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3月18日

 今日も必死に自転車を40分乗り回して塾に行って参りました。
 珍しく自分に高校数学が回ってきてしまったのですが、ほんとあまりの懐かしさに魂が抜けたように感じられます。乗法公式とかいう言葉を聞きますと、江戸時代ですとかエジプトですとか古代中国……そういうイメージを喚起するような語感だなって感じですよね。

 でもやっぱり自分は数学を本質的に理解していないので、教えにくいことこの上なかったです。本音ではもはや暗記しろ、としか言いようがありませんよね。


 しかし毎度毎度塾で中学生と話していて思うのですけれど、中学生を見ていると、人間ってほんとすごいな、レベル違うなって思います。
 いわば彼らの行動に人間賛美の可能性を見出さざるをえなくなっていくといいますか……君たちはどうやってそんな微笑ましい行動を取ってるんですか……僕にもその秘訣を教えてください、とそう尋ねたくてたまらなくなってくるのです。
 彼らの微笑ほど、彼らのはにかみほど、真に人間らしい表情……理性と感情が絶妙に配分された無意識の笑顔はございません。

 赤子の笑顔に少し恥じらいを入れてみましたという表情は、きっと中学生じゃなきゃありえない!



ーーー
 そんなわけで、なんと明後日に知人の洗礼式がありますので、塾をお休みして参加してきます。
 もう今から死ぬほど楽しみです……一体どんな信仰告白を聞けるのか……後学のためしっかり勉強してこようと思います!
3月19日

 今日塾に行く前に『ホームレス中学生』をちょっと立ち読みしてみたのですけれど、すごいですね……その面白さに、こりゃあ売れるわけだ! と納得いたしました。ほんとあまりに共感的なつくりになっていて、しかもプロットが興味深いので、すいすい読んでしまうんですね。
 文体としても素晴らしく……簡潔でいて叙情的でもある、本人が書いたのを編集者さんがきっと手直ししたと思うんですけれど、これこそライトノベルのあるべき姿かもしれない、としみじみと思ってしまう感じです。

 創作のヒントを獲得したので、ちょっとまたライトノベルを書こうかな!
 もう少し肩の力の抜けた、読者に話しかけるようなものを……
3月24日

 クラシックを聞いていますと、いかに作曲家たちが音楽によって神を表現しようと苦闘してきたか……その歴史を眼前に見るような思いがいたします。
 日本の雅楽の場合、どこか自然の大きな沈黙を思わせる音色を感じる気がしますが、クラシックの場合、バロック音楽ですと神(時に人格さえ有する創造者)への賛美と畏怖がその基調にあるような気がします。
 そして古典派に行きますと、音楽そのものが《神》の慈愛や悲しみや喜びの表現となり、ロマン派になると今度は人間の内面の神秘に触れ始め、その内面が神へと繋がっていることを証明せんとするような……

 そんなふうなことを疲れ果てた無の境地で思ったという感じですね!
3月29日

 今日の礼拝には帰省先から戻ってきた学生さん2人が参加しておりましたので、久しぶりに価値観の似た同年代の方たちとお話しすることができ、本当に満足でした。

 塾の講師さん方とのテンション高めの表面的コミュニケーションも面白いといえば面白いのですが、お話したあとに特に残るものがないっていうのが残念なんですね。その点教会関係の方とのお話は物凄い参考になるものがあり、僕はもう胸をわくわくさせて耳を傾けるしかありません。あ、これ後で使えるな……ってもうほんと、メモ帳に書き留めたくなるレベルです。


 たとえば先日教会の方の旦那さん(ノンクリスチャン)が、闘病生活のすえ膵臓ガンで亡くなられたのですけれども、葬式やらなにやらに関して因習にとらわれている親戚・ご近所とその奥さんが色々悶着を起こしたらしいのです。奥さんは、その際の状況を演技してお話してくれるのですが、それがもう面白くて面白くて……。

「息子と娘が私に言うんですよ、『牧師さんが焼香したのになんでお母さんはしないの。お母さん冷たいんじゃないの』って。私それ聞いて、『あ、それが信仰なのかな。それが証しになるのかな』って思って念入りに焼香したんですけれど……先生(牧師)焼香してないんですってね! あっはっは」
「いやー、こうやって手を組んでお祈りしたんですけれど、後ろから見ると確かに焼香してるふうに見えたのかな!」


 ――旦那さんが亡くなられたのにその奥さんは元気一杯。
 確かに世間から見れば不謹慎とも見られてしまいますが、キリスト教的に見ればそのうち天国で会えるので(旦那さんはノンクリスチャンなので、その辺がかなり危険な領域の話題になりますが)、特になんとも思わないのかもしれません。

 僕はそういう「天国で会えるから」という意味でなく、仏教的な無常観からその気持ちを理解できるのですが、とにかく世間体を気にする人たち(?)は近しい人が死ぬとここぞとばかりに嘆き悲しみますよね……。いつか死ぬのに、なぜ今死んだからといってそんなに悲しいのかなかなか自分には理解できないのですけれども……、ここになにか他者への精神的依存を垣間見てしまう気がいたします。
 以前文芸部時代にそんな「死に向き合う」というテーマのもと頭のおかしな小説を書いた記憶がありますが、ほんと、人間はちゃんといつか事故や病気で死ぬってことを頭に入れておかなきゃ駄目ですよね!


 そんなわけで、キリスト教は基本的に焼香とかしちゃ駄目らしいのですが、自分はなぜ焼香をしてはいけないのかわからないので、心の中で軽く反発してしまいました。
 信仰は形に宿るものじゃない、人間の行為に宿るものじゃない、ただ精神に宿るのみじゃないか。死者を慰めるためだけでなく、その場にいる参列者を慰めるためにも焼香ぐらいはしてもいいんじゃないか……焼香という形式的行為が信仰を否定したことになるのなら、そもそも信仰とは何ぞや、いたずらに周囲の人間の反感を買うことが本当にキリスト信仰を守り伝える上で重要なのでしょうか……。

 とまあそんなことを考えながらお話をお聞きして、これは小説的だな〜、かっこいいなーってその奥さんの頑なな信仰を、小説の泣けるエピソードに変換して楽しんでいたのです。

「お願いだ。○○さん。どうかそれだけは我慢してくれ」

 奥さんはもう、親戚との付き合いに嫌気がさしているので、夫が亡くなったことを契機に家を出ようとしているらしいのですが、それを泣きながら制する親戚さんの……因習にまみれているからこそ恐ろしいほどまでに日本的な涙。

「私はね、お父さんに(旦那さんに)お線香も上げないし、○○もしないし、××もしないし、本当に徹底してるのよ、あっは。でも焼香だけはあげちゃって、もうほんと悔しくて!! あっはっは」

 奥さんの信仰心。そしてそれを聞いてぎこちない笑みを浮かべる周囲の教会の人たち……。僕は普通に奥さんの調子に合わせて大笑いしてしまうのですけれど、周りの人たちは皆慎ましやかな、本当に謙虚なキリスト信徒なので、やはり曖昧な微笑を浮かべるのみなのです。ああ、主よ! 他者の心をいたわる人間の、なんと繊細な優しさか。ガラス玉のように透明で、その向こう側が透けて見えるかのような、なんとはかない優しさか……。ああ、主よ。



 で、若い学生さんとお話することができ、ほんと癒されたなって感じでした。自分はやっぱりまじめな人間の部類に入るんだな、こういうまじめで控えめな人たちと静かに話を交わしていると、まさしく対人コミュニケーションにおける精神的疲労が軽減されるな…って思いました!
3月31日

 教えるという行為はかつて何かに教えられたものの再表現であると思うのですけれども、講師をやっているとふとした時に中学時代塾で教えてもらったときの情景がトラウマみたいに脳裏をよぎるんです。
 そう、昨日「二毛作」という単語を社会のテキストで発見した瞬間、「二毛作の開始=鎌倉時代」「二毛作の普及=室町時代」という塾で得た知識と映像がフラッシュバックしてよみがえり、なるほど……今度は自分がこれを教える番なのかあって、あたかも故人を偲ぶように感慨深く思い、涙いたしました。

 塾の意味というものは、生徒に対していかに自学して得られる以上のインパクトある記憶を残すかという一点に尽きると思いますが、自分も清新な感覚をもった中学生の記憶に残る価値観や考え方を教えていかなくちゃなって思った次第でございます。
 とくに文学方面の知識をなんとか伝えていかなくては……と伝道者のように生徒と話しながら虎視眈々と狙っているのですが、なかなか「こいつはいけるな」っていう生徒がいないんですよね。ポケモン実況動画とかにハマっているニコ動中毒のオタクは何人かいるんですけれども、お前なにやってんだ、オタクならポケモンの前にエヴァだろ、エヴァの前にああっ女神さまっだろ! 女神さまっの前にサザンアイズだろ!! ってほんとポケモンの説明を笑顔でしてくれるその子の……純真無垢な瞳をじっと見つめながら真顔で冷静にポケモンを否定してしまいそうになってしまいます。


 で、一応結構頭の良い生徒に国語の宿題として司馬遼太郎の『新史太閤記』を貸して読ませているんですけれど、これからの詰め込み作業を考えるとほんと楽しみであると同時に空恐ろしいですよね。
 いかに自分好みの文学的価値観を植えつけることができるか。理想とする人間を育成しようとするとき、これは本気で恐ろしい行為だな……パパはのんきにパパじゃいられないなって腕を組んで唸ってしまうレベルで思います。
 というのも、自分が理想とする文学青年は明らかに自殺とかしちゃうので、おいおい、これは結構すげえことになっちゃうよ…って固唾を飲みながら、しかしそういう人間を作ってみたい! とにかく「人間は餓死すべきだ」とか「社会主義は理想としては悪くないけど、しかしマルクスの価値観を実現するためには…」とか言って同級生をにらみつけるような人間を作ってみたい! ……というこの葛藤が半端ございません。

 そんなわけで文学は一冊読んだだけじゃ意味がないので、自分がもっている小説で中学生にも読めそうなやつをどれだけ読ませていけるかってのが勝負ですよね。
 司馬遼太郎は新史太閤記しかもっていないので、次は必然的に宮城谷になっちゃうな、いやいやもしかしたら分量的にも遠藤周作のほうが読みやすいのかな……『わたしが・棄てた・女』で勝負しよう!って感じです。
 国語の成績は読書量にかかっていると思われますが、一年間かけてどれだけ変化するものなのか、ちょっと先が楽しみですね。
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