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11月1日

 今日は映画『パッション』(ユーチューブ予告)を教会の青年会で視聴させていただきました……。

 青年会というものは教会の牧師と青年のみによる交わり、分かち合いの時を意味するのですが、私の通っております教会に青年は私と女学生2人の計3人しかおりませんので、非常に……青年会といいますか、青年たちによる密やかな信仰的集いという感じでございましょうか……。

 そこで、信仰のリーダー的存在でございます女学生の1人が、今日の第2回青年会は、もう片方の女学生がパッションを見ていないということもございまして、パッションを見たらどうでございましょうか……と微笑して提案しておりましたので、パッションを普通に視聴いたしました次第でございます。

 私はこれまた密やかな期待をもってこの青年会に臨んでおりました。パッション……キリストの受難を描いたこの映画を見るのは1年と数ヶ月ぶりでございまして、神に対する信仰を比較にならないほど強めた今の私の目には、あまりに生々しく凄惨であるキリストの受難映画「パッション」はどう写るのか、非常に強い関心がございました。


 しかし私が何より衝撃を受けたことは、イエス様が十字架にかけられるそのあまりに痛々しい場面において、やはりリーダー的女学生が涙を流しておったところでございます……。  激しい鞭打ちによって血だらけになり、自分ひとりでは歩けないほど瀕死のイエス・キリストが重い十字架を背負い……何度倒れながらも足を引きずってゴルゴタの丘までのぼっていく。ゴルゴタの丘につきましたら、死人に鞭打つかのように、今度は両の手のひらと足にでっかいトンカチによって太い釘を突き刺される……。そのとき、弱弱しい声で、痛みによる絶叫をあげるイエス様が

「神よ彼らをお赦しください。赦してください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです!」

 と震えながら叫んでいる場面において、リーダー的女学生が涙を流しておられるのでございます……。


 私は彼女の感受性の高さに賞賛の念を惜しまない次第でございます……。恐れながら、私はそのとき、イエス・キリストがまさしく全人間という「友」のために死んでくださったこと、その「友」には――イエスに唾を吐きかけ、侮辱し、笑いながらぶん殴ったり鞭打ったりしたユダヤ人とローマ兵にも当てはまるのだということ。このイエスの大きな愛について思いを馳せておりましたので、泣くというよりは大きな自戒の面持ちで、イエス様、愛が不足しておりまして申し訳ございません…と自身の罪性に頭を垂れておった次第でございます。

 映画を観終わったあとは、パッションの感想を牧師先生と一緒に分かち合うという流れになりまして、私は自分と彼女たちの至極妥当な感想にいちまつの寂しさを感じた次第でございますが、しかし個人的には……一回目に見たときとそれほど感動する場面が異ならないということに、自分自身一種の重大な事柄を感じた次第でございます。
 この場面は聖書にない、この場面は創作である、というようなことを考えられるのは以前とだいぶ違いますけれども、しかしこと感動という内面的要素に関しましては以前と異ならず……。以前と同じ場面で感動し、そしてまたその場面で以前より「感動しなかった」という事実……このことがかなり重要だと思われた次第でございます……。

 思うに、私は、こういう映画は信仰を減退させるおそれさえある……と恥ずかしながら思ってしまった次第でございます。つまるところ、われわれ全人間のすべての罪をその身に引き受けてくださったキリストの苦痛や煩悶といいますところは、われわれが想像できない類のものであるからこそ、本当に悲しく、重々しく、厳粛であり、ああ主よと頭を下げざるを得ず、その血に感謝なのでございます。
 しかしながら、こうして映像としてキリストの受難を確認してしまいますと、それらの苦しみがどうしても「肉体的苦痛」として確認されてしまい、私は混乱してしまうのでございます。
 イエス様は肉体的苦痛をもって「死」、あるいは十字架を恐れていたのでございましょうか……。それは本当なのでございましょうか……。イエス様は、肉体的苦痛以上に父なる神に完全に捨てられること、また全人間の罪に苛まれること、この肉体的苦痛とは異なる次元にあるところの「魂の苦痛」を震えながら恐れていたのではなかったのでございましょうか……。

 私はそう思いましたのでございまして、視聴後に、勇気を出してこのように発言した次第でございます。

「この映画を観ると、イエス様は、なにやら確信がないように拝見できました」云々……。

 この誤解されやすい言葉の裏には、イエスが真に人の子として生まれたことを、それがゆえのイエス様の真の苦痛をおもんぱかるものなのでございますが、しかしあまりそのことは女学生の方々には理解されることなく、悲しかった次第でございます。


 このような信仰の集いにおける悲しみは、信仰を減退せしめる発言はおのおの(洗礼を受けている方は)戒めるようにという暗黙の了解があること、まさしくそのことでございましょうか……。求道者は何を言われても問題ございませんが、すでに救われておりますわれわれは、その発言を慎重にせねばならない。

 わたくし自身生々しい見解による真剣な対話によって精神を深めたい人間でございますので、悲しいことながら、当たり障りのない分かち合いからは、あまり自分の成長を見出すことができないのでございます。
 もはや闘いといっても過言ではない……そのような分かち合いにこそ信仰の充実と成長が見出せると思われるのでございますが、しかしそれはやはり自分のことしか考えていない人間の発想なのでございましょう……。悔い改めて、先に救われし人間として、求道者たる者の信仰の成長をのみ願って交わりをしたいと思う次第でございます……。
11月3日

 ニコニコ動画のマイリストをなんとなく見返しておりまして……そしてふと恋姫無双や狼の香辛料などのOPを視聴してしまいますと……私はもう泣かざるをえないのでございます……。
 人間の創作性の敗北といいましょうか……すなわち、本当にオタクが好むキャラクターのみで成り立っているゲームやアニメの、その人間が一切住んでいなそうな感じの二次元的世界の荒廃が……私はもう哀しゅうて哀しゅうて……やっとれませんわ!

 そして同時に、恋姫無双だったら曹操が一番よく出来たキャラだった……ですとか、ホロの花魁言葉は灯台下暗しでしたけれども、やはり次の売れるヒロインは女工哀史に出てきそうな幼い子供たちの奴隷根性的言語を使いながら趣味の農作業にふけったりする――

「へ、へえ……。すんません、あたし、じゃない私、学校に行ってなかったもんだから計算できなくって……」
「あら、あなたそうなの? じゃあわたくしのほうが偉いのね。だってわたくし、掛け算も割り算もできますもの。ほら、近ごろお役人様が富岡製糸場を建てられたでしょう? わたくし、その群馬県出身の関孝和なみの計算力ですのよ」
 ぼろぼろのソロバンを真っ赤な巾着から取り出して無邪気な女の子が自慢する。
「ご覧になって。このソロバン、お姉さまからいただいたんですのよ。お姉さまは奉公人の出世頭で、だんな様からお手つきをいただいたんですのよ。いつも丈夫な生地の着物を着てらっしゃってね、本当にほんと〜に美人なんですからね。この巾着もお姉さまが……」
(算数がなんだ、数が数えられるのがなんだ。お母さんは数が数えられても藁のひとつも編めねえやつは、間引いちまったほうが得だ、せえせえするわっていってた。人間ってのはそんなもんだ。人間ってのは地獄を生きなきゃ駄目なんだ)
「あたし、でも、この魔法機械化学校には……算数できなくても入れたから」
「まあ、ほほ、馬鹿おっしゃい!! あなた馬鹿おっしゃい!! あなたなんか嫌い、もう嫌いですからね!! お姉さまもよく言ってらしたわ。馬鹿なやつは女郎になって、実際20歳そこらで死ぬまでトンチキな女郎だって。あなたも女郎になる運命ですのね!! ほんとう、鶴舞う形の群馬県でしてよ!!」

 などファンタジー女工哀史などどうでございましょうか……とかOPを視聴しながら考えてしまう私の浅薄さが、ほんに悲しゅう次第でございまして、今日はおわりでございます。
11月9日

 『素晴らしき哉、人生!』(It's a Wonderful Life)という1946年のアメリカ映画で、アメリカでは毎年クリスマスにテレビ放映されるという不朽の名作らしい映画を視聴したんですけれども、確かにこれは感動だ!という素晴らしい映画でございました……。
 まさしくクリスマスに見るべき映画って感じで、主人公のジョージが「メリークリスマス百貨店! メリークリスマス映画館! メリークリスマス住宅金融! メリークリスマス!」と街と住人のすべてに叫びながら妻と子供たちの待つ我が家に帰るところとか、本当に感動でございました…。

 物語はジョージという男が自殺しようとするところからはじまるのですけれども、ジョージの子供たちの「パパを助けて」という祈りが天に届き、200年も天使をやっているのにまだ翼をもらえないドジな2級天使が、ジョージを救うという使命を神様からいただくのです……。
 それからジョージの人となりを知るために、ジョージの生まれてからの人生を神様と一緒に鑑賞し、その後に自殺しようとしているジョージに会いに出かけていく。
 この一人の人間、ジョージの子供の頃からの恋愛や仕事といった人生の描写が映画のほぼ全てであり、またそれがやはり素晴らしく、ジョージの善良さ、明るさ、誠実さ……。世界を旅するという幼い頃からの自分の夢をあきらめて弟や父親の築いた会社、家族のために貧乏しながら頑張ってきたジョージの生き様が、まさしく一市民としての幸福を描いておりまして、感動せざるをえないのでございます。
 しかし、あるアクシデントからジョージが父親から受け継いだ会社が破産しかけてしまい、それでジョージは絶望し、家族を置いて自殺しようとする……。

 ジョージの人生を勉強した2級天使は、ジョージに「自分がもし生まれていなかったら」という世界を見せる、体験させます。その世界で、ジョージは今まで手助けしてきた全ての人たちが悲しい生活を送っているのをみ、悲しみ、「もとの世界に戻してくれ!」と泣きながら祈る。
 最後、いろいろあって「町で一番の幸せ者、ジョージに」と町中の人たちに祝福されるジョージの涙ぐんだ笑顔――そのIt's A Wonderful Life! という幸福な笑顔がまさしく素敵といった感じでございました……。


 クリスマスにこの映画をみれば非常なる感慨に浸れるんじゃないかと思われますので、みなさんもぜひご覧になってはいかがでしょうか!

 ●「It's A Wonderful Life」予告(ユーチューブ)

 個人的に思い入れのある映画順位

 1位 シャイン
 2位 アマデウス
 3位 素晴らしき哉、人生!
 4位 ゴッドファーザー
 5位 不滅の恋〜ベートーヴェン〜
 6位 ボビー・フィッシャーを探して
 7位 エレファント・マン 

 以下、どのような映画があったか記憶にございません…
11月15日

 教会の人に対して口を開けば信仰問答しかしない私でございますけれども、今日は教会の女学生とクラシックについて久しぶりにほのぼのとお話させていただきました。
 彼女の恥じらいにみちた微笑を拝見しながらお話を聞いていますと……これがまた本当に不思議なことに、その笑顔とは対極に位置するものが私の胸中に差してくるのでございます。一抹の寂しさ、本能的なひとかけらの謝意……そういったものが、暗雲の狭間にふとした瞬間顔をのぞかせる太陽のように、胸のなかに落ちてくるのでございます。

 人間の原罪について思いを馳せるときに似たその寂しさは、いわば――「彼女と和やかに話した日は一体いつだったか……」という、まさしく私自身の罪を想起せしめるものだったのでございます。
 普段彼女とお話するとき、私はほとんど信仰の核心的な部分に対する質問をしかしてまいりませんでした。

「地獄はあると思いますか? 異端に対してなぜ怒りを向けるんですか? あなたはエレファント・マンを愛せますか?」

 思い返すだけでも、文学を読まない、映画も見ない、ただただ敬虔な一介の女学生(かなり高度な教養を獲得しておりますが)に対する質問としては非常に容赦ない質問であるな、と私は自身の過去を思い、恥じ入らざるを得ない次第でございます。
 一歩間違えればそれこそ信仰者たる自己を破滅に導きそうな……これらの無数の仮借なき問いかけに対して、彼女は必死に回答してくださいました。中途半端な回答はさらなる議論を呼びます。思考を放棄している問題に対する彼女のさらなる熟慮を促すために、また私自身の考えを述べるためにも、私は彼女をいつも長時間の闘争、議論という名の精神的格闘につき合わせてしまっていたのでございます。
 だからでしょうか……。非常に残念なことでございますが、私は彼女の切羽詰った表情や口ぶり、やや怒りのにじみ出ている視線のそらし方しか覚えていなかったのでございます。

 ――そんな彼女が、女学生らしくクラシックなどについて穏やかに話してくださっている。私は「ふふふ、彼女も普通の学生なんだな」と微笑すると同時に、「なるほど、普通のコミュニケーションとはこういうものだった」と一般人の思考を取り戻したのでございました。

 
 そんなわけで、絶対音感によってあらゆる曲を耳コピで即興演奏してしまう彼女の一番愛好している作曲家はブラームスである、ということを悔い改めの精神をもって、宗教的に厳かに拝聴しだ次第でございます。
 彼女いわく、「ブラームスは憂愁のなかに希望がある」らしく、まさしくキリスト教的価値観、神を賛美するための音楽としてクラシックを位置づけているのですが、その点私とほぼ同じクラシック理解といえるな、と感心した次第でございます。

 また、モーツァルトとベートーヴェンの作家論的理解に関して、非常に興味深い意見をいただいた次第でございます。

「モーツァルトは天才で、ベートーヴェンは秀才かなって思います。でもモーツァルトは冷たくて……私はモーツァルトの曲をずっと聞いていたいとは思わないかな。ベートーヴェンとモーツァルトは、ともに不遇の人生を送っていますけど、神様をそれでも求めていたのがベートーヴェンで、モーツァルトはなかば諦めていたというか、荒んでいたんじゃないかなと思います」

 彼女は作曲家の知識につきましては私より少ない知識しかもっておらず、映画『アマデウス』や『不滅の恋/ベートーヴェン』をすら見ていないらしいのでございます。しかし彼女の作曲家に関する音楽評はやはり幼少よりピアノに親しんでいるだけあって、感性的に非常に的を射ているものだと驚嘆すべきものでございました。

 また、同じピアノ曲であるドビュッシー「月の光」とベートーヴェン「月光」のちがいに関しましても、非常に詩的な理解をたまわりました。

「ドビュッシーの『月の光』は月そのものを見ていますよね。夜に浮かぶ青白い月の神秘をドビュッシーは見ていて、ベートーヴェンは月の放つ淡い光……この光がもたらす人や建物の、闇に溶け込んでしまうような影を見ているように思います」

 なるほど、確かに……という感じでございます。あえて申し上げるならば、ドビュッシーは月の魔力を自然描写的に描写し、ベートーヴェンは結局人間の精神を描いているよね、というところでございます。


 その後、『アマデウス』『不滅の恋/ベートーヴェン』『シャイン』を是非ご覧になってください、きっと感動すると思いますよ、ということを熱心に呼びかけ、家に帰るとブラームスを見るとみせかけてガゼットのライヴ映像をユーチューブで見てしまい、ムックの達瑯とガゼットのルキをパフォーマンス的に比較分析してしまい……達瑯は喉が弱いから感情表現のひとつとしてパフォーマンスを頑張らざるをえず、ルキは小柄で身体性が弱いから歌を頑張っているんだなってなんとなく納得した次第でございます。


●ムックの外国でのライブ……「極彩」


●ガゼットのライブ……「Hyena」
11月21日

 今日はヤンマガの「女神の鬼」(私として一番面白い不良漫画だと認識しておりました『BAD BOYS』の作者の漫画でございます)を読んで、今週号はとくに面白かったなあ……と久方ぶりに思いましたのでございまして、やっぱり漫画っていうのは面白さがかなりわかれるジャンルだなって思います。

 「女神の鬼」もまた、最初のほうはBAD BOYSの幻影から逃れようとする作者の必死のあがきが読んでいて悲しかったのでございますけれども、しかし鎖国島編に突入してからはついにバッドボーイズを超えてしまうのか……と言わんばかりの面白さ、また悲しさでございます。BADBOYSの延長線上にあった1巻の頃と比べて絵が格段にうまくなり、独自の絵柄を残しつつも完全に現代に適合している作者さんの努力と才能は賞賛に値すべきだと思われる次第でございます……。

 不良少年たち、キレてしまう少年たちの繊細すぎる心の機微を描かせたら作者さんの右に出るものはございません。バッドボーイズの最後の辺も主人公桐木司のキレてしまうことの恐怖と焦りを少しクローズアップしておりましたが、女神の鬼はどうしても暴力を振るってしまうことの――制御できない衝動の悲しさを、親からの視線、子供からの視線を通してずっと強調して描いておりますので、作者さんもひとつ階段を上ったなって感じでございます。
 またバッドボーイズよりも暴力描写がリアルになり、凄惨かつメッセージ性が強くなっておりますので、読んでいて少年たちの心の空洞に悲しくなってくる次第でございます。

 ――社会から隔離され、入ったら二度と出てこられない「鎖国島」。社会に適合できない少年たちはみずから進んでその島に赴き、また少年たちの保護者は息子が刑務所に行って人様に迷惑をかけてしまうのならば……と鎖国島への入国に泣きながら同意する。
 鎖国島にはひとつのルールがございまして、「王様」が決めたルールは絶対というものがございます。精神に何らかの欠陥を抱え、抑えがたい暴力衝動に支配された不良少年たちは、鎖国島で「王様」になるために命をかける……。
 中学生の主人公ギッチョもまた遅ればせながら念願の入国を果たし、いざ小学生の頃からの夢だった「王様」になるための道を必死に、また虚しく駆け上がる、というような話でございます。
 バッドボーイズを超える漫画となることは想像に難くないことでございましょう……。


●最近読んで面白いと思った回数の多い漫画の順位

1位 喧嘩商売(ヤンマガ)
2位 女神の鬼(ヤンマガ)
3位 範馬刃牙(少年チャンピオン)
4位 ピューと笛吹くジャガー(少年ジャンプ)
5位 ケッチン(ヤンマガ)
6位 タフ(ヤンジャン)
7位 バクマン(少年ジャンプ)
8位 新宿スワン(ヤンマガ)
9位 ハチワンダイバー(ヤンジャン)
10位 仁(スーパージャンプ)

落選 みつどもえ(少年チャンピオン)

 個人的には最近連載がはじまったヤンマガの「ケッチン」が健闘していて好印象でございます。一方同じくヤンマガの「コッペリオン」が最近つまらなくなって読まなくなってしまったことが残念至極でございます。作者さんは才能はありますけれども、編集さんの力不足でございましょう。大河的ストーリー漫画のあり方として、少々引っ張る力が欠ける物語展開といわざるをえません。もっと大きな目標を登場人物たちに抱かせないと読者は離れていってしまいます……。
 またハチワンダイバーの最近のマンネリ具合は半端じゃございません。前作エアマスターの終盤の様相(全員集まってバトル)を呈しておりますので、そろそろ終わりも近いかなと認識しております。
 引き続き、高いクオリティを期待しながら待ち望む連載漫画といたしましては、ヤンマガの「喧嘩商売」「女神の鬼」といったところでございまして、あるいは「バクマン」もそれほど面白くはありませんが、個人的には関心が高い次第でございます……。


 検索してみましたらなぜか女神の鬼のMADがございましたので、雰囲気だけはお分かりになると思いますので貼ってみる次第でございます。
 ・女神の鬼(ユーチューブ)
11月24日

 精神というものは志を高くもち、また自身があらゆる人間のなかでもっとも立場の低い奴隷的存在であるということを自覚したとき、もっとも研ぎ澄まされるものですよね。

 先日、礼拝のあとに、全ての母語で聖書を読めるようにと未開の地で聖書翻訳の活動をしている国際的宣教団体――日本ウィクリフ聖書翻訳協会が主催する祈祷会・報告会に参加したのですけれども、非常に参考になる報告を聞かせていただきました。
 インドネシアの奥地、アルネ語地域で活動されている田口勇新先生の宣教報告をお聞きしたのですが、大変な感じですごいのです。

「アルネで暴動が起こりまして、息子が通っている学校が焼き討ちされてしまいましたので、アルネから撤退せざるをえませんでした」
「宣教師を支援してくださるインドネシアの団体が閉鎖してしまって、本当にあのときは途方にくれました」
「やはり私たちは困難にあったとき、人間的にいろいろ頭を使って手段を考えてしまい、なかなか決断できないときがあります。そんなとき、現地のモイ兄弟が『信仰が弱いですよ。神様にあって決断しないでどうするんですか』と私たちをいさめてくださったのです。本当に、兄弟の信仰が強められたことが、一番の感謝です」

 など……まさしく大変な感じで、それをことさら穏やかに話してくださるので、私はほんとう感激いたした次第でございます。

 「信仰」という語句は「精神」に等しい言葉だとひそかに思っているわけでございますが、信仰はやはり困難のなかで、もっとも立場の弱い人間として、他者のために奉仕するうちに、はぐくまれていくものではないか…と思った次第でございまする。
11月29-1日

●今日のBGM「主の真理(まこと)は」



 先週の水曜日、教会で一緒に暮らしていた牧師夫妻のお母様が天に召された次第でございまして、それはそれは安らかな死に顔だったようでございます。
 私としては、お母様のまさしく純粋無垢な祈りであるところの昼食会でのお祈り……「イエス さまの 御名 に よって お祈り いたします アーメン」という赤子のごとき純真なお祈りが耳から離れぬ次第でございますけれども、そのお葬式のことなどを奥さん先生から礼拝のあとお聞きいたしまして、私は切実かつ熱烈な信仰こそがやはり人間存在、人間的生命をまったきまでに救うべしといったものを感じた次第でございます。

 奥様(といっても奥様も牧師でございますが)は喉を詰まらせながら、涙ながら、礼拝のあと、みんなの前に進み出でられましてご報告述べられるのでございます。
 お葬式には皆さんお忙しいなか本当に駆けつけてくださって、母がとても愛されていたことを実感いたしました。ありがとうございます。牧師夫妻の母だから葬式に出ないときまずい……そういうのではなく、本当に皆さん心から駆けつけてくださったことを覚え、感謝せざるをえません。この近所ではじめてのキリスト教式のお葬式を挙げさせていただいたのですけれども、近所の方々も「キリスト教の葬式はいいね」と言ってくださり、よき証しになったことと母も喜んでくださっていると思います。
 涙しながら述べられる奥様のご報告にもらい泣きをされる方々もやはり多くおりまして、私はつまるところ、キリスト教のよいところはこういうところであると、神様からいただいた自然な感情であるところの愛と衷心によって格式ばらずに、実際的に嘆き悲しむことができるところであると、思った次第でございます。

 実際のところ、人間の死の悲しみ、嘆きというものは皆さんのなかで、人間のなかで刹那的なものでございます。それを承知している優しい雰囲気が教会にはあり、まさに悲しみを強制していないのでございます。ご報告が終わりましたら、もう皆さん昼食会に向けて活発に動いており、最近礼拝に来られているALTの外国人英語教師2名との適当なジャパンイングリッシュをもちいた和やかな会合がはじまっておりまして……しかし礼拝堂のなかには、葬式で飾ったたくさんのきれいはお花たちが幻想の夢のように教会を彩っておるのでございます。
 それはまさに、一瞬の人間生命の象徴とでもいうべき清楚な白きお花たちの群れでございます。そしてその多くのお花たちは、その扱われ方は、確かに、先に死んでゆくクリスチャンたちの扱われ方なのでございます。
 死は人間的感情においては悲しみ嘆くべき観念でございますけれども、しかし実際それほど悲しいことではない。なぜならわれわれは死んだら天国に参上し神の栄光に浴すからである。それ以前に、アダム以来罪に定められたわれわれはみな死ぬ存在であるので、死は特別嘆き悲しむことではない……。
 しかしながら、先に天上に引き上げられた先人たちを思って、白き花々をそっと意識しない程度に飾っておくのでございます。それがキリスト教の死者に対する悲しみ方、愛し方なのでございます。

 本日の早朝、いつものように玄関まで出迎えにきてくださる牧師先生に「お葬式に出られずにすみません」と頭を下げたところ、先生が少し意外そうな表情で姿勢をお正しになり、「いえ、お気遣いありがとうございます」と素晴らしくご立派な御辞儀をしてくださったことと合わせまして、そのご報告の様子は私の生涯の貴重な体験として将来ずっと脳裏に刻み込まれるだろう次第でございます。
 繰り返しになってしまいますけれども、何よりも、死というものが自然の営為であることを、神様によってまた与えられるものであるとすら考えている節があるところが素晴らしいのでございます。嘆きを他者に負わせず、未来に向かって、神に向かって邁進してゆく姿が、小説的に申しますと「美しい」のでございます。その姿はやはり『塩狩峠』的でございます。ドストエフスキーやトルストイほど暗くはないのでございます。やはり遠藤周作や三浦綾子のような精神を感じる次第でございまして、いわばぎりぎりのところで思想的に闘っている現代の敬虔な日本人クリスチャンの悲しみ、ともいえなくもないのではございませんでしょうか。

 昼食会では奥様がお生まれになったころからのおばあちゃんの写真をスクリーンに映して皆でにぎやかに雑談をしたのですが、もはやそれは悲しむ雰囲気ではなく、まさに過去を懐かしんで笑いあう雰囲気なのでございます。
 あら○○姉妹、あんなに若いじゃない!! かわいい!! とかそういう感じのにぎやかな空間でございまして、私としても非常な興味をもってその写真を拝見いたしました。やはり写真にはかなりのドラマがあり、先生夫妻がご結婚された当時の若かりしころの写真などもありました。また自分としてはヨボヨボといったイメージが強い、現在山形あたりにお住まいの○○兄弟を信仰に導いた牧師さんのかくしゃくたるご様子、立正佼成会の熱心な信者である先生のお母様のお写真。また脳卒中でたおられてから身体の多くを麻痺させてしまった姉妹の健康のときの笑顔……。
 そして最近の写真になりまして、おばあちゃんと一緒に写っている私や学生クリスチャンの○○姉妹の新進気鋭の姿があらわれまして、なぜかそれがもはや感動なのでございます。いかに自分たちが貴重な若者であるかが如実に判明される写真たちでございまして、彼ら先輩クリスチャンがなぜこんなにもわれわれによくしてくださっているのかが本当にわかった次第でございます。
 彼らは、いってみれば信仰の継承に一度ならず挫折しており(おそらくは誰もがもちうる自らの未熟さによって)、だからこそ、「今こそ」といった気持ちが強いのでございましょう。私も神に対する信仰を「今こそ」強めていき、神のご臨在をいかなる瞬間においても認められるよう、そして主のお気持ちにいつも思いを馳せることのできるよう、気を引き締めたく存じます。



新聖歌160番「主の真理(まこと)は」
主の真理(まこと)は
荒磯(ありそ)の岩
逆巻(さかま)く波にも などか動かん
奇(くす)しきかな 天(あま)つ御神(みかみ)
げに尊きかな 永遠(とこしえ)の主

主の恵みは 浜の真砂(まさご)
その数いかでか 計り得べき
奇しきかな 天つ御神
げに尊きかな 永遠の主

移り行く世 定めなき身
ただ主に頼りて 安きをぞ得ん
奇しきかな 天つ御神
げに尊きかな 永遠の主

積もれる罪 深き汚れ
ただ主を仰ぎて 救いをぞ得ん
奇しきかな 天つ御神
げに尊きかな 永遠の主
11月29-2日
 峰Fくんのおすすめに従って『愛のむきだし』という4時間ものキリスト教的大作日本映画を視聴したのですけれども、確かに監督は鬼才だなって思わせていただき、また監督の言わんとしているところはおそらくクリスチャンにしか、それもかなり敬虔でないと分からないんじゃないか……と思わせていただきました。
 これはやはり日本映画で見るべき映画としてはトップ3に入る映画かもしれませんが、日ごろ邦画を拝見しないのでよく分からない次第でございますけれども、おそらくは最近の日本映画のなかではトップクラスの出来なんじゃないかとなんとなく雰囲気的に思った次第でございます。

 何がすごいかと申しますとその思想的テーマ性がものすごいのでございます。この監督はおそらくカトリックの出自であると考えますが、最初のほうで主人公の父親である神父が息子(主人公)を問い詰めているように、『偽善』がテーマのひとつでございます。

「自分が良い子だと思うのならばそれは偽善だ。お前は悪い子か? ユウ、お前は悪い子か?」

 偽善を感じとる心が人間の良心であります。しかしローマ人への手紙でパウロが言っているように、その良心があるにもかかわらず罪を犯してしまうのが人間です。すなわち人間のもつ『原罪』、それもまたテーマのひとつでございます。
 偽善、原罪……しかしながら人間は救われることを約束されております。主を信じることによって人間は無償でその『罪』から解放され、偽善ではなく『心の底から』愛を行うことができるのです(それを『聖化』と福音派では言います)。すなわち、原罪と偽善の向こう側に『信仰』があり、救いの『希望』があるのでございます。そして最後に輝かんばかりの行為としての『愛』があるのです。その『愛』のむきだし――『愛』のあり方、『愛』の意味、『愛』の力、『愛』とは何か……恐ろしいまでの『愛』のむきだし、これを赤裸々にあらわすことこそがこの映画の趣旨でございます。

 劇中で、ヨーコというヒロインが「コリント人への手紙T」第13章を鬼気迫る形相で暗唱し、自分に言い聞かせるように主人公ユウに言い聞かせるシーンがやはり印象的でございます。このコリント書13章が監督のテーマのすべてといってもいいのでございましょう。
 つまるところ、永遠に残るのは『信仰と希望と愛』であり、そのなかでもっとも優れているのが『愛』であるということ。その『愛』がなければ『信仰』は空虚であり新興宗教となんら変わらないということ。そしてまた、誤解を恐れずに大胆に申し上げますならば、他者に対する確信的『愛』というものを『信仰』それ自体によって生じせしめることの疑義……これでございます。

 信仰から愛が生まれるのではない。事実、聖人と呼ばれるクリスチャン以外はまったき愛を行使していない。そうすると、もしかすれば、愛がはじめにあり、愛から神に対する信仰が生まれるのではないか……。

 行い主義的傾向のあるカトリックに対する若干の警告が含まれているとも考えられますが、主人公のユウは最初、かりそめの信仰を父親と母親から与えられました。
 幼少期、マリア様に熱心に祈る母親の姿をみて育ったユウは、母親が病死する自分を予期して残した言葉――「マリア様のような人を私に紹介してね」という言葉に突き動かされ、マリア様のような女性を無意識に捜し続けていました。
 また、妻の死後神父になった父親は、一度女性に誘惑を受け、だまされ、神父にあるまじき性的罪を犯してから、ユウに厳しい指導的態度をとるようになります。

「懺悔しなさい。自分の罪を思い出しなさい。今日のお前の罪はなんだ」
「……今日は、何も悪いことしてません」
「違う。よく考えてみなさい」
「お父さん、今日は本当に……思いつきません」
「それが罪だ。何の罪も見つけることの出来ないことが、お前の罪だ。これからは注意して生きなさい」

 まだ子供であるユウにとって無理やり懺悔するという地獄の日々がつづき、あるときからユウは自分で罪を作り出すことを思いつきます。
 自分の罪を求めて、またマリアを求めて、高校生になったユウは悪友にさそわれて盗撮という道に入るのでございますが、ユウはそれら盗撮写真に性欲を刺激されることはありませんでした。そもそもユウ本人に「自分には性欲がない」という認識があったのですが、しかしながら、ただマリアを探すために女性を撮影しつづけるうちに、ある運命的出会いが起こります。
 それがユウのマリアたるヨーコとの出会いであり、主人公ユウは生まれてはじめて性欲が刺激され、狂おしいまでの『愛』をヨーコに感じてしまう。

 ――ここまで一時間かかり、『愛のむきだし』というタイトルがようやく登場し、プロローグが終わるという感じなのですが、ここから一時間ほどでヨーコなどの主要キャラクターの人生とユウの悲恋を描き、もう一時間ほどで新興宗教とキリスト教の対決を描き、最後の一時間で『愛』がなされ、もはや『愛』はなり、神はわれらを憐れみたもうた……とはっきりした感動で終りを迎え、まさしくエンターテインメント性もしっかり備えた素晴らしい映画だと思われる次第でございます。

 テーマ的には『原罪・偽善・信仰・希望・愛』でございますけれども、先ほども申しましたとおり作品的には信仰⇒愛という順序に疑義を呈し、愛⇒信仰という順序を提示しております。
 かりそめの信仰が本当の意味でまったく壊され、アイデンティティが崩壊し、廃人になった主人公が『愛』から『信仰』を取り戻す過程がまさしく感動的でございまして、それはすなわち、与えられる信仰ではなく掴み取った信仰なのでございます。
 そしてまたマリア様たるヨーコに対するユウの劣情と恋愛の心が、決して他者から与えられたものではないということを、ユウ自身が崩壊してのち再びヨーコを愛することから明らかにしております。……


 クリスチャンの立場からみたとき、この映画は非常に共感できるつくりになっておりまして、最初のほうで神父が恋多き女性から誘惑されるときに私は目頭が熱くなってしまった次第でございます。
 その罪がいかに大きなものであるかを知っている身にとって、その女性の誘惑はあまりにも残酷であり、神父自身も非常に大きな罪責を感じるのです。
 終盤で神父が「もっとも恥ずべき罪」を大衆の面前で告白しなければならないとき、そのことを泣きながら告白していることからも、監督さんのクリスチャンに対する明確な理解を感じるばかりでございます。

「君の神に対する愛はそんなものだったのか。君は神より恋を選ぶのか。そんな信仰で、君は神父になったのか!」

 と偉い神父に言われ茫然自失となっている父親の姿にも……そして自分の祈りが偽善そのものであるように思え、毎日当然のように続けていた食前感謝の祈りを泣きながらやめてしまうことも、またやはり見ているこちらとしても泣かざるをえませんでした。

 しかしながら、やはり大衆向けにつくってあるからか、あまり登場人物が神様と祈りの応答をしようとしているようにはみえず、それが気がかりでございました。いわば人間目線の苦悩が大きすぎて、神様にゆだねるという真の信仰者としてのあり方が見られないところが気になったのでございます。
 この辺が、おそらくカトリックのクリスチャンホーム出身の監督さんと、プロテスタントであるわたくしとの違いであるのかもしれません。
 ただし全編を通して主の導きが――登場人物たちは感じ取っていませんが――確かに感じられるつくりとなっており、いわばドストエフスキー的な救済物語としてのあり方は踏襲されております。まさに現代のドストエフスキー的物語として、あるいは竜騎士よりも頑張っているかもしれません。


 そんなわけで、素晴らしい出来かつまったく時間を感じさせない映画でしたので、お暇なときにユーチューブでぜひ視聴していただきたく存じます。(なぜか全部アップされております)
 人間は罪にまみれており、だからこそ神の愛が必要であり、神の愛を受け取るには神に顔を向けねばならず、そのためにまず愛をむき出し、愛することを恥じてはならない……愛は神聖である……という死ぬほどのプラトニックな映画でございました。

 峰Fさんから紹介されて、この映画はあきらかに見なければならないと思わされた一場面を貼り付けておしまいでございます。もう朝の9時ですけれども、お昼から塾に行かねばならない!  もう本気で思想対決をしておられますので、この3分だけ見てみていただきたい次第でございます。

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