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5月3日

 今日は物凄い討論DAYでござりました。
 自分と学生クリスチャンと学生ノンクリスチャンの3人が礼拝後に何となく一同に会し、最初はそれはもう和気藹々とお話しておりました。大学の話、小説の話、映画の話……それはもう学生らしく和やかにお話していたのですけれども、しかしやはり徐々に話はキリスト教へと舵を取り始め、僕は待ってましたとばかりに万人救済論……いわば地獄はあるやいなやの話をしてみたのです。


「つまりクリスチャンにとって心底重要な関心事っていうのは、自分の知人が地獄へ行くかどうかということじゃないですか? 自分の知人がイエス様を信じないと断言したとき……Fさん、Fさんのお婆ちゃんは信じないと言ったじゃないですか。そのとき、お婆ちゃんは地獄に行くと思いますか」
「ううん、思わないよ。うん」


 最初、こういう調子で誘導尋問を繰り返しながら何とか地獄は存在せず……あったとしても人間は全て天国に行く、という話を認めさせようと奮闘していたのですが、しかし学生クリスチャンことFさんはそれについては懐疑的でございます。その微笑と困惑の眉根からは想像できないほど、彼女はある種の確信をもって語ります。


「う〜ん、天国に行くかどうかというのは、私たちには分からないんじゃないかな? 神さましか知らないと思うよ」

「しかしちょっと待ってください。Fさんはお婆ちゃんは地獄に行かないと思ったんですよね……つまりイエス様を信じないと断言したお婆ちゃんでさえ、Fさんは天国に行くと確信している。その確信を他の人間へと敷衍したとき……Fさん、この世の全ての人間は天国に行くという思想が生まれてきませんか?」

「う〜ん」


 僕とFさんの口調は柔らか。ですが、やはり双方断固として自説に固執しております。そんな僕たちをみてノンクリ学生Uさんは沈黙して俯くのみ。この討論に入ったらおそらく思想的に何らかの変革を求められる……そう確信しているかのような沈黙っぷりでございまして、結構周囲に気をつかう僕も全然Uさんの姿が視界に入りませんでした。

 話は途中で行ったり来たりし、なかなか自説をFさんに認めさせられない僕は業を煮やし、キリスト教界の非難すべき箇所にも話をうつします。たとえばそう、異端への辛らつな態度など…


「……正統を自称するカトリックや僕たちプロテスタントの人間は、すぐにモルモン教やエホバの証人を批判するけれど、これは僕はちょっとおかしいんじゃないかなって思います」

「ううん〜」

 困ったようなFさん。

「彼らを僕たちは誤った信仰と批判するけれど、ちょっと待ってください! 彼らは信じてるんですよ。僕たちとまったく同じですよ。彼らも彼ら独自の教理で救いを信じてるんです。その救いに耳を傾けようとしないのは、僕らの宗教が他者に開かれないことをよしとする態度にもつながってしまいます」

「いや〜」

 Fさんは苦笑し、目をぱちぱちと開けたり閉じたりして言います。

「もうちょっとエホバの証人について勉強したほうがいいと思いますよ。まずはエホバの証人に詳しい牧師先生にお話を聞くとか」

「うん、うん。しかし牧師さんには牧師さんの立場がありますから、決して色眼鏡なしにエホバの証人を語ってはくれないと思うんです。自分の眼で僕は見たいんです。それしか本当に判断する手段はないと思うんです」

「じゃあ……そうですね、たとえば聖書勉強会などでエホバの証人がかたくなに自説を固持し説明したとき、ユアサさんは自分の今ある信仰をたもてると思いますか」

「もちろんありますよー、ハハ。任せろって感じです!」

「そういう人ほど危ないんですよ〜。ふふふ」


 話は平行線をたどり、どの箇所でも決して僕たちは自分の主張を曲げません。まさか先ほどまで冗談交じりに中学英語の知識を披露しあっていた仲とは思えないほど、僕たちは思想的に闘っておりました。
 一時間、二時間と経っていき……僕はついに知識という武器に頼らざるをえなくなってまいります。


「キリスト教についての理解として、教父オリゲネスは万人救済主義を唱えたんだよ。人間はすでに救われているって。オリゲネスは以前は異端として排除されたけれど、今は名誉を回復しているんですね。つまり……人間はすでに全員救われている、という解釈については、このオリゲネスの論を駆使すれば可能なんじゃないかな」

「えーと、それは聖書に基づいているんですか?」

「さあ、読んでないのでわからないですけど、それを調べてみるのも面白そうですよね!」

「ユアサさん、話してて思うんですけど、ユアサさんは文献に頼りすぎじゃないかな。信仰は本からだけで学ぶものじゃないと思うよ? それだと勉強できない人の信仰を否定することにもなっちゃいますし」

「なるほど、確かに」

「律法で一番大事なのは、心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして神様を愛することですよね?」

「はい、福音書にありました」

「ユアサさんは知性だけで信仰にアプローチしてると思いますよ。もっと精神、思いを尽くさないと。私はユアサさんみたいな知性に欠けてますけど、この思いについてとかを頑張ってるんですよ〜」

「素晴らしい! それは素晴らしい回答方法ですね……感動しました。ところで僕はノンクリスチャンの方とよくお話するんですけれども、彼らがなぜキリストを信じないかっていうとですね、クリスチャン特有の『思い』とかが異文化すぎるからだと思うんです。もっとその辺を分かりやすく変換する必要があると思うんです。僕たちは僕たちの言葉を使っちゃいけないんです、日本人向けに絶対すべきなんです」

「『すべき』という言葉は使わないほうがいいんじゃないかな? もっとユアサさん、神さまとあなたの一対一の関係を大切にしなくちゃ」


 すれ違う思想に、もう僕はだんだんヒートアップしていかざるをえません。
 沈黙して俯くUさんはなぜか体育座りをして、悲しそうに微笑しておりました。
 日が翳っていき、夕方になっておりました。窓からは涼しい風が入ってきておりまして、少しだけ夏を感じさせます。

 ――そう、僕はこういいたかったのです。

 本当にFさん、あなたは本当にノンクリスチャンの人間と分かり合おうとしているんですか!? なぜノンクリスチャンがイエス様を信じようとしないのか、あなたは本当に考えているのですか!?


「僕は天国とか地獄とか正直どうでもいいんです。僕がキリストを信じたのは、全ての人間存在と精神とたましいが身分や地域や貧富の差をこえて、すべてイエス・キリストの贖いによって救済されると信じたからです。僕たちの役目は、彼らに少しでもイエスの愛を伝えることじゃないんですか……そう。しかし、僕たちの方法での布教は、単なる押し売りです。ノンクリスチャン向けに改変させる必要が絶対にあるんじゃないんですか……?」

「……」


 こういう感じでドストエフスキーやトルストイ論、遠藤周作などを引用したりして、まさしく生死をわかつ思想的なバトルを繰り広げたのですけれど、途中で年配のベテランクリスチャン(女性)も参画してきまして、もう僕は敗北を予感し、そして彼女たちに折れざるをえませんでした。すなわち、僕はここに男性と女性の価値観の相違を感じざるえなかったのです。
 僕はイエスの思想を語り、そして彼女たちはイエスをどれだけ信じているかを語る。
 ……年配のクリスチャンはおっしゃいました。


「わたしね、Fさんはイエス様の愛に首までどっぷり浸かっていると思うの。でもユアサさんは、この辺かな」


 年配クリスチャンは僕の足首を指さし、そして笑います。

(な…!?)

 僕はそのとき武士みたいにカッと怒りを感じたものです。僕はあなたの一万倍はイエスの考えとあるべき思想を追求しています……あなたは本当にイエスを理解しているのですか。キリスト教思想を学ぶ必要がないとかつて断じたあなたは、しかしキリスト教思想の一部であるキリスト教プロテスタントの一派に属しているんじゃないのですか。


「信仰っていうのはね、細かい知識はどうだっていいの。本当に信じればそんな疑問は感じなくなるわ」


 待ってください、それは本当ですか。では……神学者の全ては真の信仰者じゃないのですか……。
 僕は胸が痛くなりました。牧師さんと教義と信仰と異端と聖書の話を仲良く談笑するとき、じゃあ僕らは真の信仰者の振る舞いをまったくしていなかったのですか。必死で聖書の分からない箇所の注解書を引き、それでも分からないところを牧師さんに聞き、それでも分からないところを自分で考えて答えを出そうとする……自分でも健気だと思っていた姿勢も、まったく信仰者のあるべき姿じゃなかったのですか。

 そして年配クリスチャンは、ノンクリUさんはイエス様の愛に一滴も浸かっていないと微笑して言ったのです。あなたはちょっと外から傍観者っぽく見てるわね、と。Uさんは悲しげに俯き、こう言った次第でございます。


「えーと……そう見えるんですか……あはは」


 おそらくUさんにとってその言葉は心外だったのです。彼女は彼女なりに信仰をもっていたのです。そうでなければなぜ礼拝に毎週来て、つまらない聖書を毎日読んでいるのか。その彼女をしてイエス様の愛に一滴もつかっていないとは何事か、すこしの信仰努力をしていないと言うのは何事か。親にキリスト教の話をして眉をしかめられても教会に来るUさんの精神の、どこがその愛の水に浸かっていないというのか。

 そのとき僕はやはりUさんをフォローせざるをえません。この世の全ての優しき人間は、全員紛うことなきクリスチャンであると。


「潜在的クリスチャンはいっぱいこの世にいますよ。イエスのことを知らなくってもイエスの愛を実践している人間は多くいますよ」
「潜在的クリスチャン?」……




 これらの会話の前に、すでに牧師さんとの福音書討議をしていたのですが、それは置いておくとして、しかし今日は大変勉強になった次第でございます。
 今日ほど信仰とは何か、怒りと葛藤を感じた日はなく、僕は自分の信仰をまったく否定され、信仰努力の虚しさを感じ、しかし彼女たちのお勧めする信仰の仕方……すなわち祈り……も理解した次第です。今後はその辺を重点的にやっていこうと思いますが、しかし果たしてそれでいいのか。

 キリスト教的にみたらそうすべきなのですが、果たして……まさしく祈りと信仰はいまだに異文化なので、僕にはまだ分からないとしか言いようがなく、神さまの声を聞くというのはどういうことなのかも理解できません。
 自己の内面において神さまに疑問をぶつけたとき、結局答えるのは自分の良心であり、自分が想像する神の価値観であり、その答えをはたして「神の答え」と断言することはできるのか!

 僕は自宅に帰ったあと、メールをFさんに送りました。


「さっきはじめて自問自答ではなく、神に対して疑問をぶつけてみました。なぜあなたは人間を造ったのか。なぜあなたは主と呼ばれるのか。なぜあなたは我々を破滅させないのか。
 結局、神さまは答えてはくれませんでした。でも、祈りの先に悲しみがあり、祈りと悲しみの先に喜びがあるのを、なんとなく理解したような気がいたします」


 と……。Fさんはやはり優しい人間らしくアドバイスしてくれました。
5月5日

 今日は来年の夏に開催されるうちの教団の全国大会の予行演習……みたいなプレ大会(東北教区限定)が山形にあったので、教会の皆さんと一緒に朝の5時に出発いたしました。
 で、やはり僕は自身の祈りの課題をとうに忘れてしまい、いろいろその大会の不備だらけの進行っぷりにいたく憤慨した次第です。まさしく主に祈ることだけしかしない方々の、主にしか賛美せず、人間というものの性質と人間存在への賛美を理解しようともしない不思議な精神に……人事を尽くして天命を待つという言葉を思い出した次第でございます。
 主に対する賛美は人間に対する賛美と同義であり、一方のみの賛美は存在しないと最近悟り、そして主に対する賛美は「瞬間」に対する究極的な肯定だということも悟りつつあります。
 クリスチャンは未来を考えず、そして過去を顧みないのです。だからこそ彼らは現在の瞬間そのものを賛美するしかなく、「救われていますか?」という不思議な言葉を発するのです。

「救われていますか?」

 この破壊力ある言葉は、さすがの僕も「人間風情がなんたる傲慢さか!!」と憤慨しないわけにはいかないのですけれども……しかも「救われていますか」と発言する当事者は相手を救われていないと考えているのです。
 確かに……すべての未来を主に委ねることによってのみ、すべての思考と人間的行為を自身から切り離すことによってのみ、あるいは僕たちは「救われている」と断言することが可能になります。

 思考することを放棄し、いえ……「不満」やらなにやらの負の感情をもたらす思考を放棄することが特に僕らには求められているのですけれども、しかし瞬間の現状賛美からは何も生まれないのではないか!!
 過去と未来を切り捨て、ただ瞬間の容認のみを行う人間と化したとき――キリスト以外の存在がそのときすべてこの世から消失し、ただ栄光と賛美のみがその人間の内部において「事実」として宇宙を支配してしまう……。意思なき賛美を僕たち人間がうたったならば、自由意志をもつよう主によって造られた僕たち人間は、人間ではなく単なる植物や動物に成り下がる。それは主の否定でございましょう……。
 信仰にとってこのような思考こそ不必要な思考はないのかもしれないのですけれども、しかしやはり単なる現状肯定と現状賛美が信仰を強くするとは到底考えられないのです。思索なき人間は主に甘えているだけであり、少しでも主において対等に会話しなければ、決して主に「個」として認識されるに至ることはないんじゃないか……。

 確かに、主が僕たち人間を「個」として認めているという認識は、僕たちクリスチャンにとって欠かすことのできない信仰理解ですけれども、しかしそれでももし僕たちが主に「個」として認められることをあるいは放棄し、単なる人間的集団としてその辺の人たちと一くくりされてもおかしくないような……盲目的信仰をよしとするならば、それはしかし……結局は「個」としての救済を放棄することにつながるんじゃないか…
 内村鑑三が無教会主義を主張したことの意味がここにあるような気がします! 内村鑑三は読んだことないですけれど……!



 そんなわけで、色々狂信的なことを書いてしまいましたけれども、とにもかくにもそのプレ大会の粗雑な内容に、僕はこんなんで霊的成長が遂げられるわけがない!!と強く感じたというわけでした。
 そしてクリスチャンがただ現状を肯定し、現実を賛美することしかしていないから、こんな粗末な内容でも許される空気がキリスト教界で蔓延しているんじゃないかな、というわけでもありました。果たして、しかし主は……人事を尽くしていないであろうこの大会内容をどう思われているのか、といった感じでもあります。

 何よりもまず、クリスチャンたちよ、自分自身が人間であることを思い出し、人間の性質をよく思い出し、どういうメッセージが人間を感化することができ、どういう進行が一体感を演出することができ、……そして信仰をもたない人間のことをまず第一に考えよ!!

 正直信仰者にとって自分のことはどうでもよく(この考えこそ非信仰的だと非難されてしまいそうなのですが)、ただ未信徒の救済こそが僕らの使命であると考えられてなりません。彼らが何を求めているのかよく考えるべきであり、参加者の9割9分がクリスチャンとはいえ、残りの1分のノンクリスチャンのためのメッセージを蔑ろにするようなことがあってはならない!

 主とともに歩むことを決意した人たち、どうか起立して賛美しましょう、とあなたがたが叫んだとき、我関せずといった素振りでぼうっと着席しつづける人間たちがいたことをあなた方は決して忘れてはならない。それはあなた方のメッセージに問題があるからである。あなた方が、ノンクリスチャンにとって決して共感不可能なメッセージを流し続けたからである。あなた方が、おそらくノンクリスチャンより自分のほうが優れていると考えているであろうことが、ノンクリスチャンに伝わっているからである。……
5月7日

 ムックを聞きながら旧約聖書の「ヨブ記」をついに読んでいるのですが、これがやはり旧約中もっとも読むべきとされている書だけあって物凄いですね……。まさしく信仰者の内面の真実をヨブが苦痛と煩悶のなかで語り、それに対して祭司っぽい友人が反論をし、そしてヨブがまた反論する……という構成。

 実のところヨブは神に唯一認められている人間で、「ヨブのほかに義人なし」みたいなことを神さまは言っているのです。それを聞いたサタンが、「しかし神よ、それはあなたが彼を祝福しているからだ。彼の財産を全て没収し、息子と娘を全員殺し、そして生きるのにも苦しい腫物で全身を覆えば、きっと彼はあなたを見限るだろう」

 で、神が「よし、やってみよ」みたいな感じでサタンの行為を許可し、ヨブはまさに地獄の淵へと叩き落とされていくのです。いきなり家財が全て強盗たちに奪われ、家が崩れて息子と娘が全員死に、そして頭の先からつま先まで悪性の腫物で覆われて、その精神的肉体的苦痛は妻が「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか!? さあ神をのろって死になさい……」と言うレベル。
 しかしヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と呟いていまだ自殺せず。ユダヤ社会から放り出された彼は灰のなかでうずくまり、全身を土器の欠片でかきむしり、ただ呻いて暮らしていたのですけれど、そこに彼の親友2人がやってきて、彼との問答を開始するのです。


ヨブ
「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか」
「なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。死を待ち望んでも、死は来ない」

 ヨブは親友を目の前にして、はじめて自身の苦痛を淡々と述べていきます。自分の生命を呪います。なぜ自分は生きているのか、なぜ神は私を生かしておくのか。ああ早く死にたい…!

友人エリファズ
「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか」

 エリファズはヨブに罪を認めさせようとします。そして罪を認め、悔い改めればきっと神は赦してくれるだろうこと(腫物が治る)を言い、罪の告白を促します。しかしもちろんヨブは罪を犯していないので、なんかこう、ヨブは苛々してくるのです。

ヨブ
「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の流れのように」 「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ!」

 で、再び自身の生の苦痛を語りはじめます。

ヨブ
「横たわるとき、私は言う。『私はいつ起きられるだろうか』と。夜は長く、私は暁まで寝返りをうち続ける。私の肉はうじと土くれをまとい、私の皮は固まっては、またくずれる」
「私を見る者の目は、私を認めることができないでしょう。あなたの目が私に向けられても、私はもういません」
「私はいのちをいといます。私はいつまでも生きたくありません。私にかまわないでください。私の日々はむなしいものです。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」
「いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか」
「あなたが私を捜されても、私はもうおりません」

 そして感情が昂ぶってきたヨブはついに、神への弾劾をはじめます。

ヨブ
「私は潔白だ! しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる
「にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。地は悪者の手にゆだねられ、神はそのさばきつかさらの顔をおおう。もし、神がそうするのでなければ、そうするのは誰か!


 と、この辺まで読んだのですけれども、まさしくヨブ記を読んでいると、ノンクリスチャン的友人との会話を思い出します。すなわち峰Fさんか河戸さんだったかもしれませんが、「地獄へ行くことの自由があってもいいじゃないか。なぜ我々は救われることを強制されなければならないのか」みたいな問いを、ヨブはまさしく感じているのだろうなと思います。

 この世の無常を思うとき、やはり救済を願う心というのは一種の虚しさであるのでしょう。根拠のない救済ほど無価値なものはないように感じられます。ヨブは今まで信じていた根拠がドンガラガッシャンと崩壊するのを感じ、神よ、私を見捨ててくださいと自身の地獄行きの自由を獲得しようとしている……。

 というわけで、ムックとヨブ記は相性がいいっていうことを思いました。今まで聞いたことがなかった「死して塊」「僕が本当の僕に耐えきれず造った本当の僕」が結構良曲だということを発見し、やっぱムックは……色々すごいなって感じですね! もうほんと、ここまでのネガティブな悔い改め的ソングはクリスチャンだなって感じです。
5月11日

 ポップ路線に移行してからのムックの人間賛美は、まさしく逆路線を攻めていたムックならではの必死さがあり、……という感じで、昨日今日とヨブ記をお休みしてジャン・カルヴァン――ルターと並んで宗教改革の旗頭となったような人――の「信仰の手引き」を読んでいました。

 これが小さな見出しがいくつもあって、その見出しに掲げた物事についてカルヴァンが定義していき、信仰とはこんな感じですよ……とカルヴァンさんの意見がみれるというわけですけれども、その見出しだけで相当思考が深まるような感じなのです。

 もう冒頭の聖句の引用が渋くて、

「もし誰かが語るのなら、それは神の言葉であってほしい」

 というペトロの手紙第4章11節を引用していて、まさしく「あってほしい」という断定ではなく嘆願かつ祈願であるところにカルヴァンの謙虚さ、昨今のクリスチャンには見られない真のクリスチャン的へりくだりが見られるような感じでございます。
 
 で、

・真の宗教と偽りの宗教とのあいだにはいかなる違いがあるか
・神についてわれわれは何を識るべきであるか
・人間について
・自由意志について
・罪と死について
・真の信仰とは何か
・悔改めと新生について
・善行の義と信仰の義とはどのようにともに整合するか
・希望とは何か
・祈りについて
・破門について

 とかを、1つ1つの見出しについて大体原稿用紙4,5枚ぐらいで語っているのですけれど、ほんとこの見出しだけでいろいろ思うところがあるレベルですよね。

 ただカルヴァンが人間の自由意志を、罪と悪の性質に瞬間的に同意してしまう人間の肉体の弱さを理由に否定しているところが僕としてはたまに疑問だったり、あるいは彼の予定説における救われるものと救われないものがすでに生前から……この世が出来上がるまえから……決定しているという説にも疑問だったりします。

(しかしこの予定説は、この世での社会的成功者=神の祝福を受けている人間という説ではなく、ただ単にキリストを信じる者、信じない者という2種類の人間がこの世にあることの説明としての説なので、その辺が社会的成功を目指して邁進するカルヴァン主義たるピューリタンの理解とカルヴァン本人の理解に食い違いがあるように見られます)

 であるけれども、しかしやはり聖書を読むだけでは考えないようなことを考えさせてくれるので、やはり信仰書というものは参考になるなって思いました。

 特に人間理解についてなお深めさせてくれたような感じで、すなわち我々人間が厳正に自己の客観的評価を下すとき、もしそこに善や正義の性質しか見ず、悪なる罪なる者としての性質を見ないのであるならば、その人間は限りなく偽善者に近いということ。
 罪悪の塊である我々人間の、その性質を真に理解するならば、まさしく我々は自分自身の正義や善を誤りあるものとして受け止めざるをえず、自己自身の徳と義を放棄せざるをえない。そして、その代わりに神の義、あるいは真理を理解しようとする謙虚な心のみがわれわれの中にあるべきである。

 だが、人間は真に神の義を理解できようはずもない……。そこで、われわれはただキリストの愛を信じることによってのみ正しさを主張することができ、われわれの行為はその愛を信じているという良心からの発露である限り、それがたとえ誤りあるものであろうと、しかし神は慈愛と赦しに満ちた暖かい眼差しをそそいでくれるであろう……みたいな自分の信仰理解を若干補強してくれるようなカルヴァンの論だったなって感じです。

 まさしく問題は、自分自身の神の義に対する理解と、その行為とが、決して本来的には神の眼にかなうものではないとする理解です。この理解が欠けたとき、われわれは神から離れざるをえない。クリスチャンたちはこの点をよく考えるべきですよね。
5月14日

 小学生から高校生にかけて10回以上は読み返したであろう『ハーメルンのバイオリン弾き』全37巻を、友達からデータとして頂いたので完読したのですけれど、もうほんと相変わらず泣ける漫画でした……。このMADとかをみると、ほんとハーメルって古き良きファンタジー漫画だなって泣かざるをえません。

 確かにわかります! 皆さんのおっしゃりたいことは確かにわかります!
 確かに……その紙面から、きっと作者は「描きたいもの」を描ききれていないことに苦悩しているんだろうな、というような小さな寂寥感……いわば作者の力量不足はものすごく感じますよね。
 しかしながら、とにかくその「描くべきもの」という理想的テーマだけはひしひしと伝わってくる、作者の熱意と精神にあふれた漫画なのでございます。自分としてはちょっとそこを評価したいと思っている次第でして、本当にここまで自分の「描きたいもの」を追求した漫画は少年漫画にはあんまりないんじゃないかと思わざるをえないというわけですね。

 個人的には少年漫画の名作として後世に語り継いでもぎりぎりいいんじゃないでしょうか、と慎重な視線を周囲に送りながら大胆な発言をしてしまいたいぐらいなのですが、とにかく、そう本当に……描くべきものは間違っていないよ、と作者をねぎらいたい一心でございます。確かにキミは、キミは……一発屋だけれども、しかし書きたいことは正しかった、と。キミは間違っていない!


●よかったところ

 キャラクターたちが悲惨な眼に合うところ。
 これはもう外せませんよね。

 そう、やっぱり文学的漫画で描くべきものといったら、それはまず主人公たちキャラクターの受難。
 死ぬほど悲惨な眼にあわせなければハッピーエンドの意味がない、ということを作者さんはよく理解していらっしゃるようで、まさしく死ぬほど悲惨な眼に合っているかのような雰囲気がよく伝わってきます。血みどろ、串刺し、四肢が吹っ飛んだり骨折、失明、気管を裂く、等ほんとう頑張っております。

(しかしあくまで雰囲気であり、いわばカムイ伝のごとき『どうしても救われない』悲惨さを表現することに躊躇いがあるという意味で、作者の力量不足を感じます。しかし『救われない』悲惨さというのはハーメル作者のテーマと相容れないものなので、作者がいかに拘泥している自身のテーマを放棄し、普遍的美的感覚を追求できるか、というのが作者のハーメル以降の課題だったような気がいたします)

 そんなわけで、どういう感じで悲惨かをちょっとだけ説明するために、悲惨度のまあまあ高い主人公ハーメルの境遇を簡単にご紹介したいと思うのですけれども……つまるところ主人公のハーメルは魔族と人間の相の子なんですね。
 幼い頃の性格は普通に人間的なのですけれども(成長してからはギャグキャラ的な性格が強い)、頭に角が生えておりまして、それで人間社会で育った彼はトラウマ的な――自分の母とともに大衆から寄ってたかってぶん殴られたり、石を投げつけられたり、魔女裁判的な――迫害を受けている。

 実際過去話になると結構泣ける話になるんですけれども、色々あって幼いハーメルは憤怒のあまり自分の村の人々を皆殺しにし、親友の親とかを普通にぶっ殺しちゃったりなんだりしている次第でして――その昔話に触れられるとほんと怒髪天を突く勢いでハーメルさんが怒るんですね。その辺の逆ギレ的な怒り方がちょっとリアルで、なんとなく悲惨さを理解する次第です。
 そんな感じで、ハーメルはギャグとシリアスを混ぜながら大魔王ケストラーを倒すために北の都へと旅しています。

 一方ハーメルの双子の妹のサイザーは天使で、白い翼を背中に生やしております。
 サイザーさんはハーメルと逆の環境、すなわち天使なのに魔族の連中によって育てられ、魔族の命令で6歳ぐらいから国を滅ぼしまくっているというある意味最強主人公的存在。人間たちからは「ハーメルンの赤い魔女」とかもっともらしい名前で呼ばれているんですけれども、実のところサイザーは裏で魔族の殲滅を図っている、という設定。
 このサイザーという天使にも関わらず悪魔的環境で育てられているキャラクターの、環境に左右されないその本質的な「善性」の発露がちょっと説明不十分であるように感じられますが、しかし殺人者サイザーさんの贖罪に関する苦悩・葛藤はえんえんと語られまくるので――「裏切り者」と人間側からも魔族側からも罵られ、サイザーさんの胸に響いて自殺したくなる感じです――、少年漫画としてはオッケーのような気がします。


 ――と、そういう感じで登場する主要なキャラクターたちの悲惨さアピールはばっちり。
 アピール話がすこし唐突だったり、くどかったり、甘ちゃんだったりと減点対象になりかねないところもあったりするのですけれど、少年漫画としてみた場合及第点どころかゆうに合格点に達していると言える気がします。最近の低年齢化著しい少年漫画の水準を大幅に超えていると断言できるのではないでしょうか……。


 ほんと十年ぶりぐらいに読み返してみて改めて思ったのですが、ハーメルはやはり『キャラクターの受難』という要素において突出しているんですね。魔女裁判とかそういう類の、罪なき者・咎なき者たちが無残にも大衆に裁かれていくという悲惨さがよく表現できていて、西洋風(?)ファンタジーとしてかなり立派。
 むしろここまでキャラクターを悲惨な眼にあわせる少年漫画は稀有じゃないかっていうぐらい泣ける話が出てくるので(『リュート物語』の殉教物語はまさしく作者の魂がこもっていましたよね)、その文学性に太鼓判を押したい感じです。

 特にキリスト教を作者がかじっているところ(おそらく)、これが強みですね! その辺の感性がもう泣けて泣けて……。
 ヒロインのフルートが初登場時、震える手で十字架をモンスターにかざして子供を庇うところ、あるいはフルートの背中に十字架の痣がついているところ、キリスト教的な国の女王様が、血を吐きながらキリスト教的な祈りを吐くところ――こういうある種悲しいまでに宗教的な、殉教的な示唆はクリスチャンにとって泣けるポイントでございます。

 あと殉教かどうかは分かりませんが、ジャンヌ・ダルクをモチーフにした悲劇や、磔にかかったキリストをモチーフにした絵が縦横無尽にページを支配し、キャラクターたちの悲哀をかもし出しすことに成功しております。まさに無力のみ、死ぬのみ、みたいな感じで死にまくる人間たち…



●悪かったところ

 シリアス話に突如組み込まれるギャグが散漫かつ冗長に感じられるところ。

 序盤のギャグ重視の展開ではギャグがなくてはハーメルは存在できない、というぐらいギャグは重要な要素なんですけれども、物語が佳境に入ってからはキャラクターが増えすぎてギャグの掛け合いがちょっと鬱陶しくなってしまいます。
 話が軌道にのってきているので、もはやそれほど大量のギャグはいらない……という感じなのにも関わらず、どういうわけか執拗に詰め込んでくるギャグ。そもそもこのシリアスなノリに突如挿入されるギャグは作者の自信のなさの表れなんじゃないか……とさえ勘ぐってしまう始末です。あまりにも物語が王道的展開に終始しているので、ある意味ギャグという気分転換がないと読者がついてこないと作者自身も思うところあったのかもしれません!

 そう、すなわち作者にはこの「王道」というものをいかに自分なりにアレンジしていくか、というのが求められているのですが、シリアス話を作るときハーメルの作者はどうしてもオリジナルな要素を取り入れることができなかったようで、そこに作者の弱点を感じました。
 ギャグのほうは現代にも通じるほどセンスがいいので、おそらく漫画をこのまま描き続けていればギャグセンスだけは衰えなかったと思うのですが、しかしハーメル以降連載に恵まれなかったため、きっとハーメル第2部では旧態然とした古いギャグを描いているんだろうな、と想像してしまいます……



●まとめ

 そんなわけで、ハーメルは総合的にみて名作クラスの漫画なんじゃないかなって思った次第です。センスは感じられるのですが、すこし独りよがりなところもあるので、その辺編集者が大衆に歩み寄ることを教えてあげるべきだなって痛切に思いました。

 話の本筋はシリアスダークな人間VS魔物の王道ファンタジー。だけれども、シリアスの合間にはさまれるギャグ展開が作者の作者性を強く発揮する出色の作品。
 上のMADを見るとこれにどうやってギャグを組み込むのか謎になってきますが、しかしそのシリアス的価値観を破壊する2次創作的ギャグを平気でやってくるので(悲惨の象徴たるハーメルの魔族化さえもギャグになる)、まさしくハーメルは実験的作品として評価すべき――『ロトの紋章』『パッパラ隊』『パプワくん』『グルグル』など異常な熱気を保っていたガンガン最盛期をまさしく代表する作品といえるでしょう。

 そして破壊的ギャグと重厚なシリアスの混在、その前衛性を超えたところにあるハーメルのファンタジーとしての貴重性……。いわば僕たちの世代の王道的ファンタジー……これがいかなるものだったか、というのを後世に残すためにも、同じガンガンからは『ロトの紋章』ではなく『ハーメルン』を推したい……そのオリジナリティゆえに! という感じです。

(ジャンプを含めたらやはり『ダイの大冒険』に軍配が上がらざるをえないと思いますが)

 願わくは、シリアス展開にも作者性を獲得できたらな、というところなのですが……つまるところ設定と演出以外の本質的な深みをもうちょっと追求してほしかったのですが――しかしハーメルは少年漫画としての王道を有しているからこそ感動するかもしれませんので、青年漫画ではないハーメルの場合はこれが正解だったのかもしれません……。逆にだからこそ、ヤングガンガンという青年誌で掲載しているハーメル第2部がどんな出来になっているか、ほんと読んでみたくございます!
 「ハーメルンのバイオリン弾き」ではふんだんに盛り込まれていたクラシックを第2部ではどうやって取り入れるのか、ギャグはどうなっているのか、シリアスは存在するのか、そして少年漫画以上の深みを有した物語となっているかどうか。具体的にいうと、主人公ハーメルの悩みは基本的に迫害されることと父親に対する恨みだったのが、はたして第2部の主人公はそれ以外の悩みを獲得しえているかということ。


 そんなわけで、むしろハーメル既読者はこっちのフルートのコスプレMADのほうに何か郷愁的感動を感じると思いますので、こちらもおすすめでございます!




追記
 なんかハーメル・フルート、ライエル・サイザーの結婚生活を描いた読みきりがあったらしいですね。ハーメルがパチンコで散財して借金取りに追われ、フルートが「働け!」と怒ってたりするらしいので、マジ面白そうだな……ってそのSS的性質に感慨深く思いました。
 そして第2部の第1話をヤングガンガンの公式ページで立ち読みしたところ、本当に薄っぺらい内容っぽいのでびびったということです……。小さな子供が主人公っていう時点でやばいです。青年誌でやる必要がないのではないでしょうか!
5月15日

 ハーメルのアシスタントの人がブログで「ハーメル回顧録」を書いてたので読んでみたのですけど、まさしくその通りだなって感じです……

 以下が引用!


ーーー

5巻になるとかなりテンション上がってきていて、感情大爆発という感じですが、ナベ先生が編集さんに言われたことが。

「よくこんな恥ずかしいこと、照れずに描けますね」

言われたとき、何のことだか分からなかったそうです。確かにこの王道の展開、このハイテンション。描くには照れてしまいかねない。そういうセリフもたくさんありますし。でもナベ先生いわく、「恥ずかしいことだなんて、全然思ってないのに」

結局、これは熱血なんだと言い聞かせなきゃいけない人には熱血は描けないし、王道を恥ずかしいと感じる人には、王道は描けない。描ける人は素で描ける。それが才能なんだと思います。

よく才能を語るときその多少を語りますが、あるなしよりも、才能の「色」をもっと重視した方がいいんじゃないかなーと思うのです。ナベ先生の才能の色は、「王道の展開、無理矢理なギャグ」に向いていたわけで。放っておいてもそうなっちゃう。それの結晶がハーメルンのバイオリン弾き。

ーーー


 だからハーメル以降売れないんですよ、渡辺先生! って感じのことをどうしても思ってしまうのですけれども、つまるところその「王道」路線の限界……みたいなものですよね。あと作品の客観的評価がいまいちできていなさそうな発言を見てみても、やはり独善に陥りやすい弊害が見え隠れしている……みたいな感じです。

 王道というのはハーメルのギャグのように何かしら個性をもって味付けしなくてはならないと思うのですが、同じ「王道」にこだわっていたらやはり全てハーメルの二番煎じとしか言いようがないのです。そしてハーメルのシリアスとギャグのバランスはまさしくデビュー作としての自由な感性による奇跡的バランスで成り立っていると思いますので、ハーメルみたいなものをやろうと意識的に次回作をやっても出来るわけがない……。

 一作目が売れた漫画家というものは小説家やギャルゲー業界の人と全く違って、次の作品では――もう一度謙虚になるためにも――前作と毛色の異なるものを描かなければ生き残れないんじゃないかなって思います(GS美神の椎名さんも横島から脱却するのに苦労しましたよね)。スラムダンクからバガボンドへと華麗に転進した井上雄彦とかまさしくうまくやったなーって感じですけれども、そのためにも「描きたいもの」という引き出しが多くなければならない。
 渡辺道明が一発屋で終わった理由は本当にこれに尽きますよね。つまるところ、本当にハーメルで描きたいものを描き尽くしてしまった……という。世界名作劇場とクラシック、この2つを描いたら何も残らなかった……というのはおそらくそんなことないのでしょうけれど、しかしおそらくそんな感じなのだろうなって感じです。


 さらに付け加えるならば、渡辺道明の才能の「色」をこの元アシスタントの方は「王道の展開、無理矢理なギャグ」と評しましたが、しかし自分としては「無思考かつ瞬間的な物語展開」という感じかなって思います。
 王道の展開は決して渡辺道明の才能の色ではない……なぜならばハーメルで使い果たしたその才能はもはや無用の長物だからである……と声を大にして言いたくてございます。

 渡辺道明は、ハーメル初期でそれが成功しているように、おそらく考えて漫画を描くべきではないのです。考えるとどうしても作品に個性がなくなり無味乾燥な味気ないものとなってしまうので、考えずに描いてその可能性を編集者が広げていくしかないんじゃないか……!
 そうすれば、あるいは意図せずして「王道の展開、無理矢理なギャグ」というハーメル的才能をもう一度使える可能性も出てくるかもしれませんし、……とにかく渡辺道明の瞬間的な発想力みたいなものをもっと才能の「色」として扱うべきじゃないかな……と思った次第です。

 ほんと、第2部の2話以降を読んでみたいです……。



※追記

 ハーメル回顧録を全部読んだのですけれど、アシスタントの方が最後こういう風に総括しておりました。

ーーー
全体として眺めてみると、「ハーメルンのバイオリン弾き」という作品は、知る人ぞ知る、という世間の評価で。アニメが上手く行かなかったこともあり、ミリオンセラー級メガヒット、というわけには行きませんでした。

さらに言えば、ナベ先生のスタイル、ギャグとシリアスを極端に混ぜている事が、評価を真っ二つに。弟子の僕が言うのもなんですが、ナベ先生は正直、アーティストのタイプじゃないし、テクニシャンの系統でもない。突っ込もう、揚げ足取ろうと思ったら、隙だらけです。

お話としても、途中、中だるみが起きている感は否めません。

でもね。近くで見ていたからというだけではなく。この作品には、そんな弱点を補って余りある物が込められていると思うのです。

どれだけ、漫画に対して純粋でいられるか。

どれだけ、自分の作品を愛して、誠実に向き合えるか。

それは好きな人にとってはかけがえの無い物となり、その作品をその人にとって、唯一無二の物にすると思うのです。

テクニックは確かに大切だけど、それだけじゃない。込められた魂が重要だ。魂と魂が惹かれあったとき、作品と読者との間に、固い絆が生まれるんだ。

そういう事を感じさせてくれる作品でした。
ーーー

 まさしくハーメルはその通りだな……って感じですよね。いわば素人的な感性とさえも言えてしまうかのような漫画に対するあまりにも一途な姿勢。
 その一途な姿勢を変化させ、描きたい漫画を描くのではなく、上手い漫画を描くようにならなくては漫画家として致命傷だと思うのですが、しかしハーメルの精神性(文学性)における名作としての価値は、いわば現代のオタク的感性に毒された人間には決して描けないという意味でかなり重要ですよね。そしてその精神性というものが手塚治作品のように一般的文学に密接に結びついているのではなく、まさしく作者という一人間の内面にのみ深く結びついているというところに重要な価値と示唆と発見があり、また作者の作品がハーメル以外全く売れないという理由がある。

 ほんとうに渡辺道明はハーメル以外描くものがないんだろうな……、とこの総括のコメントを見て思い、なるほどそれはそれで本気で頑張ったのだからいいのかもしれない、と思ったというわけでした。
5月17日

 今日の礼拝で、結構重要なところのお祈り(日本の救い、世界宣教のための祈り)をはじめて牧師さんに指名されたのですが、後で老齢のクリスチャンの方が柔和の微笑を浮かべながら「あなたのお祈り、とっても良かったよ。しっかり勉強してるんだねえ」と褒めてくれましたので、これがまた恐縮するばかりでございます、とお殿様に土下座してひれ伏すという感じでひれ伏してしまいました。

 まさに塾の行き帰り、自転車に乗りながら颯爽と主の祈りと使徒信条と個人的祈りを無限ループで呟いていたお陰だなって思うのですが、しかしやはり自分の一番の関心が全世界におけるノンクリスチャンの救済(≒全人間の救済)なので比較的本心から祈りやすい、というところもありました。

 あるいは峰FくんやO山さんやらといつもキリスト教のお話をさせていただいているお陰でもあります。彼らノンクリスチャンはイエス・キリストの存在こそ知っておりますが思いは知らず、そして思いを知られてもイエスの愛を信じる意義を見出せない……。われわれクリスチャンは主イエスの存在ではなく思いと愛を知らせ、そして彼らの良心の葛藤や、罪を行ってしまったことの罪悪感からの解放を――そして存在としてのまったき救済を願うのみなのでございます。



 で、お祈りを継続してなんとなく分かってきたのですが、お祈りというものは無為に呟いても全く意味がなく、まさしく主が眼前に佇んでいると想定しながら主に対して言葉を投げかけることが重要なんですね。
 主よ! と決して応答しない主に向かって、しかし主よ! と呼びかけることに意味があり、その訴えに具体性が加味される。つまるところ現実感をもちつつ、身体性を維持しつつ、ある種の観念的真理に肉薄することができる……。

 呼びかけを意識しないと、自然と声が小さくなって内面にこもってしまい、それはえてして他者に理解されない独善的祈りに陥ってしまいます。お祈りというのは、ある意味神さまと、そしてその場に同席している人間たちに聞かせるための言葉でもあるのです。
 祈りは一人で祈るものではなく、すべての存在とともに祈るものであり――この世の全存在が神に向かって叫ぶ賛美であり――それを代表してわれわれ個人が祈るのであり――そのためにも神を崇める存在としての一体感を重要視すべきだ。というようなことを思った次第でございます。



 相変わらず社会から隔絶している日記で、何をして生きているのか自分でも謎になってくるのですが、今日はそんなことを思ったというわけでした。

 あとノンクリスチャンの学生が部活があるにも関わらず礼拝を休まず、7時半から早朝礼拝をしたことに対して尊敬の念を禁じえなかった……というところです。学生のうちからそこまでの信仰をもつことのできる一般人は、やはり文学好きなだけあって神秘的な精神世界を好むんだろうな、という感じでございます!
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