忘れてしまっているかのような言動が時々見られます。全ての人間は、絶対に救われるべきなんです。そして悲しいことに、なんとしても救われない人たちがいるということを、悲しみながら思うことなんです」
F「うん」
「だからこそ、僕たちは他宗教に対して消極的寛容をもたざるをえないんです。排撃することほど愛のかけたものはない。怒りは罪ではないとFさんはいいますが、怒りはこう着状態を引き起こします。異端に対してもまた、愛をもって接するべきじゃないですか。そしてカトリックとプロテスタントもまた、小さなことにこだわるべきではないんじゃないですか」
F「ユアサさんはマリア崇拝についてどう思っているんですか?」
 〜以下略〜
 それからは本当になんといいますか、本当に僕にとって確認作業でした。しかしながら、自分の守るべき、追求すべき宗教的信条をあまり考えたことのないFさんの、悲しそうに微笑している表情が電話越しに伺えたような気がします。
 Fさんのノンクリスチャンに対する接し方に異を唱えている僕に対し、Fさんは必死に反論をします。自分の思っていることを赤裸々に述べてくれます。


 ●ノンクリスチャンでありながら毎週教会に来るFさんの友人Uさんに対する、Fさんの消極的態度について

F「うん。わたしからは(信仰についてUがどう思っているか)聞かないかな。うーん、Uに聞かないのは、待っている感じなのかな。人には自分から話したいと思うタイミングがあるから、それを祈りながら待っているの。ずかずか踏み込むのは、本当に辛いことでしょう?」
僕「なるほど……でも、僕は信仰についていつも尋ねられたいと思っております」

F「うーん、ユアサさんは自分の思ってることをはっきり言ってくれるから尋ねられるけど、Uはそういうことあんまり言ってくれないから……」

 Fさんの傷つくことを恐れる宗教的思想……。


ーーー


 まさに様々あった言及すべき全ての点に言及し、僕はたいへん満足しました。そして最後に、これからの議論がより一層充実することを願い、Fさんに本音をいうように促します。
 なにか思っているはずであると。人間は、何かを思っているはずでございます。神に近づくためには何をなすべきかということ、そしてそれに反する行為や感情に対して、何か思っているはずでございます……。

 そうして電話を終えたというわけですが、やはり真実敬虔なクリスチャンとの本気の議論は感動するなって思いました。もはやすべて論理ではなく感情であり、主を求めてやまない心は素晴らしいものがあります……。
 憤怒の霧散する話し合いこそ、われわれがもつべきものはございません。
9月18日

 人間の思惟は繊細で、こまめに精錬してゆかねば崩れゆくものであると僕は思ったのです。
 今日はひさしぶりに塾長からお休みをもらい、僕は聖書をむさぼり読み、そしてジュンク堂書店に赴きました。聖書というものは、あるいは揺るがぬ信仰心を与えてくれるものであるかもしれませんが、しかしながらあきらかに思考を鈍磨させるものであると、僕はジュンク堂書店で思いました。

 わたくしはジュンク堂書店で、ずっと今まで探していた中公クラシックスのキルケゴール『死に至る病』を手に取りました。別にパスカルの『パンセ』でもよかったのですが、とにかくキルケゴールの死に至る病を手にとって、そしてその訳者でもないキルケゴール研究者であるらしい何者かの序文を読んで、僕は久方ぶりのある種の学究の徒として感じるべき衝撃を感じたのでございます。つまるところ、自分と同種の思想的人間がこの世に大勢いることの衝撃を久方ぶりに感じたのでございます。

 その学者は、キルケゴールの石碑をみにデンマークに訪れたらしいのですが、その石碑にはこう書かれているようです。

「イデーのために生きることをおいてほかに何があろう」

 まさしくそのとおりであると思わざるをえませんが、それを少し自慢するかのように、誇らしげに書きつけるキルケゴール愛好家の学者に、僕は自分自身と同じセンスを感じてしまいました。  そして同時に、聖書も大事だけれども神学書も大事であると考えざるをえなかったのです。

 聖書を私的に解釈することはわれわれ厳格なクリスチャンにとって恐るべき行為でありますけれども、しかしながら私的に解釈せずして真に神を「わが愛する天のお父様」と胸を張っていえるのでしょうか。他者の神に対する言説をそのまま鵜呑みにすることのどこが神を求める姿勢なのでしょうか。(しかしもちろん独善に陥ってはなりません)
 聖書に書いていないことを声を大にして言ってはいけないと、厳格なクリスチャンは考えますが、しかしながら聖書に書いていないこともこの世には当然あり、何を手がかりにして……われわれはそこに神の御業を見るのでしょう。
 聖書をもって類推解釈するのが妥当かもしれませんが、しかし自由に、まさしく私的らしい自由さで、そこに神の愛をみたと言って何がいけないのでしょうか。ノンクリスチャンの純真な人間らしい主に対する賛美が、「あの人はイエス様を信じていないから救われていない」といってなぜ主に対する賛美ではないと考えてしまうのか。

 聖書しか読まず、聖書しか認めない人たちの考えは、なにか視野狭窄におちいっているように思います。神の愛をたからかに謳って何がいけないのか、神が全人間を必ず救ってくださると思うことの何がおかしいのか。その言葉に対し、「全ての人間が救われるわけではないと、聖書には書いてあった気がする」と答える人間の、どこが神の愛を追求せんとする人間であるというのか。僕は首を傾げざるをえません。
 聖書に従うことはたしかに神の御旨にかなったことではありますが、しかし……聖書に従ったうえで、自分自身が神の愛を模索することの、どこが非聖書的だといえるのでしょう。

 聖書に書かれている神が全てなのか。全知全能なる神は聖書におさまるほどの性質しか有していないのか。聖書ではおさまらないからこそ、あまたの神学者が観念としての神を築き上げ、自身の神観を披露してきたのではないか。
 そしてその神観をあるいは否定し、肯定する人間の、奢りたかぶりよ……神は三位一体でお一人であるが、その神は人々のこころに、違うふうに映っているはずであります。


 ということを考えていたら、キルケゴールを読む時間がなくなった、ということでした!
9月18-2日

 キルケゴールのとらえる絶望とは何か……。  死に至る病を読んでいて、確かにかつて友人のO山さんがおっしゃっていたように、あまりに難解な論理展開に思わず興奮してしまいました。やはりこれぐらい難解でないと論文とはいえないのかもしれない……みたいな感じなのですが、あんまりわかりにくいのでメモ帳を開いてキルケゴールのいってることを自分なりに整理してしまうぐらいでした。

 なんとなくまとめたので、間違ってたらどなたか指摘してください……という感じです。



●絶望を感じる「自己」について

 まず絶望を感じる主体である「自己」というものについて言及する必要がある。「自己」とは「精神」のことでもあり、精神とはすなわち自己である。
 自己とは精神的な存在であり、その精神的な、内面的な、表面には見えないいろいろに思考活動する自己というものは……関係性というものにみずから関係していき、そしてその結果規定された関係である。
 たとえば人間の外面は、その人間の心と身体の相互作用によって生じた存在として捉えられるが、これだけでは「自己」ではない。これは他者が肉体的存在として人間をモノとして認識するときのことである。それでは真に「精神的」である「自己」とは何か。自己とはすべて二項間における関係に、みずから関係して、どういう関係であるべきかを決断された関係(価値判断の態度)である。すなわち「自己」とは関係そのものに対して関係していき、関係が結果規定され、その規定された関係である。キルケゴールの言葉をそのまま借りるならば、

「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である」

 ということになる。
 では、自己は何によってその関係を規定するのか。自己が規定された関係そのものであるならば、自己は何によってその関係を規定されるのか。
 もし自己が自分の意思によって規定されるものであるならば、その人間がなんらかの原因によって絶望したとき、二項間の関係に関係していき、結果規定された関係である自己を規定しなおすであろう。決して絶望した自己のままであることを欲しないはずである。どうにかして価値体系を組みかえ、絶望状態から逃れようとするはずである。
 しかしながら、人間は絶望した結果、それでもなお自分自身であることを欲するときもある。それはなぜか。それは自分自身によっては自己が変革できないからである。あるいはその自己が「与えられたもの」であり、自分で作り出したものではないからである。今の「自己」とは違う「自己」をつくりあげる材料が、そもそも自己のなかに見当たらないからである。もし自己が自分の意思によって作り出せるものであるならば――二項間の関係にみずから関係していき、そしてその関係を自分自身によってのみ規定することができるならば、当然みな自己を規定しなおしているであろう。……

 絶望してなお、自分自身であろうと欲すること、このことが、自己というものが、自分自身によっては規定できないものであることをわれわれに示唆するものではないか。
 われわれは他者によって自己を規定されているのである。つまり、われわれは、われわれが自由であると思い込んでいる領域であるはずの自らの精神においてもなお、他者によって二項間の関係に関係していく関係(=自己、あるいは態度)を規定されているのである。そしてキルケゴールは、この他者をあるいは神として設定している。

 であるからして、われわれがもし絶望したとき、自分自身の内部においてのみ格闘しただけでは、決してその絶望から逃れることはできない。自己は自己を規定できないからである。もし絶望したならば、そのとき、自己にその価値体系を与えた……あるいはその人間に宿命として与えた……自己を規定する他者(=神)との関係を考慮にいれなければならないのである。


 たぶん……こういうことを言っているんだろうなって思いました。
9月19日

 今日の興味関心

●宗教的寛容とは何か。
●異端領域に踏み入ることなく神の愛を模索するということ。
●カトリックから破門された当時、ルターは異端だったか。
●異端とは何か。
●異端の立場からみた、異端教派の宗教的正統性について
●「異端的言説」によって気づかされることはゼロか。
●キルケゴールのいう「単独者」の可能性について

 異端に対する寛容論というものは、宗教改革のころカルヴァンが異端だとしてどこかの誰かを火刑に処した時代から根強くあり、敬虔な人々の第一の興味関心として普遍性を獲得しているように思いますけれども、やはり自分もレポートや小説を書くとしたら異端についてしかないなって思います……。

 異端とは何か……。
 カトリックに反抗したプロテスタントは、おそらくどこまでも聖書的であるという理由で、なんとなく異端になりうるものではございませんでした。
 そう、「聖書的」という言葉ほどクリスチャンにとって批判不可能な言葉はないというわけでございますが、しかしこの「聖書的」という語の意味を熱心に吟味せずして「聖書的」「非聖書的」と断じるわけにはまいりません。
 思うに、私を含めたクリスチャンの多くは、その語の吟味なくして安易に「その行為は非聖書的である」と思い、認識し、また口走っております。
 しかしながら問題は他人の思想行動うんぬんではなく、そもそも自身の行いや思いや神に対する畏敬、愛であり――それらが「聖書的」かどうか自分自身はっきり認識するために、われわれは聖書を詳細に分析しなければならない。

 その方法として、手ずから、あるいは聖書を字義的解釈で解釈すべきところと、抽象的解釈をもって解釈すべきところ……これらを(あるいはオリゲネスのように)明確に区分すべきじゃないかと思われてなりません。そしてその区分によって聖書がいかに私的解釈せざるをえない書物であるか、いかに時代によって解釈が変化せざるをえないものであるか、このことをより強く認識すべきではないでしょうか……。

 つまりわれわれは、キリストの言葉どおり「人を裁いてはならない」のです。なぜならば、われわれ卑賤な人間には、「裁く」根拠すら神によって知らされていないのですから……みたいな感じです。
9月23日

 『旧約聖書』っていうのは新改訳聖書第3版ですと1568ページなのですが、今ついに1538ページまで読み進めておりまして、もうあと30ページで神の御言葉をすべて拝読してしまうのか……と人の世の儚さを感じるとともに、その恐れ多さにわななき震えるばかりでございます。
 これで神の言われていることが理解できなかったならば、ああ主よ、あなたの御言葉はわれわれ人間にはあまりに難解でございます。

 スタンダール『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルは聖書を旧約・新約全部暗記しているという、ドラえもんの暗記パンなくしてまこと到達不可能な設定でした。僕は『赤と黒』を読んでいた当時、その天才っぷりがよくわからなかったのですが、ジュリアンがそれをかなり自分の武器として使っていたことは覚えております。

「いいかい、ダニエル。どこでもいいよ、○○書の何章何節か言ってみて。その言葉どおりに暗唱してみせるから」

 とか、卑しい身分ながら家庭教師としてもぐりこんだ貴族の家で、ジュリアンはこの好機を逃さぬとばかりに貴族の子供にそんなことを言います。
 そして見事すらすらと暗唱してみせるジュリアン。貴族のお偉い親御さんも、子供も、輝かんばかりの瞳でジュリアンをみつめ、素晴らしいわ……神に祝福されているわ……と頬を赤らめ、胸をおさえ、ほうとため息をもらしたものです。ジュリアンはそれだけ説得力のある美貌と知性を有していたのですね。


 つまり『赤と黒』は関係ないというわけですけれども、今日は有名なヨナ書というところを読んで、ひどく感銘を受けたというわけです。
 ヨナ書はピノキオのモチーフにもなっているらしいのですが、神の「あの町にそろそろ君たちの町は滅びるよ、ということを伝えてきなさい」という命令をヨナが聞かずに、とりあえず逃げる話です。そんなことしたら、かわいそうだし、殺されちまう! 

 ヨナは船にのって逃げるのですが、神様は暴風と大波をその船にしむけます。もう船員や乗客たちはマジで恐怖し、このすさまじい嵐によって船はすぐさま沈没し、また全員溺死してしまうだろう……おのおのお祈りしてください。そして、誰のせいでこうなったか、くじを引いて決めよう。その人に、神様に謝ってもらうのだ。

 当然ヨナにくじが当たり、ヨナは告解いたします。私は神の命令に背きました……。みんなはそれを静かに聴いています。そしてヨナはみんなの打ちひしがれた悲壮な顔をみつめながら、意を決して、震える唇で、こうも言うのです。

「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう」

 さすがヨナやなあ……と僕は涙を流さざるをえませんでした。神様はなぜヨナを選んだのか、ヨナはまことに愛にあふれた人間である!
 船員たちは最初ヨナを海に放り投げることを躊躇し、次善の策として頑張って船をこぎまくって陸に戻ろうとします。しかしながら、その必死の努力も報われず、未来に死しか待たないことを悟ると、船員たちは祈りながらヨナを海に放り込みます。アーメン!

 で、ヨナは主につかわされた大きな魚に飲み込まれることによって難を逃れ、その腹の中で一大文学作品かのごとき神の愛を一ページも長々と悟り、神に祈りを捧げる……


 というような話でして、まあその後ヨナが神様にぶちキレたりして、神様がなだめすかしたり諭したりするのですが、とにかくヨナの自己犠牲のあり方に感銘を受けたのでした。
 神様の命令にそむき、神様から逃げる人間の、それでも神様に愛されるにふさわしい自己犠牲精神。まさしく小説に使わせていただこう……と思うわけでして、いえ、違います、もっというならば新約聖書ももう一度早く読み返したいな……と思う昨今でした。
 新約聖書を読んでいる未信者と話をして、もしかしたら僕は新約の愛と赦しを忘れているのではないか! と思ったというわけでした。わけでし、……た。Maybe, I think so !!
9月27日

 今日、牧師さんとの議論で牧師さんの譲歩を引き出し……つまり僕は全身全霊をもって、今まで培ってきた宗教的感傷と神学的思考のすべてを駆使して牧師さんとの対決に……それこそ切腹の覚悟で、これが認められねば僕はこの腹を斬らねばならぬ、はははは……とさらしを巻いた腹をポんと叩きながら臨んだというわけですが、ついに自分の持論を認めさせるに至ったのでございます。
 しかし胸中には空しさがつのるばかりでございました……。

 神学的論争の空しさはいかばかりか。宗教における現世利益を否定する思想、個人的祈祷と現世利益否定を両立させる方法論……これらを牧師の前で述べることにどれほど意義があるというのか……。どれほど……教派間対立が重大な過ちであることを牧師に認めさせることに意義があるというのか……。

 僕は自分自身、狭い車中という密室で、助手席と運転席との密室関係において……苛烈にキリスト教界の矛盾を指弾しながら、しかし心のなかでは苛烈に咽び泣いておったのです。
 牧師が、

「ううん、これで答えになっていますか?」

 とすまなそうに僕に振り向くときのその純粋なまでの善良な顔つき、信仰の顔つき、……。

「ううん、そうですね……。たしかに牧師のなかには現世利益を重視してしまう牧師も確かに……いますね……」

 と運転中にも関わらずハンドルに身体をあずけ、苦悩する牧師のそのほっそりとした……老いた横顔。
 僕はそれでも口を止めませんでした。今まで感じていた、そしてすべて今まで牧師や兄弟姉妹に論破されてきた僕の感覚、感情というもの……これらを聖書的に練り直し、あたかも僕の自論が聖書を絶対の第一位に置いたものであると錯覚させるかのような言論に、僕は舌を噛み切りたくなったのでございます。


 しかしながら、やはり僕は口を止めませんでした。
 というのも、先ほど述べたように、それら僕の思考というものは、すべてかつて先輩クリスチャンたちに(主に若き学生クリスチャンに)やんわりと否定されてきたものであり、そして僕自身その思考が断じて誤りではないと聖書を読んでなお、信仰を確立してなお、聖書信仰に立ってなお、神を信じてなお、思わざるをえなかった……思考だからでございます。

 ――僕の言を理解できない君たちは、思索が未熟だからである。思索していないからである。

 
 僕はどうしても、いわゆる「どうしても」という言葉を使わずにおられぬほど、そう思わざるをえなかったのでありんす。


 ――聖書を読んで、そして聖書の神を真に信じたとき……そのときこそ、曖昧で靄のかかったかのような論理は不要である。

 ――根拠も定かでない、ただ自己自身から発するかのような、突然の信仰的感情は危険視して、のちに反省してしかるべきである。

 ――君たちは、自身が救われているというその救いの喜びのみをもって僕に語るが、そしてそれゆえ個人的な信仰をもって確立すべきだと僕に語るが、しかしながら、僕は正直いって、その段階は通り過ぎてしまっているのである。

 ――個人的な信仰を確立せねばならぬのは、信仰が曖昧だからである。信仰が堅固な者は、その先にみずから足を進まずにはいられないはずである……すなわち、神の愛とは何かという問題に、単なる好奇心からではなく、人間を救われる神の観念的可能性、現実的可能性、何をもって再臨と呼ぶか、地獄はあるか、ないか、死後どうなるか、……人間をどうして神は救われるのか……熱心な当事者意識から、これらを追い求めずにどうしていられようか。

 ――救われたら決してそれで終りではなく、君が救われたのならば、君は自身を救ってくれた、君の隣にいまします神を観る機会を真に与えられたということであり、またそのとき神の御姿をどうして観ずにいられようか。



 僕はつまるところ、思索なきクリスチャンというものに、自分でも気づかぬほど大きな不満を抱えておったのです。そしてそれらは直視しがたい自尊心から生まれたものであるのだけれども、しかしやはり僕のキリスト教に対するすべての見解は、僕にとってひとつの真理であり、まさしく僕が教会に通うようになってから、学問する以上の、あるいは僕のかつてのアイデンティティであった文学以上の当事者意識をもって取り組んだ思索、その思索であったわけでありんす。
 はじめて自己改革というものに着手し、自己が20数年かけて一心不乱に練磨してきた絶対的平等観を歯を食いしばって放棄し、一見恣意的にみえる神の価値観というものに自身をゆだね、ほとんど妥協不可能な救済的神学議論において、思索というものを感じさせぬ若きクリスチャンに「信仰心」という一語をもって血涙を流して妥協し、膝を屈し、一年にわたって日々キリストの再臨を祈り続けてきた自分自身の……その純粋な客観的神学的論理的思考なのでありんす。
 これら僕の人生を賭けた生産性を、どうして訴えずにいられようか、というものでありんす。

 
 牧師に対して、旧約→新約における神概念の差異における所感を述べました。三浦綾子の『塩狩峠』における新興宗教的キリスト教描写の不快感、現世利益を求めるかに見える個人的祈祷は神との対話であるということ、しかしながら全ての挫折や失敗や逆境にひとしく感謝せずして個人的祈祷が神との対話として成立しえないこと、プロテスタント福音派における教派対立の非聖書性、また他のリベラル教派における非聖書性、カトリック信者のマリア崇拝は容認できるのではないかということ、……数百年後、数千年後に到来する神の国の姿形の想像図……

 そして今まで遠慮して、いえ、正直申し上げると、自身の異端性を恐怖して牧師に切り出さなかったこれらの議論が、すべて牧師でさえ「曖昧なまま」にしてしまう正答なき関心事のひとつであることを知り、そしてそれらに牧師が反論できないということを知り、僕は今までの自身の思考が決して誤りでなかったと……今日確かに知ったのです。
 そのとき、僕のなかでは大きな挫折があったのであります。牧師の悲しい横顔をみて、わっちは、思索というものの無意味さをそのとき知ったのでありんす……(仁ではなくホロでありんす…)。


 おわり
9月30日

 峰Fくんが不眠不休のもと製作した映画……あるいは編集しながら脚本をつくるという荒業をなし、演出に頭を悩まし、braveheartくんの愛、愛されている彼の愛、優しいぎこちない微笑み、そして愛し愛されていることによる彼の確かな未来への希望、祈り……その「彼」というすべてを表現すべく製作した映画を拝見させていただいたのですが、まさしく涙なくして見れない愛情豊かな作品でございました。

 峰Fくんは、当初ブレイブハートくんの本質を「虚無」として捉えておりました。感情表現が激しく、怒り、泣き、喜び、悔い、絶望する彼のその感情が……僕たちにとって、まさしくうわべだけのものに見えたからです。
 彼は泣き、笑い、怒るが、しかし彼の言葉からはなんらの思想的発展を見出すことができず、彼の言はループし、二日前に言ったことを次の日に改め、そしてその次の日には二日前に言ったことに戻る……というような按配でした。
 僕らは4年間にもわたる彼のその停滞に、確かに諦めを抱いていたのです。しかしながら、峰Fくんはその停滞こそ、彼の「虚無」であり、同時に人間すべてが抱く本質であり、そして同時に……だからこそ人は相互に「愛し」「愛される」必要があると……すべてを許容し、愛し、愛されることによってしか生きることができないと、宮本くんの笑顔から悟ったのでございます……。

 製作途中において、ブレイブハートくんを主役にした『ぼくのともだち』は、彼の「虚無」を描くにとどまる段階から、彼の「虚無」を描き、それを愛することによって彼の「未来」を祝福するという一種の人間賛美に変貌いたしました。
 その2つのパターンの映像を両方見させていただいた自分といたしまして、自主制作映画というアマチュアらしい映画では、その変更はまさしく正しい変更に思えてならなかった次第でございます。すなわち、われわれアマチュアという、芸術や娯楽を追及する立場にない「大衆」に属する人間が、社会的に馬鹿にされてきた、蔑ろにされてきた、爪弾きにされてきた彼を祝福し、応援することに、真実……彼にとっても、また私たちにとっても意味があると感じたからでございます。

 ブレイブハートくんを撮るのは、人間的本質を描かんとする芸術のためでもなく、大衆を感動させる娯楽のためでもなく、ただ普通の人たち――彼のともだちが、彼を祝福するためだけにあってしかるべきなのです。それこそが芸術と娯楽を超越した、なんの衒いもない純粋な人間賛美なのでございます。……

 
 峰Fくんはよく言っておりました。

「僕はこの映画を撮るためにブレイブハートくんに出会った気がする」

 まさしくその通りでございまして、僕たちは彼との接触を通してしか、机上で考えるのではなく実際的に、他者に対する優しさとは何なのかというものを考えることはなかったでしょうし、おそらくは峰Fくんもこの映画を作ることによってしか、彼に対するさまざまな不満(それはあるいは人間存在そのもの、自己に対する不満でもあります)が解消されなかったように思われるからでございます。

 最後、峰Fくん、そしてブレイブハート君の「ともだち」が彼に向かって微笑みかける言葉――

「それでいいんだよ」

 という言葉には万感たる思いがこめられていると言わざるをえず、これはブレイブハート君とじかに接し、彼に不満を抱きながらも、愛すべき彼とともに生活してきた人間にしか、その言葉の重みを理解できるはずもない言葉でございましょう……。泣けるしかございませぬ!

 誠実に怒ってきた人間のみが、彼とともに真摯に議論してきた、そして僕たちの思想的義憤的言葉に泣きじゃくり、憤怒の形相で包丁を持ち出し、シンジくん顔負けの叫び声を上げながら僕たちに迫ってくる彼の姿を見てきた人間にしかわかりえない言葉でございましょう……。いわば「それでいいんだよ」という言葉は、人間と人間との真なる和解の言葉なのでございます……。


 というわけで、もっといろいろ使える素材があったらより素晴らしい映画になったなって少し思いますが、しかし『ぼくのともだち』たるブレイブハートさんの内面に、そして彼の『ともだち』たるわたくしたちの内面にも迫ることに成功していると思いましたので、素晴らしい出来だと思います!  ブレイブハートさんを知る者でしたら、おそらくは珠玉の25分間でございます……。コメンタリーが楽しみです!
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