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10月8日

 失礼いたします。周囲の人間が、文学とは何であるかを日記で執筆しておりますので、私もまた、遅ればせながら文学とは何か、その個人的な所感をつれづれなるままに書いてみたいとおもっとるわけです…。


 まずその良し悪しを考えずに、命題的にまた経験的に文学を定義するならば、「文学とはすなわち個人的感情の結晶である」と私は申し上げたく存じます。
 文学とは個人の所産であり、それは得てして自分に向けて書かれたものでございます。あるいは、誰か強烈にその自己というものを発信したい相手に書かれるべきものでございます。
 であるからして、10月4日の日記で湯さんも言われているように、その主人公が経験すべき日常は詳細に書かれてしかるべきなのでございます。またしかるべくしてつまらないのでございます。物語は自己と同一人物である主人公の内面の変化をもって、そのテーマとするのでして、外面的事実……そのあらすじというものは、はっきりいって何でもよろしいのでございます。問題なのは、その恣意的な外面的事実が自己たる主人公に何を想起させ、何を獲得せしめるかというところにつきるのでございます。これを突き詰めることによって、志賀直哉や島崎藤村といった私小説作家が登場するのでございましょう……。

 しかし、ここで改めて発議させていただくとしましたら、その恣意的な外面的事実に対する創作のあり方でございましょう。私小説作家……自己の身辺で生じた出来事をそのまま引用する作家というものは、「文体」思想を固持することを表向きには主張しながらも、実際は自身の想像力の乏しさを否定しているにすぎぬのだと、私には思えてなりませぬ。
 彼らは西洋文学的文学手法を取り入れつつ、しかし本質的に土佐日記や更級日記などの日記文学を踏襲・発展させているにすぎず、えてしてそれらは時代資料的側面からして興味深く、またそれが私たちにとって明らかに異郷であることから、非常なる面白さを提供してくれる物語でございましょう。また、当時の人間たちにとって、自分の身辺以外の世界を知らない人間どもにとって、それらは確かな娯楽作品……あるいは物語でございました。
 ですけれども、われらの時代に突入してまいりましてから、私小説というものは崩壊せざるをえないのでございます。そのような自己の身辺のみを題材にした小説というものは、小説ではなく、もしかするとルポとでもいうべきものでございまして、小説家は自己から脱却し、……そして……新たな日記文学を探求して社会問題に走るのでございます。思想問題を探求せず、昨今の小説は、まさしく第二の身辺である社会をテーマにした日記を書くのでございます。

 社会と思想がわれらの時代だと、私は今ふと書きながら思いついた次第でございます。
 社会と思想の2つの価値観こそが、われらを包括するわれらの隣人であり、われらの日記なのでございます。社会を隣人とする、社会の底辺やその犠牲となった悲惨な人間どもを主人公とする日記文学は(もはやここにおいて、私は文学を「日記」と認識することになんの躊躇いもございません)、非常に興味深いことに私小説作家である島崎藤村の『破戒』を私をして思い出させるところではありますが、しかし『破戒』は四民平等の価値思想と表裏一体の社会的問題提起でございましたから、現状の社会的日記文学とは一線を画しているようにござります。
 私は本当に現代の文学について無知ですので、もしかしたら社会問題を鋭くえぐりだす現代文学においても、なんらかの普遍的思想を強く訴えるものもあるのかと思いますが、しかしながら……私としては、いわば社会問題を描いた日記文学と申しますと、あるいは村上龍のごとき大衆小説作家としてのそれしか思い浮かばないのでございます。まことに寡聞であることを恥とせねばなりますまい。
 しかしながら、『破戒』と同種のものである、人間の差別性といったものを描くことによって、人間の平等観を強く刺激するものならば、おそらくは存在するに違いないとも思います。そしてその差別というものこそが、社会的日記文学が絶大な関心をもつにいたるカテゴリーでございまして、またそれというのも、人間は差別にしか……正直申しますと……差別する、あるいは差別されるということにのみ、人間どもという存在はそれのみに関心があると、いえるからでございます。

 しかしながら、そういった社会的日記文学はこの現代において文学とは言いがたいのが現状でございましょう。それはおそらくして、その書き方が日記的でないからでして、またその書き方が普遍的問題を提起するようなものではないからでございましょう。ジャーナリスト的作家が報道するルポルタージュとしての認識が強いといいますか、いわば報告することに意義があるといった趣が強いように思われます。
 そしてだからして、村上春樹のような一見して思想的と思われる作家こそが、「文学」として語られるのでございます。

 思想を語る際に、われらが細心の注意を払うことどもといいましたら、その思想がいわゆる説得力を有しているか、というところでございます。説得力をより強固のものとするために、思想的日記文学作家は腐心するのでございまして、中学生の作文においても体験談が必ず必要なように、まさしく「体験談」的物語でなくてはならないのでございます。
 そして体験談というものは日記でございまして、だからこそ思想的日記文学は日記的な書き方をせざるをえず、そして日記的な書き方だからこそ「文学」と認識されるのでございます。

 かつての私小説作家において、その体験談というものは、まさしく大衆とは無縁のエリートとしての自己の身辺であり、その自己の身辺を……あるいは当時の思想のひとつでもあった「文学的文体」を駆使して描いていたのでございます。もしかすると、私たちはその私小説作家の思想が、その作品のうちに存在せぬように勘違いしてしまうかもしれませんが、しかしながら、彼らには「文体」といった確固たる思想が……まさしく脳髄を搾り出して創作せるその一文一文があるのでございます。
 かつてモーパッサンは、一文書くごとに薄皮一枚剥ぐような創作の苦痛……と言っておりましたが、まさしく短編作家にとって、いわんや日本文学にとりまして、一文一文が芸術的でなくてはならず、それは思想として昇華されていたのでございます。

 だけれども、まことに残念ながら、それはもはや思想とは呼ぶことができません。文章というものがみだらに氾濫してしまったこの現代において、その価値は薄れ、また娯楽が増えるとともに民衆は刺激をのみ求めるようになってしまったからです。そして、文体がもたらす知的刺激というものは、おそらくはまったくもって無に等しい刺激でございましょう。

 だからして、私はこのわれらの時代において、私小説は自己の想像力の乏しさを否定するための方便にすぎぬと断言するのでございまして、だからして、私たちは「文体」思想を放棄し、世界文学的思想をあらたにこの日本にもたらせねばならぬのでございます。
 世界文学的思想と申しましたのは、つまりはこういうことでございます。物語によって作者の思想を伝播すること、ただそれのみでございます。ドストエフスキーもトルストイも、彼らはロシア正教のクリスチャンであり、またわれらを造りたまいし父なる神というもの、イエス・キリストというもの、これらを固く信じておったのでございまして、その思想を大衆に伝播するために物語を書き、そして大衆をして感動せしめたのでございます。
 日本に自然主義というものをもたらしたゾラもまた、当時のフランスの民衆の悲惨……社会的な関心事を描きつつも、自身の小説作品を『ルーゴン・マッカール叢書』としてシリーズ化し、それら全てを通してある種の思想を伝えんとしておりました。
 日本というものは、思想なくゾラを輸入し、結果「自然そのまま」を単に描くといった私小説の隆盛が起こるというわけですが、これはゾラの意図した自然主義とはまったくもって相違すると言わざるをえないでございましょう。
 ゾラは思想を伝えたかったのでございます。自然そのままを描くことによって、思想を伝えたかったのでございます。……また、ドストエフスキーを模倣した埴谷雄高の『死霊』もまた、ドストエフスキーの議論的展開のみをもって模倣したにすぎず、いえ、それはそれでいいのでございますが、しかしながら、ドストエフスキーの目標は大衆の感化にあったことに疑いはございませぬ……。

 われらの時代において、新たな文学というものを描くのならば、私はこの世界文学的物語手法を踏襲せねばならぬと考えております。
 それが社会に関心するものは、得てして評論としての、ルポルタージュとしての性質が強くなってしまうのでございますから、文学を描くのならばわれらは思想的日記文学を描くのが最良のように思われます。

 そして、冒頭にも述べましたが、「文学」というものはあらすじというものはどうでもよかったのでございます。まさしく個人的所感の結晶なのでございました。
 ですが、ここでわれらは世界文学に学びまして、思想を表すためにあらすじを描こうではございませんか。あるいはそれは、荒唐無稽であってもよろしいというところが、従来の文学と一線を画するところでございます。
 何をやってもよろしい。ゼロの使い魔のごとき異世界トリップでも、ルイズとラブコメをしててもよろしい。しかしながら、そのラノベは思想的日記文学でなくてはならず、その日記は全体を俯瞰するとひとつの作者の思想へと結実しておらねばならないのでございます。

 このゆえに、われらは、時代の潮流たるわれらは、Fateというギャルゲーを文学と認識しておるのかもしれません。そしてまた、だからこそ私は、フェイトを文学ではないと断じているのかもしれません。
 なぜならば、フェイトはひとつの思想にいまだ到達していなかった、という意味からでございます。そしてひとつの思想に確実に結実している竜騎士を、大衆がそれを文学と呼ばずとも、私は文学と呼ぶのでございます。


 最後に、旧来の文学というものは、世界文学に触れた若き明治の文豪たちが、それを模倣したものであると私は言いたくてございます。
 それは確かに日本独自の純文学へと形を変え、まさしく「純粋」文学というものを築きあげました。欧米においては純文学と大衆文学などという区切りは存在せず、すべてにおいて「novel」というわけでございますが、日本においては学問であり芸術であったのが純文学であり、低俗な読み物であったのが大衆文学でございました。
 そして確かにまた、学問としての文学は美麗な文体というものに結実し、芥川龍之介の文章は菊池寛をして「人生を銀のピンセットでつまんでいるような」と言わしめる冷徹さと精巧さを感じさせる文章となり、横光利一をして文章を、単なる言葉の意義から超越した何かを感じさせる多重構造となしえ、志賀直哉をして「文章はリズムだ」といわしめる文体論を展開させるにいたりました。
 しかしながら私は、三島由紀夫が「文体」思想の極限に到達し、だからこそ三島由紀夫は虚飾と華美に支配され、私にとって鼻持ちならない文章を書いているのだろうと思われます。

 かつての日本は、西洋文学と日本の学問的無常観を合致させ、すべては虚無であり、物語に意味はなく、だからこそ文学を単なる知的営為としてみなし、文体の競い合いをしてござったように思う次第でござる。
 われらは、このわれらの時代において、その100年にわたる誤りから脱しつつあるように思えます。しかしながら、純文学と大衆文学とのかつての分離は、その反動として、この時代において急激な小説の低俗化を引き起こしているうように思えてなりませぬ。
 われらは、私たちは、その低俗化がかつての反動の所産であることを認識し、その反動をぐっとこらえて、時代を見据える必要があるのでございます。そして、新たに文学というものを模索する必要があるのでございます。そのヒントは世界文学にあり、またかつての学問的文学に陥らぬように、われらは熱意をもって、訴えねばならぬ。思想をもって読者に訴えねばならぬ。

 そしてその思想は、個人的感情と所感の結晶であり、その構成はかくして日記であり、その出来事は全体としてひとつの思想に到達し、だからして、それら全ての小説は文学作品なのです。




 今日は適当に文学についての日記を切り上げて、キルケゴールについて書こうと思っておりましたが、思う以上に饒舌になってしまったので、キルケゴールについてはまた今度と思う次第でそうろう。
10月11日

 最近は有名っぽい牧師のブログに日参しているのですけれど、やっぱり賛美歌でもめるのはよくあることだそうです。
 先日ご紹介した現代的賛美歌のような偏りのある歌詞で、かつ音楽性を重視した賛美歌と、旧来から伝わってきております神学的に厳かな賛美歌……この対立とがよくあるそうでございます。

 若者は(そしてわたくしが思いますに)とくに何も考えずにクリスチャンとなっております若者は、とくに何も考えずに心から賛美したいがゆえに、歌いやすく、またいわゆるセンスのいい、神の救いをのみ扱った現代的賛美歌を愛好します。
 しかし自覚的な信仰に富んだ人間にとって、現代的賛美歌の歌詞や曲調はどこか誤った信仰であるように感じられ、反発してしまうのでございます……。

 ――賛美は主を崇めるためのものであり、人間的に昂揚するためのものではござらん! というわけでございます。

 確かに主はわれらを救ってくださいましたが、しかしその救いは主の独り子であるイエス・キリストの犠牲によって成り立つものでありまして、何よりもわたくしたちは、その犠牲に感謝し、またその犠牲に関し一種の詠嘆を感じねばならないのでございます。
 神ご自身が――全知全能であり、いっさいの創造主である主ご自身が、罪にまみれた卑しい人間のために、苦しみもだえつつ十字架にかかってくださったこと、この嘆き、この悲しみをいっさい忘れたかのような賛美歌は、何かおかしいのではないか……自覚的クリスチャンは、やはりそう思わずにはいられないのでございます。


 結局のところ、若者のためにはこの賛美歌、中年以上のためにはこの賛美歌と、趣味嗜好に合わせて賛美を分離させることは、本質的解決にはなっていない、というのがその賛美歌問題に対するひとつの解答であるようでございます。
 賛美するとは何か。われらは神を崇めるために、神に感謝するために、あるいは主というその存在を思い出すために賛美するのではなかったか。その理解を教会のなかで徹底することが、解決の糸口ではないか。……



 まさしくその通りだと思う次第でございますけれど、しかしながら、このような瑣末な問題が生じてしまうというその一点にこそ問題があり、人間の未熟さを感じざるをえない次第でございます。
 そしてこのような問題が起こるという時点で、いかに人間が主というそのご存在を理解できていないかということ、つまるところ、われわれ人間の想像の範疇を超えたところに主はおられるのだということ――この種の悲劇的確信を痛感せざるをえない次第でございます。

 大事なのは、やはり個々人で相違する神認識をお互いに伝え合うということでございましょう。それがなくして、一体何が信仰生活を豊かにするのでございましょう。
 そしてまた、神をよく理解せんと、聖書をよく学ぶことも大事ではございません…ではございません?

 聖書を読まずに神の愛を語る者は、まさに偶像を拝んでいるとしか申しようがなく、聖書は嫌いだけど神様は好き、という者もまた……(事実そういってはばからないヤンキー牧師なるものがいらっしゃるそうですが)本当に神の導きにしたがっている人間なのか、わたくしには分かりませぬ。個人的には、明らかに不健全な信仰であり、過ちを犯すおそれの高い信仰である、と思わざるをえませぬ。

 つまるところ、聖書を読まないクリスチャンは、いまだ救いに預かっていない未信徒と同様、キルケゴールのいう「死にいたる病」に知らず知らず陥っており、自身の「絶望」に無知なる状態に陥っているのでございましょう。
 しっかりと、神がわれわれ人間にお与えくださった、神ご自身を理解するに十分な書物である聖書……これを熟読し、神との対話をもち、神との関係を再び築かねば、その「絶望」からは逃れ得ないのだろうな、と思う次第でございます。
 そしてまた、キルケゴールは難解すぎて意味不明でございますので適当に読んでいる、という次第でございます。もはや小説で一登場人物が何かそれっぽいことを言っているな、という気持ちで読んでおりまして、結論として、おそらく、キルケゴールは人に何かを説明するのが下手である、もしくは説明する気がない、といった次第でございます。
10月13日
 久しぶりにロッキー3をなんとなくレンタルして見てみたんでございますけれど、ロッキーの精神とは何であるか……というのを考えざるをえない感じでございました。…

 ロッキー3は確かに面白うございました。たしかに面白うございましたが、しかしながらいわば本物のロッキー氏はロッキー3にはいらっしゃらなかった……このロッキー氏は二次創作的ロッキーでございます、と新米古米にこだわる美食家のごときこだわりを、ついつい覚えてしまったのでございます。

 ロッキーの精神とは何であるか。
 ニコニコ動画やユーチューブでロッキーの名シーンを拝見しますと、やはりロッキーの精神とは……一見無為に思えるトレーニングや苦行を本気で頑張って、その肉体の限界を超えて築き上げた精神そのものを、もはや結果とかどうでもよく、トレーニングによって高めてきた己の精神と魂とをリングの上で発揮させることだけを考えているその精神……まったくその精神のみな価値観、その精神なのでございます。

 ロッキーは寡黙であり、朴訥であり、まったき優しき人間でございます。その寡黙さはロッキーの視点が自身の内面にのみ向いていることを意味しておりまして、トレーニングシーンにおける無言のロッキーの一所懸命さが、まさしく人一倍一所懸命であることを教えてくれます。
 そして他者に対する不器用な優しさはロッキーの深い内省を感じさせるところでございまして……、ロッキーが対戦相手に対する敵意や憎しみをもって自分のモチベーションとするのではなく、ただ自己の内面、恐れやそれに打ち克つ情熱と向き合うことによってモチベーションを高めているそのところもまた、ほとほとロッキーの生来の善性を感じて涙せざるをえない次第でございます。


 ロッキーが頑張る理由というのは本当に純粋なのでございます。そしてそのあまりの純粋さ、単純さが感動を巻き起こすのでございますが、ロッキー1・2ではおそらくエイドリアンのためにロッキーは自己を奮い立たせておりました。
 出産後のエイドリアンに「――Come here. ……Win…… Win…….」と囁かれたロッキーが、世界チャンピオンであるアポロに勝つために、ミッキーといっしょに死ぬ気でトレーニングに励むシーンはあまりに有名でございます。
 ロッキー1では判定でアポロに負けてしまうのですが、その判定をレフリーが読み上げるときも、ロッキーは延々とエイドリアンの名を叫んでおりまして、勝敗なんてまさしく眼中にない。
 2もそうでございました。今度はアポロに勝ってしまうのですが、そのときも大衆にもみくちゃにされながらも、「エイドリアン! I did it !」と叫んで終わる……。

 しかしながら、ロッキー3ではどこかロッキーには余裕が感じられるのでございます。いわば自己というものに向き合うひたむきさが減少してしまったのでございます。
 ロッキー1・2のロッキーは世間に関心がなく、勝敗にも関心がなく、そして読み書きも十分にできず、借金取りのバイトをして生きながらえている自己自身を改革するために、そしてそんな自分を愛してくれたエイドリアンのためにリング上で自己の精神、一所懸命やることのみが自分の存在意義であると、その精神を発揮しておりました。

 しかしながらロッキー3では、クラバー・ラングに負けたことがあまりに悔しいからもう一度闘って、勝ちました……ほんとそのあらすじ以上のものが見えないのでございます。強いていえばアポロとの友情がまあまあ見ものであり、またロッキーの根性はやっぱりすごいといったところでございます。
 つまるところ、ロッキー3ではロッキーは勝つために闘っていたのです。1・2やファイナルでは、そもそも勝敗なんてどうでもいい、ただやることに価値がある……と自身の生活のみじめさを覆いつくすかのような煌めく精神性、ただそれのみがあったのでございます。

 この「みじめさ」というものがロッキーには不可欠でして、みじめでなくてロッキーにあらず、とわたくしとしては思ってしまう次第でございます。学がなく、ボクサーとしての技巧もなく、貧しい……そしてもしその試合で勝ったとしても、今と同じような生活をしているだろう……なぜならロッキーは今のままで十分満足しており、最高の幸せを享受しているとの自覚があるからである……とそう予感させるところがロッキーの魅力なのでございます。


 たとえばロッキー1のトレーニングシーンは一種の寂寥感あふれるシーンとなっておりますが、穴のあいた灰色のトレーナーを着たロッキーが薄暗い早朝のなかロードワークに出かけます。そしてフィラデルフィア美術館の前で孤独に両腕をあげるポーズをとる……もはやこの時点で、ロッキーは何かに勝利し、何か結論をえている……視聴者をしてそう思わせるしかないシーンでございます。
 ロッキーはもうすでに、自分が自己に打ち勝ったことを認識し、満足しているのでございます。だからこそ、この後の試合に勝とうが負けようがロッキーにはどうでもよいのでございます。
 しかしながらロッキー3では、もはやロッキーは勝利するだろうという確信しか視聴者に与えないのです。ロッキーのみじめさがあまり見えてこないのです。ロッキーのみじめさとは、精神のみに生きる人間の悲哀であり、勝敗以上のものを自分自身掴み取っているという、その周囲の思惑とは無関係な確信なのでございます。
 だからこそ、ロッキーは1のように、あるいはファイナルのように負けるべきなのでございます……。ロッキーは2で完結し、3・4は二次創作であり、5はちょっと失敗したかなという感じであり、ファイナルはロッキー1に回帰したロッキー追悼作品としてある……


 負けてこそロッキーであり、みじめであってこそロッキーであり、精神であってこそロッキーである。ロッキーはアメリカンドリームの象徴的作品とも言われる次第でございますが、しかしながらその面白さはアメリカンドリームの真逆に位置する面白さであり、物質的豊かさを追求するアメリカンドリームに対する反抗でもあり、またその反抗によってしかアメリカンドリームは成立しえない、というものを感じさせる次第でございます。

 というわけで、ロッキーといったらトレーニングシーンであるという感じでございますので、ニコニコのロッキートレーニングシーンを貼って終わりたいと思います。やはり1のトレーニングシーンが一番ロッキーの善性を感じさせて、見ていて感動でございます…

ロッキー1
ロッキー2
ロッキー3
10月19日

「愛をもたらすもの……それは祈りに他なりませんわ……。わたくし、午前中をいつも取り成しの祈りに使っておりますの。家族のため、知人のため、友人のため、まだお会いしていない世界中の皆さんのことを祈り終えると、いつも汗をびっしょりとかいてしまっていて、本当に力尽きてしまいますのよ……ふふふ」

 川原の土手に腰を下ろしたルイズは微笑みながらサイトに言った。サイトは

「そんな迷信、やっても意味ないよ」

 そう言って、プイと横を向いた。
 夕暮れ時だった。沈みかけているオレンジ色の陽が、大きな雪のようないわし雲を、薄く照らしている。川は暖かそうにきらきら光りを帯びていた。そしてその紺色の流れを静かに海に注いでいた。
 サイトがルイズに視線を戻すと、ルイズはサイトをずっと見つめたままだった。ルイズは頬をオレンジ色に染めて微笑んでいる……。
 

 電車のなかで延々と宗教ラノベのことを考えておりましたので、まさしく日記を書くときでさえラノベ的台詞を思わず挿入してしまうのですが、この無神論者のサイトが新約聖書の使徒行伝に書かれているような祈りあい、助けあい、信仰を同じくした者同士で支えあう原始共同体で暮らし始め(ルイズのお父様に捨てられてしまったので)、逆に敬虔なルイズは王侯貴族と信仰も何もない饗宴にふけりはじめる。

 数ヵ月後、すがすがしい起床とともに自然と祈りをつぶやいてしまった瞬間、サイトは神の存在をわけもなく感じてしまい(この世界に俺が来たのも、何か意味があるに違いない!)、固い大地に跪いて泣きながらキスをする。一方ルイズは神の存在を感じられなくなり、焦り戸惑うその振る舞いには狂乱の様相が見え隠れし(お嬢様は、時に犬のような鳴き声を夜中にあげるのです)、悪霊憑きと判断され部屋に監禁させられる。
 魔法を使えないのも精神が狂いはじめたのも悪魔によるものであるとされたルイズは悪魔祓いを受け、それによってますます精神が不安定になっていき、老婆の声で呪いの言葉さえ発するようになる。
 一方サイトは優しい祈りの生活を獲得することによってなぜか魔法が使えるようになり、平民ではじめて魔法を使える人間として崇められようになる……。
 異世界から神の子がこられたという噂が広まると同時に、「悪魔に支配されしこの世に神の光を満たさん」とスローガンを掲げた平民が、権力拡大を意図しクーデターを計画する。
 のちにサイトはクーデター首謀者のひとりとしてギロチン刑を言い渡されるが、ルイズの懇願によって終身刑に減刑される。牢に入れられた神の子サイトを救うため、もっともサイトに敬虔な一派――ヒエラルキーの最下層に位置する貧民――が荒布を身にまとい、灰を頭に振りかけて監獄の前でハンガーストライキを開始。次々と餓死しては腐臭をまきちらす貧民たちを非難する、かつてサイトを祭り上げた平民中間層たち。……
 牢のなかで、ハンガーストライキとその後の集団餓死の知らせを聞いたサイトは、かつて原始共同体のときに自然と口にしていた子供のように純粋無垢な祈り……他者のために祈りつづけるその祈り……を取り戻し、全ての時間を祈りに費やすようになる。
 サイトがふとルイズのかつての台詞「祈りで汗がびっしょりになるのよ」というその台詞を思い出したそのとき、サイトはルイズのやつれ果てた表情を鉄格子の前にみる。
 ルイズは汗と汚物にまみれたサイトにさまざまな問いを発する――
 

 みたいなルイズ・サイト性格改変SSを夢想したのですが、とにかく新潟大学の文化祭に行ってまいりました。
 非常に有意義な時間をすごせたように思いますが、それというのも、進化論VS創造論の議論をたたかわせられ、かつ神の福音を述べ伝える機会を若干ながら頂けたからなのですが、しかしなんとなくその話をする気力がないので、今日はもう終わることにいたします……ツァイツェン!
10月20日

 人は精神的昂揚を求め、ただそのためにこそ、精神の昂揚を感じるためにこそ娯楽作品を追求するのだと……智代アフターのOP曲(ニコニコ)を何ヶ月ぶりかに拝聴して、恥ずかしながら思ってしまった次第でございます…。
 智代アフターのOPの破壊力はそこまで大きいというわけですけれども、人間というものはほとほと元来宗教的であると言わざるをえない! と何だか宇宙人のような……宇宙人が人間の姿を見よう見まねで模倣した結果できあがった、少し宇宙人の好みによって眼球を大きくし、顎を尖らせてみたけれど地球人的にはどうでしょうか……と意欲的に挑戦してみた宇宙的職人による造形であるかのようなクラナドのヒロインたちを見つめながら思いました。
 宗教的とはすなわち精神的昂揚を求めるという意味で宗教的であるというわけですけれども、だからこそもっとも卑俗なギャルゲー業界においてこそ、もっとも卑俗であるがゆえにその娯楽媒体を享受するユーザーは本能的であり宗教的であり信仰的にならざるをえないのだと思います……アーメン。


 恐ろしいことに、大衆を感化させるにあたってもっとも影響力のある業界はもしかするとオタク業界なのではないでしょうか……。本能に支配された大衆たちとは、やはりオタク業界に住み込んで「萌え」や「感動」といった原初の本能を飽きずに享受しつづける彼らであり、感化させるべき他者とは、テレビやネットにかじりついてアニメを見続ける人間たちのような……何か渇しているといわざるをえない人間たちなのではないでしょうか……。

 そんなことを思い、聖書を読んで寝る……という一日でございました。アーメンハレルヤ。
10月22日

 みんなのシネマレビューで評価の高い「ユージュアル・サスペクツ」と知名度の高い「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を勇気を出して……今までなんとなく感性的に合わないかもしれない……と見てこなかったのですが、ランボーの新作がどうしてもレンタル中でしたので、怒りのランボーと化して勇気を出して視聴してみた次第でございます。

 感覚としては双方とも大体70点ぐらいでして……なるほど、そういう映画だったんですか……!という感じの映画でございました。
 ユージュアル・サスペクツはサスペンスとして完成度が高いといえるかどうか個人的には疑問であったように思われますし、ダンサーインザダークはもう……なんというのでしょうか、「アンジェラの灰」の不幸さをよりアグレッシブにして不幸のなかに幸せがある……のですけども私はつまるところ不幸です、という不幸を超越したところの幸福に行き着いて、ぐるりと一周して不幸になった恐ろしさでございます。


 とくにダンサーインザダークはなぜこれをプッシュする方がいらっしゃるのかなかなか理解に苦しむところがございまして……ほんとよくわからない次第でございます!
 主人公の不幸というものがどうしても個人的不幸の域を脱しておらず、そしてその不幸を甘んじて受け入れる覚悟もなく、ダラダラと不幸に恐怖して限界の生命を生き、最後歌をうたいながら死んでしまう……。
 まさに見てる側はこの映画から「主人公の個人的感情」以外を読み取れず、いったい何が起こったんだ……一体この映画のテーマは何なのですか……監督さんはこの映画で何を訴えたかったのですか……この世に不幸な人がいることをアピールするには、いろいろ確かに主人公の境遇は大変で不憫でしたけれども、主人公自身何が不幸で何を克服するためにたたかっているのか非常に曖昧らしく、視聴者は主人公の不幸に感情移入できないわけでございます……。
 つまるところ、主人公はとくに不幸ではないというテーマであるのでしたら視聴者はそれでもいいと思うのですけれども、主人公が実を言うと内心死ぬほど不幸であると嘆き悲しんでいるのでしたら、その内心の極限的不幸を描写してさしあげなくてはならず、実際主人公は内心では……そのあまりに繊細すぎる内心ではかならず絶望の苦悩に満ちているはずなのではございませんか!? 善き人であるがゆえに、人助けをしてしまったがゆえに裏切られて死んでしまった彼女の良心の絶望を描かずに、どうして主人公の現実逃避でしかない妄想ミュージカルを垂れ流すというのか……。妄想ミュージカルを流すまえに、主人公の精神を描きなさい! 
 そしてその真の精神、真の不幸を描いてこそ、妄想的ミュージカルの悲壮さが際立つ可能性が出て来るのではないでしょうか……。

 ダンサーインザダークは薄幸のヒロインが醸し出す幻想的雰囲気に頼りすぎ、その結果何をも救わないし、誰をも救おうとしない映画となってしまっているような気がいたします。  誰をも救う気がないのでしたらあえて「不幸」というものを題材にする必要はないのではないでしょうか……そういう疑問と激しい義憤に駆られる、いわばシンドラーのリストかエレファント・マンかガタカあたりを見返して慰められたい気持ちでいっぱいになる映画といえることでございましょう……。まさしく不幸のための不幸、不幸のもたらす退廃的幻想の効果をのみ求めた異色のミュージカル……という感じでございます!


●ユージュアル・サスペクツ…69点
 とくに感動せず、驚かず、かといって退屈せず……でございます。

ダンサー・イン・ザ・ダーク(you tube 日本語版予告)……72点
 ヒロインが冤罪で刑務所にぶち込まれるラスト30分ぐらいから、ようやくヒロインの精神性が見え初めて面白くなりました。
 ヒロインは無学で、不器用で、白痴的であり、妄想的であり、現実を直視せず、誤った判断をくだしてしまうことも多々ありますが、しかしながらまっこと純粋であり、目を見張るほどの善人であり、母親であり、息子のために自ら死を決心することのできるひとりのまっこと精神的人間なのでございます。
 題材とキャラクターは悪くないと申しますか、主演女優のひとの演技力は素晴らしいと思いましたけれども、監督さんの美的センスを重視する方向性が作品のテーマを若干損ねております。テーマのほうもガンバってほしかったところでございます……。つまるところ、なんのためにこの題材とこのキャラクターで映画を作ったのかというところでございます……。
10月24日

 マイケルジャクソンに飽きてしまいギャルゲーソング的懐古主義に浸っていたところ、リトルバスターズの挿入歌『遥か彼方』を一年ぶりぐらいに拝聴してみたのですが、なるほど……リトルバスターズを思い出させていただいた次第でございます…。
 そしてその後エヴァのMADを視聴いたしまして、ほう…エヴァもいいな…と思い、ランボー最後の戦場をみて、ランボーってほんと悲しいな…と思い、またエヴァのMADを見て、ほう…エヴァもいいな…とふたたび思ったのでございます。

 たしかにエヴァは感動的でございました。
 何が感動的かと申しますと、やはり無力な少年少女たちの……なんの影響力もない無力な自分を認めつつも、しかしながら社会に対するわずかの反抗をその幼い表情のうちにほぼ無自覚的に秘めているところ、その純粋極まりない無自覚的反抗の笑顔が感動的なのでございます。
 そしてまたその反抗が無自覚的であるがゆえに具体的に社会に対して向かず、つまるところその反抗は自罰的であり、精神的であり、本当はすべてこの自分が悪いんだ……と悲鳴をあげ、その悲鳴によって「反抗すべき社会そのもの」ではなく愛すべき他者、その一人ひとりを傷つけてしまうところが感動的なのでございます……

 他者からの完璧な存在肯定を求めるエヴァのキャラクターたちを救済するためには、まさしくすべての人間がすべての人間に対し、「おめでとう」「おめでとう」とその存在を許しあい、価値を認め合うほかありえず、……エヴァが視聴者を惹きつけてやまないところは、その存在の相互承認が認められそうで認められない、じりじりした焦燥感を感じさせるところであるかもしれないのです……と思いました。
 トウジやミサトやアスカによってシンジくんはその存在が次第に肯定されていくような感じにストーリーは進みますが、しかし実際のところミサトは自身の復讐心がシンジくんの人格に優先し、アスカはシンジくん以上に自己の存在肯定を欲しており、トウジは親の手を借りたシンジくんに半殺しにされてしまい……もはやシンジくんはミサトやアスカに対して、存在を肯定してもらう役割をのみ求めることができなくなってくるのでございます……。
 その存在承認の役割をシンジくんはカヲルくんに求めますが、カヲルくんもシンジくんに対するまったき存在肯定を途中で放棄し、自己主張をしはじめてしまう……。
 このなんとももどかしい感じ――こんなに頑張ってるシンジくんを誰か認めてあげてくださいという切なる願い、またそれに反する一種の現実……人それぞれうちに秘めた事情があるのだ……というこの願いと現実の衝突、そのもどかしさ、やりきれなさというものがエヴァの魅力なのではございませんでしょうか…。

 結局テレビ版ではシンジくんがすべての他者に拍手されることによって、僕は僕でいいんだ……という結論をまさしく他者から与えられるのですが、劇場版ではその結論を、父と母から与えられたエヴァという価値観からの脱却――何かの価値を意識的に選択し、その責任を自分自身が負うところの「自立」によってシンジくんは獲得する……という感じでございましたよね……ほんと懐かしい次第でございます!


 ところで、シンジくんの自立は、全人間存在が一個の生命体になることによって各人まったき意味で相互に肯定される幸福……ゲンドウたちが望んでいた父母の価値観の否定でもございました。その否定はおそらくシンジ君自身考え抜いて決断したものではなく、父母から自立するための直感的否定であり、シンジくんはさっそくアスカを絞め殺そうとしてしまうのでございます。
 傷つくことを恐れるシンジくんは、自らを傷つける他者でもあり、同時に他者によって傷つけられる自己でもあるアスカの存在を消したくてたまらなかったのでございます……。

 ここで思い返されるのは、シンジくんが参号機をぶち壊しまくってしまうシーンでございますけれども、今度はシンジくんは初号機の手ではなくみずからの手で他者を傷つけてしまうのでございます。
 かつてエヴァ初号機はシンジくんの意思を離れて参号機の首を勝手に絞めはじめ……シンジくんは「止まれ止まれ止まれ止まれ」と、母親たるエヴァ初号機の胎内で叫んでおりましたが、そのときは父たるゲンドウと母たるエヴァの意思によって他者に対する暴力はとまりませんでございました。
 しかしながらここにおいて、シンジくんは母の意志ではなくみずからの意思によってアスカの首を絞め、他者を傷つけ、同時にみずからの意思によってその行為を止めえたのでございます。
 自己を守るために他者を傷つけてしまうシンジ君の嗚咽……。他者に「気持ち悪さ」を感じるアスカの生理的嫌悪感……。これらはまさしく全人間を一個の存在にすることによってしか解決しえないATフィールド、カヲルくんいわく心の壁でございますが、しかし「父にありがとう、母にさようなら、そしてすべての子供達におめでとう」と個々の人間に対して個々それぞれの賛美を送ったシンジくんは、その人間賛美の責任をみずから負わねばならないのでございます。
 シンジ君はそのことを承知しているからこそ――エヴァの胎内で母親に自身の暴力性を委ね、暴力の責任を「だって仕方ないじゃないか」とすべてエヴァに転嫁してきたときのようではなく――シンジ君はみずからの行動がみずからの意思を示すことを知ったからこそ、その首を握り締める手の力を緩めたのでございます……。
 いかに他者に傷つけられようとも、自己の存在が承認されずとも、自分は他者がいる世界を決断したのだから僕はその他者をいとおしんで生きていく。といった感じのシンジ君の生まれてこの方はじめて為した自己決定、それがエヴァ劇場版だったのでございます……!


 「エヴァの日常 甘き死よ、来たれ」(ニコニコ)というMADでそんなことを思ったというわけでした。……もはやエヴァそのもので得た感想というよりも、エヴァを観念的に昇華させたエヴァを超越するエヴァMADで得た感想といった感じでございます……。
10月26日

 エヴァ破を劇場で遅ればせながら視聴してきました私といたしまして、私は、非常にエヴァンゲリオンのその新劇場版の意味とそのテーマとを深く考えざるをえず、それはすなわち非常なる感動を私にもたらしたということでございました……。

 エヴァ新劇場版はあきらかに旧劇場版からの続きでございます。すべて……かつて絶望と苦悶のうちに人間と使徒とに対してきたシンジくんの…後悔と決意の願いがこめられた作品でございます。
 新劇場版におけるシンジ君は、全人間が融合せずとも……全人間が一個の生命体にならずとも、人間は一人ひとり幸せになれるんだ、ということを本当に全身全霊をもって証明せんとしているのでございます……。

 
 一、すでに為されている父母からの脱却

 破を視聴してやはり気づかざるをえないところがシンジ君の自立的姿勢でございます。破においてシンジくんの父母からの脱却がすでになされていること、このことが旧劇場版で「父にありがとう、母にさようなら」とすでに父母と決別しているシンジくんの心の連続性を感じさせる次第でございます。

 ◎父からの脱却

 私が覚えている「父からの脱却」すなわちゲンドウからの脱却……さらに申し上げますと、シンジくんとゲンドウが観念的に対等であることを印象付けるシーンは2つございます。それはテレビ版とは違った演出によって視聴者をしてハッと気づかせるシーンでございます。

 1.参号機をぶっ壊したあと、初号機パイロットを辞任するところでのシンジ君の頑なさ。
 2.「僕はエヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジです」の前の台詞、「父さん!」というところで、ゲンドウがシンジくんのその気概に驚き感心しているところ。

 新劇場版は、大体テレビ版と同じようなゲンドウ⇔シンジ関係を踏襲しているように見えて、しかしテレビ版とは異なる上の2点からして、シンジくんがすでにゲンドウを畏怖すべき対象として認識していないことがなんとなくわかってくる次第でございます。
 むしろシンジくんはゲンドウに対し、幼いながらも自身の価値観を提示し吟味するように迫っているといっても過言ではないのではないでしょうか……。

 全人間を一個に融合せぬかぎり愛は充ちないと考えるゲンドウ・ユイに対し――つまるところ存在肯定を求めるすべてのチルドレンに対し――シンジくんは自分の願いと意思を突きつけているのでございます。
 その願いとは、すなわち一人びとり、全人間存在はそれぞれ人間的努力によってその心内に愛を満たすことが可能であるいうこと、その可能性でございます……。

 そしてその人間的努力こそが「シト新生」を生ぜしめることを……破の最後のシーンにおいてシンジくんは強烈に訴えたのでございます。人間は確かに傷つきやすい存在であるけれども、確かに他者という存在があるかぎり真実心の平安を獲得できないかもしれないけれども、しかし他者という生命を心の底から認め、愛し、望み、求めたとき、そのときこそ、人間は新たな生命に生まれ変わるのだ……。
 他者(ゼルエル)と融合したレイを、シンジくんが身命を投げ打ってその存在を独立させたとき、自身の生命を投げ打ってレイのアイデンティティを保証したとき、シンジくんとレイは古い衣を脱ぎ捨て、新たな存在に生まれ変わったのでございます。……全人間をひとつにする人類補完計画によってではない、一人びとりその存在が独立するなかでの他者の心の補完、これこそがシンジくんがおのが生命を代価にしてまで望むサードインパクトなのでございます……。
 それはまさしくミサトが涙ながらに叫んだように、「行きなさい! 誰のためでもなく、自分のために!!」というシンジ君自身の祈りと決断なのでございます……

 神に突き動かされユダヤ人をバビロンに連行したバビロニアの王様「ネブガドネザル」を台詞に入れるなど、あるいは黙示録的世界観を象徴的に追求している(初号機覚醒後のリツコさんの「世界の終り」を暗示する台詞)エヴァの新劇場版は、旧版より聖書に接近するつくりになっております。
 イエス・キリストを信じた人間が神の子となって永遠の生命を獲得するように、人間的努力によって他者の心が補完できることを信じたとき、人はその存在を変質させて神の子となり、永遠の生命をもつ……。このことをシンジくんは訴えかけ、またアンノ監督はキリスト教をモチーフにすることにより、このことをより効果的に主張しているといえる次第でございます。


 ◎母からの脱却

 これはやはりビーストモードという設定に尽きるように思われる次第でございます。破でのエヴァンゲリオンはもはや母親としての機能を果たしておらないようにわたくしには見られた次第でございます。

 かつてのテレビ版、劇場版でのエヴァンゲリオンは、まさしくわが子を守る母親としてのエヴァンゲリオンでございました。シンジ君を守るために初号機は暴走し、ゼルエル戦闘時においては、シンジ君の「今動かなきゃみんな死んじゃうんだ!!」という心からの絶叫に初号機は覚醒し、母としての意識を完全に目覚めさせたところでございます。
 そして子を求める母、母を求める子の願いの一致が、シンジくんとユイの存在としての境界線をあやふやにし、その結果人類補完計画の雛形たる「他者との融合」が覚醒後におきえたのでございます。(シンジくんが生命のスープのなかでアイデンティティを確立し、現実世界に戻ってきたこともまた、人類補完計画を否定するシンジくんの予兆ともいうべき意思のあらわれでございます)

 破において、エヴァンゲリオンは母の意志ではなく、父の意思ではなく、シンジくんの意思なのでございます。
 母の意志ではないがためのビーストモードという新設定であり、そしてまた、父の意志ではないがためのダミーシステムを拒否する初号機なのでございます。

 ダミーシステムはゲンドウの意志によってエヴァ初号機を動かすための装置でございます。かつてのテレビ版では、ダミーシステムの否定はある種……シンジ君(子)を求める母の、子を傷つける夫に対する嫌悪、子を守ろうとする母としての意識、そういうものを感じさせる描写でございました。
 しかしながらビーストモードという設定によって、また前作と比較にもならないほどの綾波レイの母性(あるいは「異性」かもしれません)の顕現によって、エヴァンゲリオンの母性としての役割が薄れた今作においては、むしろダミーシステムを否定する初号機の否定はシンジ君その人の意志における否定であり……、あるいは新たなサードインパクトの引き金を起こすための「神の子」初号機による否定……このように捉えられるように思われた次第でございます。(初号機はすでに旧劇場版において示されたように、磔によって全人類の罪を贖ったイエス・キリストの人為的代替でございます。神の子イエスの再臨によってではなく、人間自身が機能としてのイエス・キリスト――神の福音を伝える者、エヴァンゲリオン――を創造し、それによって人間自ら全人類を救おうと画策していたキリスト教的組織がゼーレなのでございます)
 ダミーシステム否定のシーンは、母親としての性質ではなく、神にもっとも近い神の子としての性質をもったエヴァンゲリオン初号機によるシンジくんを求める心……というふうに感じらた次第でございます。

 あるいはまた、いわゆるSS業界において「碇シンジ」の漢字表記を「碇神児」とすることが一種の都市伝説的常識とされていることを鑑みましても、初号機=シンジくんという設定は旧劇場版から引き継がれるべき設定というべきかもしれない次第でございましょう……。

(旧劇場版においては、人類を同一存在に融合させようとするゲンドウたち、あるい人間の別の可能性であった使徒リリスの価値観を否定したシンジ君が、人間存在の独立性を再創造する神の児として原初の世界に〔アスカとともに〕再臨いたしました。……(中略)……この初号機、シンジ、アスカ、という三者三様の同一存在は、キリスト教の教義である三位一体に類するものであるかもございませんが、しかし真に教義的な側面からみたとき、父なる神=初号機、子なる神=シンジという解釈はまだしも、聖霊なる神=アスカとしての解釈は不可能でございます。このことから、三位一体としての初号機、シンジ、アスカという厳密なる教義的解釈は不可能であるところでございます。解釈の方向性としましては、どちらかというと初号機=神、シンジ=アダム、アスカ=イヴのほうがまだしも論理的説明がなされるように思われますが、しかしことエヴァ旧劇場版の終わり方に対する解釈につきましては、キリスト教的モチーフから離れ、『新世紀エヴァンゲリオン』の作品としてのテーマから解釈をなすことの妥当、これを自戒をこめて思う次第でございます。しかし、エヴァにおける終末論と再創造に関しましては、本来別の項で書かせていただくべきところでございまして、先に述べた『人間存在の独立性を再創造するために再臨したシンジくん』という解釈につきましても、その一私見を説明するにあたって多大な文章量と練られるべき思考が必要だと思われますので、おそらく10年ぐらいは書かないだろうと思われる次第でございます)


 二、あるがままの人間であることの容認、その賛美

 また、破においてやはり気が付くところといたしまして、キャラクターたちが非常に人間らしくなっているところ、その人間味あふれたキャラクターたちの感情を挙げずにはおられませぬ、という感じでございましょう……。

 テレビ版・旧劇場版では、彼らキャラクターたちは非常に、まさしく非常に精神的存在であり、精神が肉体に露出し、その肉体に露出した精神が他者の思惑に触れて火傷のようにヒリヒリしている……そういう繊細なキャラクターでございました。
 しかしながら今作において、彼らキャラクターたちは非常に人間らしい感情を見せておりました。すなわち旧版のような今すぐ自殺してもおかしくないほどの精神的不安定さを感じさせないつくりになっておりました。

 ……

  ……

   ……

 なんか疲れてしまったので、この辺で終りでございます!
 書いているうちになんとなくエヴァ新劇場版が整理できたので、もはや書かなくてもいいや……という感じの次第でございます……

 そしてわたくしをして高額な金銭を要求する映画館に仕方なく足を運ばせるほどの…おすすめエヴァ動画「エヴァ#19のBGMを『ヱヴァンゲリオン新劇場版:破』にしてみた」(ニコニコ)をぜひ御鑑賞してみてください……といった感じです。まさしく、日記で湯さんも言われるとおり、エヴァは永遠なりでございます。…
10月31日

 オタクの世界も奥が深いな……と思ってしまうのは、やはりわたくしがいわゆる過去というものに未練があり、郷愁を感じてしまうからなのでございましょうか……。

 エクセル・サーガ(ウィキペディア)にわたくしともう片方のわたくしが出会いましたのは、確か高校時代だったと記憶してございます。わたくしたちは10巻ぐらいを漫画で拝読いたしまして、そしてアニメも思う存分視聴した覚えがございます……。そのときのわたくしたちは、エクセル・サーガの荒唐無稽な世界観と辻褄を考えない破壊的ギャグ――そしてまた本質的に善良な人間であるうすた京介とは似ているようで異なる風刺的知性、そのすべてを疑ってかかるアンチヒューマニズム的視線に、一種のわびさびを感じておりました。そういうものですから、拝読、視聴するたびに漫画・アニメというものに対する儚さ・虚無感を感じ、同時に戦後のどさくさのとき、闇市で買った米を柔道着でつくったズックにしこたま入れて……何時間も電車に揺れてうちに戻ってきたものだ……と語られる祖父に対するような尊敬に類する感動を、少なからず覚えさせていただきました。

 そして大学に入ってからはまったくエクセル・サーガのことは失念しておりまして、やれFateだ、やれマブラヴだ、やれ原爆だ餓死の研究だとひとりで騒いでおった次第でございます。……
 そしてつい昨日、わたくしは黒澤明の「白痴」を返却するために、また同監督の「生きる」か○×監督の「黒い雨」を借りようと決断したため、念仏を唱える恨み深い死刑囚のごとき視線でGEOに入店したのでございます。……

 そのGEOには古本コーナーもございまして、わたくしはその本棚をちらりと拝見してふと、国語を教えております小学6年生の児童に本を買ってあげる約束を思い出したのでございます。ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』あたりを買ってあげようか、あるいはルパンシリーズの『奇岩城』か、あるいはわたくしが小学生のときに耽読いたしました『水滸伝』あたりを買ってあげようかわたくしは迷っておりました。
 それで、ついつい迷ったわたくしは漫画コーナーに足を踏み入れてしまいまして、いったい何千年前にわたくしは漫画を読んだのだろう……と……漫画雑誌を毎週喜び勇んで立ち読みしているにも関わらず、遥かな故郷である地球文明を久方ぶりに探索するかのような優しく懐かしい気持ちで、漫画の棚を徘徊してしまってございます。

 そのとき、目に入ってきたのが『エクセル・サーガ』でございました。エクセル・サーガの背表紙が目に入った瞬間、わたくしの脳裏にエクセル・サーガに関する全記憶が走馬灯のように蘇り、わたくしはエクセル・サーガの作品としてのあまりの存在の希少さ、儚さ、どうでもよさ、読まなくてもいいんじゃないでしょうか、……エクセル・サーガに関するそのような自身の評価に対し、涙せざるをえないのでございました。
 それで、わたくしは涙しながら同情の面持ちでエクセル・サーガ9巻を手にとり、そしてわが子の…可愛かったときのわが子の昔の写真を見るかのごとき複雑な優しさで、読ませていただいたのでございます。
 そうしたら、わたくしは意外な…意外にもわが子が、へへ……ついに自分を超えることのなかったと認識していたわが子が、意外にも「できる」ということを恥ずかしながら発見いたしまして、エクセル・サーガに対する評価を改めさせていただきました。

 ――面白いといっても過言ではないのではないでしょうか

 つまるところわたくしはこう思った次第でございまして、いわばエクセル・サーガの何某という作者に対する、友愛の情を抱いたのでございます。
 エクセル・サーガは、イメージで申しますとわたくしの友人である河戸さんが描いたような漫画でございまして、わたくしはおそらく河戸さんが決死の思いで描いた作品「エクセル・サーガ」を読者一号として読み、見て、そのとき彼を手放しで褒めることでございましょう。

「素晴らしい、面白いよ!」

 これなら受賞できるだろうと激励をかけるわたくしの胸中は、しかし複雑でございます。
 確かに知的オタクには親近感のわくギャグでございます。よく考えられており、真理の一端をそのギャグによってあらわしているといっても過言ではないでございましょう……。
 しかしながら、「理想」とは何か……。「理想主義」とは何か……。この辺の苛烈なる哀愁が、作者はわかっていない!! 手首の一本でもぶった切ってから描き直しなさい!!

 わたくしは、胸中でそのような不満を抱き、しかし……エクセル・サーガの設定的には、理想を語るイルパラッツォはまだ目覚めていなく、誰かの操り人形であることが想像できますので、イルパラッツォが理想を謳いながら一言も具体的理想を語らない点は、我慢せねばならない……。わたくしは、歯軋りしながら、しかしながら必ずいつかイルパラッツォが覚醒し、エクセルがギャグキャラからシリアスキャラに変貌し、エクセルと××市局との死闘が描かれるのだろう……。こう期待して精一杯の笑顔を浮かべるのでございます……。

 その後、わたくしはネカフェに直行し、「生きる」も「黒い雨」も借りずに、黙々と……手塚先生が机に向かって黙々と漫画を描くように、わたくしもまた黙々とエクセル・サーガの10巻以降、未読の部分を17巻あたりまで読ませていただいた次第でございます。(現在23巻まで刊行しております)
 そうしてわたくしは、エクセルたちがわたくしの高校時代のころとまったく変わっていないことに安堵し、いまだイルパラッツォに永遠の忠誠を誓い、市街征服の一環で廃ビルや廃屋に爆弾をしかけたところ、脱出できずに一緒に爆破して死にかけたりする様子を見て、この上なく優しく、「ふふふ」と微笑んだのでございます。


 思うに、エクセル・サーガはオタク的メディアを齧ったことのある人間ならばすべて読んでいてしかるべき教養のひとつであるかもしれない……、恥ずかしながらこう思った次第でございます。
 その作者の……文学者になりきれぬ中途半端な知性。しかしこの中途半端な知性こそがわれわれオタクの最高の「友愛」をこの漫画に対して感じさせ……これでもって、大衆以上の知性をおこがましくも自負するオタクの最大多数を、確かにエクセル・サーガは味方に引き入れているのでございます。
 またこの知性は、中途半端であるけれども的外れではないのでございます。わたくしをして怒髪天をつかせるほどの、差別的かつ破廉恥な「知性」をひけらかす作品は多々ありますけれども、エクセル・サーガはそうではございません……。エクセルたちの思想と行動には「イルパラッツォ様のために殉じる」という一本筋がございまして、結果ギャグ的行動を起こしてしまいますが、その殉死の精神は確固たるものでございます。それだからこそ、わたくしはついついエクセル・ハイアット・エルガーラたちイルパラッツォを崇拝する3人の……生活費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れる日常をみて、涙を流してしまう次第でございます……。

 それでよろしい。まことに、それでよろしい……。

 17巻ではなぜか2人目のエクセルが登場してしまい、また物語が深いところでさまよいはじめてしまいましたが、しかし物語の終りに向けてシリアスの階段を徐々に上っていっていることを確信させるそのシリアス、ギャグの危ういバランスが……読者をひきつけてやまないところでございます。


 …そしてアニメを見てみましたら、あまりのつまらなさに驚愕いたしまして……やはりギャグ漫画はアニメにしないほうがいいね……と思った次第でございます。

 参考動画:エクセル・サーガOP
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