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6月4日

 このままじゃあ永遠に更新を停止しそうなので、日記を書きます! 日記を!

 ○PM1時30分から販促活動

 創価学会員である塾長と、学会員の苦労を聞きながらおしゃべり。一方僕は牧師さんに「中途半端な召命感なら神学校に通わないほうがいい」といわれたことを喋り、「確かに湯浅くんは親切なんだけど、親切らしい行動をあまりしないよね」と言われ、確かにそうですよね…とうなずく。

 ○PM3時30分ぐらいから面談室改造、教室の掃除

 最近は塾で講義ではなく事務作業が増えてきております。まさしく事務っぽい人間として働かされているのですが、その職務のひとつとして面談室を改造いたしました。よりカウンセリングらしい雰囲気を出そうというコンセプトのもと、対面型ではなくL字型に座るよう机を配置。
 ついでに観葉植物をおいて、テーブルクロスをかけ、おお……これはすごい……なんかそれっぽい……というような面談室になりました。あたらしく変貌した面談室で塾長とともに保護者と面談するフリをして遊び、いいんじゃない? これ。これは話しやすくていけますよ……と微笑みあう。

 ○PM4時40分〜7時50分。講義と手紙。

 今日は僕が担当している子の塾における三者面談でもありました。「湯浅くんの講義、今日楽なんだから、講義中に○○ちゃんに手紙書いてくれる?」とあっさり塾長に言われてしまったので、よし任せてくださいと授業のかたわら入魂の手紙を執筆。そうしたらもうそれがすごい自信作となってしまって自分ながら驚きました。
 まさしく、まさしく……文学的営為に等しい心ゆさぶる手紙でして、その子との出会いの授業にはじまり、その子の弱点、課題、長所、がんばったところ、勉強の意味……すべてを網羅しつつも要点のみを端的に抽出する、それでいて一文字一文字に思いやりの感じられるその手紙は、塾長から「これはすばらしい! 講師のみんなに見せるから、ちょっとコピーしていい?」と言われるレベルで、僕も大満足。
 もう書いてる側としては手紙というより文学作品なんです、君のための手紙ではなく、僕のための手紙なんです……っていう気持ちでした。

 ○今

 ご飯を食べています!
6月6日

 漫画が市民権を得ていないころ、漫画というジャンルは確かに文学でしたよね。

 トキワ荘のドキュメンタリー番組をニコニコ動画でみてみたところ、もう泣けること泣けること。漫画で食えなきゃ野垂れ死ぬしかないと意を決して上京してきた寺田ヒロオと、そんなテラさんに会って衝撃を受ける藤子不二雄A……。そして会社を辞め、手塚治虫の部屋の後釜にすわって漫画家として生きる覚悟をする藤子不二雄AとF――手塚治虫にあこがれて足塚不二雄とペンネームをつけるふたりの天才。

 原稿を落として出版社から見放され、漫画家として挫折しそうになりながらも、なんとかまんが道を生きていく藤子不二雄たち。そののち若き鋭才石森章太郎と赤塚不二夫もトキワ荘に参入し、テラさんを中心に「新漫画党」が結成されます。死ぬほど貧乏だけれども才能と気概に満ちていた彼らは、毎夜誰かの部屋に集まり、漫画や映画、文学など和気藹々と話し合うのです。
 この頃からベレー帽をかぶっていた藤子・F・不二雄に丸い黒縁メガネの藤子不二雄A、イケメンで一番若い赤塚不二雄、兄貴分として微笑を浮かべるテラさん――昭和30年代当時の白黒写真をみると、ほんと文学青年っぽすぎてびびることこの上ございません。

 漫画という新しいジャンルで頭角をあらわしはじめ、のちに『忍者ハットリくん』『オバケのQ太郎』『ドラえもん』『天才バカボン』『おそ松くん』『サイボーグ009』『仮面ライダー』といった、戦後漫画史をいろどる輝かしい漫画を作っていった青年たち。彼らが4畳半の小さなアパートに集っていたという…、トキワ荘はほんとに奇跡的な環境だなって感じです。
 しかも驚くことに、そのとき彼らが本当に若かったということがびびります。トキワ荘時代がみんな10代後半から20代前半のときなので、なんて早熟なんだ……って感じですよね。



 そんなわけで、昔の漫画が文学だったその所以は、すなわち子どものために描いているという自覚が漫画家にあったからだと思います。トキワ荘のドキュメンタリーでもテラさんが言ってたんですけれど、当時子どもを導くための本として漫画があったのです。少なくとも漫画家はそういう気持ちで漫画を描いており、つまり文学していたのです。真に正しいことは何なのか、真に学んでほしいことは何なのか、そういうことを子どもにわかりやすく伝えられる、これほどすばらしい媒体はないと……。

 特にトキワ荘のリーダー格であったテラさんはその傾向が著しく、のちに商業化・過激化していく少年漫画の時流に乗れずに断筆してしまったのですが、しかし特に藤子・F・不二雄の精神はテラさんのそれに近かったように思われます。……まさしく子どもを導くための漫画であったと、『ドラえもん』という大きすぎる作品を振り返って思い出さざるをえません。(とくに映画の役割が大きいですよね)

 このドラえもんの「心に響く名言集」をご覧になっていただければわかると思うのですけど、ドラえもんはほんと、子どもを正しい方向へ導こうとしている気概にあふれているのです……。
 この動画で紹介されているのび太とドラえもんの台詞は、まさしくのび太とドラえもんの歴史そのもの。のび太の劣等生としての悩み、のび太を成長させるために未来からやってきたドラえもんの役割。藤子・F・不二雄は時にドラえもんとして、時にのび太として、子供たちに「よく生きること」を訴えかけている……


●のび太の台詞

 「いっしょうけんめい
  のんびりしよう。」

 「自信を持て!
  ぼくは世界一だと!」
 
 「いつまでも子どもじゃ
  いられないものな…。
  わかってるんだよ、
  このままじゃいけないって
  ことは……。」

 「ぼくだけどんどん
  おくれちゃって…。」

 「いちばんいけないのは
  じぶんなんかだめだと
  思いこむことだよ。」

 「とにかくこの世に
  生まれたからには、
  何かひとつ
  足あとをのこしたい!」


●ドラえもんの台詞

 「いっぺんでいいから
  本気で悩んでみろ!!」

 「道をえらぶということは、
  かならずしも歩きやすい
  安全な道をえらぶって
  ことじゃないんだぞ。」

 「どんなに勉強ができなくても
  どんなに喧嘩が弱くても
  どこかに君の宝石があるはずだよ。
  その宝石を磨いて磨いて、
  魂をピカピカにして魅せてよ。」

 「いいじゃないか
  おくれても
  最後までがんばれ。」

 「むりしないで、
  じぶんの力で
  できることを
  やっていこうよ。」

 「人にできて、
  きみだけにできない
  なんてことあるもんか。」



 という感じで、ドラえもんの映画を見直したい! と思わせるような動画でございました。パラレル西遊記とか見直したいですね!
6月7日

 今日は懐かしのアニメやギャルゲーをニコニコ動画で探して遊んでいたのですけれども、そうすると意外にさまざまに思考することができ、結構勉強になった次第でございます。

 たとえば守護月天で示唆されているとおり、ハーレムとは男女間ではなくむしろ全人間間において達成すべきものであり、昨今のハーレム的作品のなんたる浅薄さか! そもそも女神さまっはハーレム作品ではないため月天と比較していいのでしょうか……ですとか、サザンアイズのよさはチベットとか中国とか現地の様子がよく伝わってくるところですね、あと大量の出血シーンですよね、とか……いろいろ勉強になります。

 いっぽうギャルゲーに目を移すと、これまたなんと多くの文学的作品が存在し、またいかに文学的作品しか後世にその名を残せないか、というギャルゲー業界の軌跡と混迷とをほんと涙ながらに実感してしまいます。
 つまるところ確かにギャルゲーという存在は、あきらかに文学としか言い得ないものがでてくるのです……というのも、それはそもそもギャルゲーというものに市民権が存在していなかったから。だからこそ、昔のギャルゲー業界というものは自由な文学的感性の発露の場、実験的作品の場になることが往々にしてあり……、ちょっと感性を鍛えるためにもやっても損はしないんじゃないかっていう作品も結構あるんですね、と説得をこころみる感じです。

 ここで、やはりおすすめ文学ギャルゲーを羅列せざるをえない衝動が湧き上がってくるのを感じますので、自分のなかのおすすめギャルゲーを整理するためにも羅列していきたいと思います。


ーーーー

・MOON.(Tactics)
 宗教と洗脳と解放の話。
 過酷な体験によって超能力を会得する宗教団体に主人公が求道者として潜入し、信者のひとりだった母の死因を究明しようとする。そこで強制的に自らの罪悪と向き合わせられ…

 紹介動画――デモムービー


・CLANNAD(KEY)
 父親に反発する高校生が社会に出て、結婚生活、自分の子供とのふれあいを通して精神的に自立し、父親と和解し、自分の家庭を形成する。
 ギャルゲーで初めて自分の子供との関係を掘り下げた作品かもしれません。

 紹介動画――デモムービー
 

・銀色(ねこねこソフト)
 願いごとを何でもかなえてくれる銀色の糸の伝説。それにかかわった人間ははたして何を願い、果たして願いの代償は何か。
 第一章では「名前」を得るために遊女の少女が願い、第二章では村人が幸福になるよう人身御供の巫女が願い、第三章では自分自身の幸福、第四章では口が利けない少女が喋ることを願う。

 紹介動画――デモムービー


・君が望む永遠(age)
 三角関係に苦悩する主人公が、何を基準にして人(恋人)を選ぶのか思い悩み、人を選ぶことの差別性に直面する。
 哀れみや同情が恋愛感情に先立って主人公の内面をかきみだすが、しかしついに主人公たち思い悩む人間たちは、恋愛という人間関係の一面を超越した「ほんとうのたからもの」を獲得する。

 紹介動画――OP


・マブラヴEXTRA、UNLIMITED、ALTERNATIVE三部作(age)
 利害関係を超えて、人間すべてが一致団結するにはどうすればよいか、というコンセプトに基づいた壮大なSF。
 普通の高校生だった主人公が宇宙人によって人類が絶滅されかけている平行世界に迷いこむ。しかし主人公は危機に瀕した人類の全体主義的な風潮になじめず、命を大切にしたい現代日本人として苦悩する。

 紹介動画――マブラヴ全年齢対象版デモムービー


・雫/痕(Leaf)
 ギャルゲー史的教養がもとめられるなら、必ずプレイしなければならない古典的名作。雫、痕によってはじめてギャルゲーに物語性が導入されたのですが、その退廃的な文学精神は現代の比ではございません。
 人間の本能的凶暴性とそれに対峙する本能的良心の葛藤……

 紹介動画――雫 MAD大賞で賞を受賞したこともある名作MAD
       痕 15年ぐらい前のデモムービー


・うたわれるもの(Leaf)
 記憶喪失の男が獣耳と尻尾をもった人間たちの世界で、天下統一を目指さざるをえなくなる話。古代中国っぽい服装や戦争、古代日本っぽい農業や住居――そのアジア民族的世界観がよく表現されていて、日常に飽きがきません。何度もプレイできる名作。

 紹介動画――アニメ版OP


・群青の空を越えて(light)
 ベトナム戦争のような超大国の代理戦争が、日本の「関東」VS「それ以外」で起こる。関東が日本から独立し、内戦が開始。主人公たちは関東側の学生兵で、戦闘機乗り。
 なんのために戦争をするのか! 主人公は無力ながら、ひとり終戦に向けて活動をはじめる。

 紹介動画―デモムービー


・腐り姫(ライアーソフト)
 もはや存在が文学。

 紹介動画――OP


・SWAN SONG(Le Chocolat)
 マグニチュード9以上の大地震が起きる。文明が消滅し、生きるために僅かな生存者同士で原始的なコミュニティを形成するが、コミュニティ内では人間たちの醜い本性が次第にあらわれていく。
 人間不信、権力濫用、犯罪、それら全てから逃れるために主人公たちは集団から離脱しようとするが…。

 紹介動画――デモムービー


・CROSS†CHANNEL(FlyingShine)
 いつの間にか世界には7人しかいなかった、というSF作品。どうしても人を傷つけてしまう、心に問題を抱えている生徒たちが通う高校。その高校生7人が、自分たちしかいない世界で、「生きている人、いますか?」とラジオ放送を飛ばす。
 物語の最後のシーンは圧巻。人を傷つけないためにはどうすればよいか。

 紹介動画――雰囲気をよく表している良作MAD


・Fate/stay night(TYPE-MOON)
 大衆娯楽小説として完璧に近い文学。少年漫画におけるバトル的熱血、根性、正義の観念、勝利……みたいな感じです。とりあえず面白い。

 紹介動画――アニメ版MAD


・月姫(TYPE-MOON)
 同人で成功しメディアミックスを果たした作品。ものを構成する継ぎはぎが見える「直死の魔眼」や、不死身の「吸血鬼」等、設定が文学的のようでいてその実妄想的な、その紙一重のところが刺激的です。

 紹介動画――プロモ的MAD


・Phantom of inferno(ニトロプラス)
 映画の「レオン」みたいな作品。アメリカで旅行していた日本人大学生が、ある事件をきっかけに殺し屋として無理矢理働かせられるようになる。主人公の殺し屋としての成長が面白いです。

 紹介動画――PS2版デモムービー


・沙耶の唄(ニトロプラス)
 交通事故の後遺症で、主人公には建物や人間――すべての物体がおぞましい肉の塊に見える。肉の塊と接する異常な日常のなかで可憐な少女沙耶と出会い、ふたりは恋に落ちる……。沙耶の実在の姿が肉塊の化物だとしても、それは僕にとって確かに人間以上の価値をもっていた。

 紹介動画――雰囲気のいい良作MAD


・ひぐらしのなく頃に(07th Expansion)
 月姫につぎ、同人作品で成功しメディアミックスを果たしたゲーム。この世に悪人なし。すべて善の行為は、神と人間との共同作業である。作者のキャラクターに対する共感能力が異常に高く、キャラクターのすさまじい感情の奔流にプレイヤーは眼が離せません。
 しかし作者の万人救済を願うテーマが、一見して「仲間」という限定された範囲にとどまっているようにも見受けられ、その点次作うみねこで改善されているようです。
 紹介動画――よく雰囲気を表しているアニメ版MAD

・うみねこのなく頃に(07th Expansion)
 この世に悪人なし。魔女であろうと善人である。神が救済する人間を選ぶ――すなわち天国と地獄に人間を篩い分けるキリスト教的価値観に、性善説と万人救済説をつかって真っ向から向き合う作者の魂の叫び……
 この世に悪人なし、殺人者も善人である。しかしこの肉親を皆殺しにした憎き殺人者をどう赦すかが思想的問題として主人公の前に立ちはだかります。苦悩しながらも殺人者たる魔女を断罪するとき、しかし「いったいこの魔女を裁く俺は誰なんだ」と主人公は葛藤するのです。全ての人間が善人であるとは、すなわち全ての人間が罪を有しているからに他ならない。他者の罪を裁くとき、俺の罪はどこに消えたのか!
 果たして主人公は魔女の存在を否定できるのか。魔女の存在を否定せずして自身の存在意義を見出せるのか……というギャルゲー史上もっとも思想的な作品。
 具体的リアリティをもたず、観念のみで話を進めていくその異常な想像力は精神病患者のそれに近いのではないでしょうか……。キリスト教に対する不満をぶつけるかのように、その価値観・教義に関するモチーフが所狭しと物語に挿入されています。
 紹介動画――エピソード1のプロモ的MAD


 MADをみてると想像力がほんと刺激されますね……。とくに最後のうみねこMADを探しているときなかなか創作意欲が刺激されてしまったので、紹介文を長く書いてあげようかな…という親心が生じてしまいました。「俺の想像力と圧力が赤文字を支配する」とかそういう感じの意味のわからないことを言っているバトラにほんと惚れざるをえません!
6月14日

 人は地獄を恐れてはならぬ。
 地獄を恐れたとき、われわれは自己の生命を他者のそれより尊いものとみなし、自身が地獄に行かぬことに安堵し、地獄に落ちてまで人間存在を救済せんとするまったき救済思想を損ねてしまう。
 人よ、人よ、地獄に落ちるべし……。しかしその地獄の何たるかを知らずして安易に地獄に落ちるべしと申せましょうか。地獄とは何ぞや、ハデスとは何ぞや、ゲヘナとは何ぞや、天国とは何ぞや。天国での生活とはいかなるものか、地獄での生活とはいかなるものか……。
 苦しみという肉体と精神の体験が、天国と地獄においていかに変質するというのか。われわれの生命が、その生命を失いふたたび復活したのち、またもや肉体と精神の体験をその生命に刻み込むというのか。
 地獄とは何ぞや……地獄での苦痛とは何ぞや……現世での苦しみの一千倍の苦しみが地獄にあったとき、われわれはそのときはじめて、天国への渇望をその心に抱くことができるのでしょう。  神よ、主よ、人間よ……。地獄を恐れずして地獄に落ち、地獄において死ぬまで苦しめ。



 ということを今日は牧師さんと車のなかで30分ほど話して思いました。
 そのとき、牧師さんの車は僕のアパートの前に止まっていたのですけれども、僕と牧師さんの熱した会話は神の主権を重視するカルヴィン主義・ハイパーカルヴィン主義と、人間の聖化を重視するウェスレー・アルミニアン主義との論争へとおよびました。そしてそののち「牧師という立場からみてキリスト教政党はあるべきか」という話に、また「キリスト教徒の社会活動は容認すべきか」という話に発展。
 教会内ですとこういう真剣な話はあきらかに浮いてしまうので、車内で牧師と一対一になったときが一番話しやすいんですね。アパートの前で繰り広げられる宗教的話題に、なにか末恐ろしいものが感じられます。


「聖書理解というものは実際個人的解釈でしかありえないんじゃないでしょうか。自分の聖書理解がそれこそ神の真理であると断言し、社会活動を行う人たちは……非常に危険な気がします。かつての十字軍のような過ちを犯す可能性を秘めた人たちの気がします。とくに社会活動というものは一般大衆にむけて『キリスト教はこういう教えなのだ』というメッセージを発信してしまいますし、もしそれが神の真理ではなく、誤った人間的真理だとしたら、われわれはまったくもって恐ろしい間違いを犯してしまいます。……つまり、クリスチャンはまさしく『恐れつつも大胆に』御言葉を告げなくてはならないんじゃないでしょうか。聖書の教えを断言することを恐れ、ただ個人的な解釈としての聖書理解であることを……社会活動をするときには添えるべきではないでしょうか」

「ううむ……でもですね、わたしが思うに」


 いろいろこれについて話したのですけれども、それぞれの主張が平行線だったので、最後はなんとなくって感じで議論が終了し、にこやかに「それではまた来週お願いします」と帰宅。
 地獄について、社会活動について、教義について、政党について……今日は非常に実のある話をすることができたな〜って感じです!




ーーー

 『世界ノ全テ』っていう有名なギャルゲーがあるんですが、以前のギャルゲー紹介でこれを入れるかどうか死ぬほど迷いました。
 というのも、『世界ノ全テ』の音楽には高校時代非常に感性的にお世話になった記憶がございまして、「freewill」というこのサイトの掲示板の題名も挿入歌のタイトルだったりするレベルでございます。
 しかしながらゲーム全体を総合的に考えて、基本的に音楽とラストだけが良いというゲームっぽいので、紹介には入れてございませんでした。でもやはり「未完成の城」「freewill」「世界ノ全テ」という曲をニコニコで聞き直してみましたら、もう懐かしすぎて感動してしまった次第です。(動画の最初の50秒は台詞のみなので飛ばしてください)

 世界の全て、これは英語にしたほうがその意味がよく伝わってくるのですが、すなわち" Everything of the world "……深すぎですよね。「世界」という語を「world」として見直し、再検討すると、なんかものすごいものがあります。worldの全てって、大きすぎだろ……!!
6月17日

 ――愛がなければ真実は視えない。

 エピソード4を45分だけやったのですが、やっぱりうみねこ面白いですね。ほんといい話で、竜騎士の教養にはなかなか頭が下がる思いでございます。

 ある人を観察する者の内部に、その人への愛がなければ……その人間の行動がすべて疑惑にみちた軽蔑すべき行動にみえてしまう……。幼少期、エバから陰湿な虐待をうけていたエンジェは、エバに対する愛をついに獲得できず、頭からエバを六軒島犯人と決め付けている。
 エンジェはそのことをエバの知人に教えられ、自分の至らなさを自覚しつつもいまだ「愛」の具体性を知ることができない。


 同時に、それはバトラにも言えることですよね。エピソード4の冒頭を思い出してみると、バトラとエンジェの境遇が同じであることに思いをはせざるをえません。
 バトラはベアトリーチェをあらためて敵とみなし、決して妥協できない存在と宣言いたしました。これはエンジェのエバに対する態度と同じで、バトラはとにかくベアトリーチェという「悪」が犯人であると盲目的に信じ、その「悪」に打ち勝とうとしているのです…
 しかしバトラはおそらくその状態では真実に到達できない!

 竜騎士いわく、愛がなければ真実は視えない。
 バトラが真に「悪」というベアトリーチェを象徴する概念に対する「愛」を身につけたとき、そして善悪二元論を超越した万人に対する確かな「愛」を獲得したとき、はじめてバトラはみえなかったものがみえ、真実に到達することができるのでしょう……。すなわちそれは、この世に悪なし、すべての人間はひそやかな善にみち、救済されるべき存在である、という真実なのでございます。

 バトラよ、悪に対する愛を獲得しなさい……そういう竜騎士のテーマが如実に伝わってくる冒頭で、相変わらずきっちりポイントをおさえてくるな!って感じです。



※追記

「………それは、人間側が提示する“トリック説”、すなわち復唱要求は必ずそのゲーム内(エピソード内)で反論されなければならないという、魔女側の制約という認識でいいのかしら?」

 というエンジェの台詞をみて、やばい…ベアトリーチェも主役であるということを忘れていた!ってことを思いました。
 つまるところベアトリーチェの沈黙こそがバトラの勝利条件であり、ベアトリーチェ(犯人)もまたみずからの不遇な人生を受容し、自分を迫害してきた者(悪)に対する「愛」を獲得しえてこそ……あえてバトラに対し沈黙し微笑するという行動を選べる……って感じですよね。
 ほんとどうやって終わるんだろう…って感じです。
6月18日
 うみねこの面白さはその常人では考えられない独自の服装センスにもある……とガァプの服装(一番右)をみて思いました。これはすごい……いわばプリンセスメーカー2のレザーのドレスを参考にしたかのような質感と赤色で、かつ大胆なデザイン性からはフィクションでしか存在しえないような服をデザインすることの娯楽性が伝わってくる……!!
 しかもそれを「魔界の最先端の流行」とガァプとベアトリーチェが自分でネタにしているところからも、ファッションというものは一体なんて無意味なんだろう…という作者の諦観と遊び心が見え隠れし、すさまじい衝撃を受けました。


 で、うみねこを4時間ぐらいやったと思うのですが、悲しいことになかなか面白いと胸を張って言えるまでには面白くならないんですね。竜騎士さんは今作をかなり苦労してつくっているようで、その時系列の入れ替わりの激しさ、視点変更の激しさはエピソード4が難産だったことを象徴するかのようです。
 まさしく広げすぎた風呂敷をなんとかして畳もうとしているんですけれど、個人的には畳まなくてもいいから楽しんで書いてください、とお願いしたいところでもあります。

 おそらく竜騎士が楽しんで書いたであろうところは――保護者としての資格を問われたローザが民生委員の人にキレたところ、キレたついでにマリアが大事にしていたおもちゃを一個一個ぶっ壊していって、マリアが絶望のふちに叩き落されるところ……あとはエンジェが「死ね、私の命令を聞けない家具は死ね!」と親友だった使い魔を7人も観念的にぶっ殺したところ……この辺はすごく読んでて楽しめたのですが、しかしあとはもう普通ですね!

 竜騎士のすごいところは残虐な人間を自然主義的に描写できるところだと考えているのですが、エピソード4ではマリアを虐待するローザがまるで悪人ではないですし、エンジェはそもそも虐められっ子ですしと、ガチンコな自然主義的暴力と悪意をもった描写が少ないのが弱点であるように思います。
 圧倒的な自然主義的暴力が存在しないため、その暴力に苛まれ、悲嘆するキャラクターも当然存在せず、被暴力下から救済されるカタルシスも存在しない……

 エピソード3での刺激的かつ大きな……感情のゆれ幅の大きいキャラクターたちの狂態めいた感動が、これ以降描写されることを祈るばかりです!



 ※追記

 そのすぐ後でマリアのローザに対する復讐シーンがうまくかけてたので、竜騎士さんごめんね…って感じです。
 何べんも魔法で母親を殺し、また生き返らせて、ベアトリーチェに「そなたの復讐はこれにて充分か? そなたは母を許せるか否か、無罪か有罪か…!!」
 と聞かれるたびに
「ママは有罪だッ!!! 有罪有罪有罪、許せないッ!!!」
 と残虐な方法でローザを殺しまくるマリアの、その虫を簡単に殺してしまうような無垢な加害者的性質がいい感じでした…
6月19日

 ほんと、今エピソード4の佳境に入っている感じなのですが、展開が予想通り過ぎて泣けますね……。まさかここまで予想通りに進んでしまうとは! と涙なくして見られない思想的救済……。その論理を着実に一歩一歩のぼっていく物語展開には竜騎士がきちんとテーマを考えてゲームをつくっていることがうかがえ、そしてそのテーマが万人救済という理念にしっかりのっとっているところが泣けるしだいです。

 物語の冒頭でベアトリーチェを悪と決め付けるバトラ、エヴァを悪と断じるエンジェ。中盤は竜騎士のいつもどおりの少年漫画的バトル展開でかったるいのですが、物語が佳境に入ると俄然テーマ的に盛り上がります。ついに「悪」たるベアトリーチェがため息をつき、吼えたけるバトラに愛想をつかし、善たろうとするバトラに「善」たる資格を問うんですね。
 お前はなぜここにいるんだ。なぜ妾はそなたとゲームをしなければならないのかと。バトラはそれに答えられない。

 ……確かになぜバトラが魔女に招待されてゲームをしているのか、今の今まであいまいだったのですが、ここにバトラの善と正義に固執する自我が暴露されます。

「バトラよ、自らの罪を告白し懺悔せよ」

 その厳しいベアトリーチェの言葉にバトラは答えられず、それによってバトラは存在が消滅してしまいます。悪を弾劾する資格を失い、悪を誅すべき「善」という概念に依存していたバトラは、存在意義を見失ってしまうのです……。俺は俺だと思っていたけれども、実のところ俺は俺ではなかったのだ、と。



 いっぽう過去の真相を探す旅に出かけていたエンジェは、現実世界において愛を獲得します。自分を殺害するための虐待的暴力をその身に受けながらも、憎しみを断ち切るというみずからの使命をようやく自覚したエンジェは、頭を抱えながらかつて自分を虐待したエヴァをまぶたの裏に現前させ、彼女の弱弱しい「善」を見、彼女のかつての暴力を怒らず、ただ悲しみ、いとおしむ。
 そのとき、はじめてエンジェはエヴァの隣にたたずむ「魔女」の存在を知覚し――


 とここまでプレイしたのですが、なるほど、確かに出題編の最後のエピソードだけあって観念的に大事なエピソードだなって思いました。

 つまるところ、

 ●救済の主体のあり方をバトラによってあらわし、
 ●救済の方法論をエンジェによってあらわす。

 というのが出題編ラストとしてのエピソード4のテーマだったようです。まだ全部プレイしていないのでぜんぜんわからないのですが、とりあえず気分的に盛り上がったのでそう思ったという感じです。



 「うみねこのなく頃に」は人間主体で話が進められていくという点で「ひぐらし」とは一線を画した物語です。つまるところ「神」という存在が「うみねこ」にはいないのです。かわりに「悪」があり、「人間」がある……。
 だからこそ、「ひぐらし」よりもっと万人救済が困難な状況に登場人物たちを配置してこそ……そのなかでいかにして人間たちが自分自身でみずからとすべての他者を救済しうるのだろうか…という竜騎士の思想実験的小説なんですね。

 人間の力のみによってすべての存在を救済するために、まずバトラによってその主体のあり方を示します。みずからが善であるというその拠り所を一度破壊し、それでもなお悪を裁くかという……人間による人間のための激しい自問自答。
 そして方法論として、愛をもって他者を視ることをエンジェをして悟らせます。いかに虐待されようとも、暴力を振るわれようとも、怒ることなく憎むことなく、ただ自身の配慮のない一言が他者を傷つけ、変貌させ、憎しみを抱かせたことを自覚し、自分自身が加害者であったことを思い出し、その戒めによって他者を注視せよと。
 そのとき、「悪」という概念が人格と切り離されて垣間見え、その宙に浮いた「悪」概念を打ち壊すための手段がみえる。

 悪という人格から切り離された「概念」が目の前にあるとき、自分自身の善をうしなった人間は何を思い、何をするか。おそらくバトラはこのあと復活し、何かを根拠にして、目の前に浮遊する「悪」概念を打ち倒そうと決意するのでしょうが……、しかしこうしてうみねこの観念的物語を書いていると何か不満が芽生えてきます。

 うみねこは結局人間すべてを受容し救済されるよう展開していくのでしょうけれど、悪という概念は受容されないみたいです。悪という概念が…(眠いので以下略)



 つまりうみねこ、やっぱりこれは…教養的にすぐれた作品といわざるをえないです……かなり文学してます!
6月21日

 うおお、面白い……とマジで感動しました。
 なぜか本編は盛り上がらず、おまけシナリオの「お茶会」の30分で死ぬほど盛り上がるという不思議な展開でしたけれども、最後ベアトリーチェが観念的物語としての究極の問い――すなわち「私は……だぁれ……?」という存在論的問いを泣きながら発し、バトラを殺して終わるすさまじい展開。
 そうやって終わると知りながらも、やっぱりなかなか感動的でした。

 とりあえず大量殺人の発端は18人目X(バトラの罪によって生まれる存在)で、それを契機に疑心暗鬼に陥った他の親族が血で血を洗う骨肉の殺人を引き起こしていく……っていう感じを予想しました。で、最後のバトラを殺した犯人は当然バトラ、つまりバトラは自殺したんだろうなって感じですよね……おいたわしや!

 結局のところニュアンス的にバトラ=ベアトリーチェ(18人目X)っぽいので、もしかしたらベアトリーチェは明日夢の息子か娘かなって思わせるものもあるんですけれど、その辺は観念的に考えたいところですよね、やっぱり! 善と悪の一致的な……


 というわけで、うみねこエピソード4は「お茶会」までやらないと良作レベルでとどまる作品だったので、やるのでしたら最後までやらないとだめってことでした。
 なんか今回はあまり感想が浮かばないのですけれど、その理由はなんでしょう、これがもしかしたら竜騎士的感動に「飽き」がきた……という現象かもしれません。竜騎士さん、今回はちょっとあざとすぎてエンジェの死とかに感動できなかったぜ!! お茶会がなければ見限っていたところです!
6月24日
 次の日曜、礼拝後に大学生のクリスチャン&ノンクリスチャンの方と「分かち合い」という不思議なお喋りをすることになったのですけれど、ほんと「分かち合い」って不思議な語感をもっていますよね。
 「分かち合い」……確かに信仰に関することで「分かち合う」ような相談ごとはできるといえばできるのですが、しかし学生クリスチャンの方は、「○○(ノンクリ学生)もいるので、難しい話はしないほうがいいですよね」と、今流行の真の善を感知してしまうレベルの純粋な……絵文字つきメールを送ってきます。
 そうなると、やはりもう僕としてはお手上げ! 分かち合うことが特にない! と当然ながら絶叫するのですけど、しかしどうも世間話や雑談も「分かち合い」に入るらしいので、何も考えずにしゃべればいいのかなって思いました。

 いったいどんな会合になるのか……牧師さんも同席することになったらしいので、ほんとどんなコンセプトにもとづいた会合なのでしたっけ、雑談のみだったら牧師さんを退屈させちゃうんじゃないのかな……と学生クリスチャンに確認したいところなのですが、いまさら確認できず、僕はただ流されるままに流されようと思うばかりでございます。
 まさに主の御手にすべてをゆだねるべし!! 人間よ人間よ、人間どもよ、祈れ!!



ーーー

 信仰についてのメモ帳6でマリみてSSを頑張って書いたので、日記にも載せてみます! 久しぶりにSSを書いたのですけれど、ほんとやっぱSSって面白いですね……不思議です。




 マリみてSS「宣べ伝えよ、福沢祐巳」



「聖書的価値観を、どうしてそんなに声高に言うのかって? 乃梨子ちゃん」
「はい、祐巳さま……祐巳さまだってわかっておられるはずです。どんなに声を大にして御言葉を述べ伝えても、決してノンクリスチャンは理解できないと」
「確かにそのとおりだね。確かに」
 祐巳さまはおもむろにうなずいた。窓を背にした祐巳さまの顔は、朝の真っ白な光でよく見えなかった。祐巳さまは少しのあいだ手を顔の前で組み、しばらく考えてから書類に手をつけた。
「こうしたほうがいいかな?」
 大学の授業がはじまるまでまだ1時間はある。こんな朝早くから、祐巳さまはKGK夏季合宿のポスターをデザインしていた。ノートに描かれたそれをこわごわと私にみせ、祐巳さまは照れくさそうに微笑んだ。

 祐巳さまは、いつごろか高校時代のような幼い髪型をやめていた。長くつややかな髪は祐巳さまの華奢な背中に流れ落ちていて、私はその姿に仏教大学に進学した志摩子さんをみる。内に秘めた志摩子さんの激しい気性と、その激情を覆い隠す穏やかな微笑を……。
 だいぶ長い間、私は志摩子さんに会っていない。志摩子さんを思い出させるものは、彼女が私に託したロザリオだけだった。私はそのロザリオを次代に譲ることなく――そう。つまり妹をつくることなくリリアン高等部を卒業し、順当にリリアン女子大学文学部に進学した。
 2年生になった祐巳さま、3年生になった祥子さまは、どこからどうみても大人そのものにしか見えなかった。私には、お二人がまぶしく輝いてみえた。入学当初はなんだか気後れしてしまって、彼女たちにばったり出くわさないよう、慎重に構内を歩いたものだ。

 祐巳さまがキリスト者学生会、通称「KGK」に入会してから半年が経つ。祥子さまの母教会で洗礼を受けてから、祐巳さまは精力的に奉仕活動に励んだらしい。今では聖書研究会を牽引するほどのリーダーシップをとっているようだった。
「あの子の成長は、私を超えるわ」
 祥子さまがうれしそうに祐巳さまの霊的成長を口にするのを、以前私は一度だけ聞いた。そのとき、一緒にいた瞳子は悔しそうに唇をかみしめていた。それをみて、私は
(確かに瞳子の内面的成長は遅れている)
 と思ったものだった。
 ちなみに瞳子はまだ洗礼を受けていないので、KGKには入会していない。だけど、祥子さまが会長を務める聖書研究会にはかならず顔を出すようにしているらしい。祥子さまに祐巳さま、瞳子、そしてたまに遊びにくる私……いつかの山百合会のような雰囲気がそこにはあった。

「はっきりいってね、乃梨子ちゃん」
「はい?」
 作業を中断し、祐巳さまがいきなり話を振ってくる。
 私は授業以外にはじめて手に触れる聖書をパタンと閉じ、祐巳さまをみた。祐巳さまはいつもと同じように微笑している。高校時代にみせていた、あのひょうきんな百面相は、どこかに消えてしまっていた。
(志摩子さん……)
 その微笑は、志摩子さんのものだったはずなのに。
「すべては相対的な価値――という観念があったとき、わたしの信じる価値はなんなのか、と思うときがあるの」
「はあ……」
「わたしもかつてお姉さまに反発したわ。なぜ、お姉さまはそれほどまでに狭量になったのですかって。中立から外れる、つまり何かの思想を支持するということは、差別を生むんじゃないですかって」
「……」
「でも違うの。違うのよ乃梨子ちゃん。本当に、真実真剣に信じたとき、決してそんな……差別などの負の観念は生じないし、生じるはずもないの」
 祐巳さまは笑っていた。朝日を背にうけ、すがすがしく、朗らかに笑っていた。恐ろしい、と私は思った。
「祐巳さま。その台詞、まるで狂信者みたいですよ」
「あはは、そうかもね。でもね、何かを個人が真剣に信じるとき、その信じるものに悪罪が混入しているわけがない。すくなくともその個人にとって、ほんのわずかでも悪罪が混入していたら、その人はきっと本気には信じられない。つまり……私はかぎりなく真実に近い『善』を信仰しているのよ」
「それは『祐巳さん』だけの善じゃないですか。きっとそういう狂信的な人たちが虐殺とかしてきたんですよ」
 思い出したように、私は祐巳さまのことを「祐巳さん」と呼んでいた。大学に入ってから、みんなの前では「祐巳さん」と呼んでいたのだ。それが自然だと思って……。
「事実、キリスト教はいっぱい悪いことしてきたじゃないですか。そもそもイエスの復活とか捏造なんじゃないですか? そういうのは、どう処理されるんですか、祐巳さんのなかで」
「あはは。乃梨子ちゃん。信仰っていうのはね……」

「あら、ごきげんよう。早いのね、二人とも」
 そのとき、少し眠そうな顔をした祥子さまが部室に入ってきた。上品で、大人の格好だった。私は自分のカジュアルな服装をみて、なんて子供っぽいんだって思った。
「おはようございます、お姉さま」
「ええ、おはよう、祐巳。そうそう、あなたの顔をみて思い出したわ。いきなりで申し訳ないんだけど――4年の田中さんがぜひあなたにお手伝いしてもらいたいって。なんだったかしら、たしかお知り合いの短大生が学内に聖研を発足させるらしいの。それでね、最初の聖研で祈りを導いてほしいって」
「あ、なるほど。そうなると以前と同じメッセージを使いまわせますね。田中さんもちゃっかりしてますね」

 私をおいて、お二人でなんだか凄い話をはじめる。ほんと、私は置いてけぼりだ。もってきておいたルービックキューブをいじり、しばらく時間を忘れることにする。
 お二人の会話はよどみなく進み、そして祐巳さんが自分の描いたポスターのデザインを祥子さまに見せる。祥子さまは1分ぐらい沈黙したあと、
「あなた。これで来たいと誰が思うの?」
 と鋭い言葉を浴びせる。祐巳さまは厳しい口調にもめげず、
「それならここを……こうやって、こう……変えましょうか」
 と何か描きながら言っている。
 私はみんなそれをうつむきながら、耳をそばだてて聞くだけ。ルービックキューブって意外に難しい。……

「乃梨子ちゃん、信仰ってね?」
 気がつくと、私は机のうえで寝てしまっていた。ルービックキューブは、マイナスドライバーを差し込んで分解してしまっていた。
 机の上にはルービックキューブのピースがばらばらと散っていて、その隣にあたたかなココアが置かれている。私のために祐巳さまがいれてくれたらしい。
「いかなるものであれ、悪を生むものは決して信仰にあらず。信仰とはすなわち全人間の救済なり」
 祐巳さまのうしろで、祥子さまが微笑して言った。
「信仰ってね、教義はほとんど関係ないと思うの、乃梨子ちゃん。乃梨子ちゃんも、いい人だから、何かの信仰もってると思うよ」
 私はココアをひとつすすり、そしてルービックキューブの残骸をばらばらとカバンに突っ込んだ。
「私はどちらかというと、仏教徒ですから」
 あはは、そうだねと祐巳さまが笑い、乃梨子はそっちのほうが似合ってるわね、と祥子さまがまじめそうに言った。私は志摩子さんを思い出した。そして……私は……。
「わたしたちが聖書的価値観を高らかにうたうのはね、神さまを信じているからだよ。そして神さまがわたしたちを愛してくださっていると、信じているからだよ」
「そうね」
 満足そうに、祥子さまがうなずく。
「……じゃあ聖書的じゃない私はクリスチャンになれませんね」
 立ち上がり、祐巳さまを見据えて私は言った。
「あはは、乃梨子ちゃんは充分聖書的だよ。つまり、いい人だよ」
「……」
 私は志摩子さんを思い出した。彼女はなぜ、仏教にかえったのだろう。その徹底的な無常観ゆえだろうか、その血筋ゆえだろうか、その軋轢ゆえだろうか……。
 私は聖研が貸し出している聖書を無造作にカバンにつめこみ、代わりにカバンに入っていた歎異抄を机にどかんと、少し乱暴に置く。お二人の視線が一瞬その本に釘付けになり――
「これ、貸してあげます」
 そう言って、私は視線も合わせずにそそくさと退室した。後ろ手にドアを閉めるとき、ありがとうね、乃梨子ちゃん、とドアの隙間から小さな声が聞こえてきた。
「ごきげんよう、乃梨子」
 張りのある祥子さまの声も、私の耳に小さく届いた。……

 心のなかは複雑だったけれど、私はなぜか興奮していた。
 朝――けだるそうに歩く学生とすれ違いながら、私は次第に足を速める。いつしか我慢できなくなり、最後には走っていた。外に出て、講義をすっぽかし、風を切って、アパートまで帰る。

 私はきっと、いいことをしたのだ……。ねえ、志摩子さん。

 これから手紙を書くよ、志摩子さん!



 おわり
6月28日
 今日の礼拝後の昼食会後の、うちの教会ではじめて開かれた「青年会」はまさしく霊的成長というものを感じさせる会合でございました。
 青年会といっても参加者は牧師を含めて4名、うちノンクリ学生1名は解剖実習が入ってしまい10分後に退席してしまうという残念な事態になってしまいましたが、とても「霊的成長」すなわち「精神性の練磨」を感じる会合で、非常に有益でした。これは喜ぶべき驚き!

 まさに……ふだん僕が牧師と一対一で話していることを、クリスチャン学生に共有してもらうことの不思議さ。クリスチャンの社会的行動についての是非、人間はいつから人間になるのか、中絶、成功体験のみを証しとして発表するのはおかしい、うちの教団のあり方で見直すべきところ、カトリックやロシア正教、他のプロテスタント教派についてetc……。

 あまりに専門的かつ観念的な話題を牧師さんと熱して話してしまうのはいつものことなのですが(ノンクリ学生が退席したので、難しい話をしてもいいよ、という承認をいただいたのです)、しかしそれをクリスチャン学生が熱心に聞いてくれているという事実が僕には驚きでした。そしてクリスチャンホームで生まれ育ち、KGKという学生布教団体で役員をしているその彼女が、今まであまりそういう概念的なものを考えてこなかったことにも実のところ驚きました。

「あの、すみません。教会一致運動ってなんですか?」

 申し訳なさそうに尋ねてくる彼女の発言から、まさしくクリスチャンの純粋すぎる姿と精神を感じるばかりでございます。
 信仰をもっていればよい、そして布教すればよい。彼女はおそらく今までそういう環境で育ち、周囲の人間もまたキリスト教という「宗教」に何も疑問を抱いてこなかったに相違ないのです。

 もしかしたらクリスチャンはそれでいいのかもしれないですし、何の疑問もさしはさまないのが信仰の見本なのかもしれません。しかしながらノンクリスチャンとして20数年を生き、その後ある種の思想的決断をしてクリスチャンになった身としては、その思考停止状態ほど神の愛を無碍にするものはない……とかつては憤激したものです。
 神の愛を獲得することの思想的重大性に気づかない人間が、世界の全人間を救うことの奇跡に思いをはせることのできない人間が、なぜ布教しようとしているのか、その布教に意味はあるのか、そう思うばかりでございました。

 しかしやはりクリスチャンというものはそれでいいのでございます。その個人的優しさをもっていればいいのでございます。上のような変に小難しい話をする人間は、決して呼吸するように神を愛することはできないのです。そういう人間は恐れ多いことに神を監視し、旧約聖書の「ヨブ記」のヨブのように、神が不正をなしたとき自身の正当性を叫び、神の不当な正義を弾劾する準備をひそかにしているものなのです。
 神を呼吸するかのように愛することのできる人間はやはりキリスト教には必要で、そしてそういう人間がマザー・テレサのようにキリスト教的愛を実践していくのでございましょう。

 そんなことを、牧師先生が彼女に聖化を重視する「きよめ派」の歴史的流れをルターの宗教改革から説明している姿をみながらぼんやり思ったしだいでございます。


 こじんまりとした礼拝堂で、信仰の先輩であるクリスチャン学生、そしてノンクリ学生、牧師さんの3名と静かに賛美歌をうたうことの文学性、その精神性。祈りではじまり、祈りで終わり、青年会のあとは余命いくばくもない教会員が入所している老人ホームにお見舞いに行く、その観念的実践性。
 やはり敬虔なクリスチャンというものは恐ろしいな……こいつらが束になってかかってきたら、そりゃあ苦戦するだろうな……とあらためて思ったというわけでした。


ーーー


 先日書いたマリみてSSの台詞を青年会でさりげなく使ってみたら、牧師さんもクリスチャン学生も普通に共感してくれて嬉しかった感じです。
 つまるところ

「いかなるものであれ、悪を生むものは信仰にあらず」

 という祥子さまの台詞をなんとなく牧師さんの会話の流れ的に思い出し、使ってみたんですね。
 思うんですけれども、やはりどんな些細なものでも、誰かが悪と思うことがその信仰から生まれたとしたら、それはやはり間違った信仰ではないでしょうか……。だからこそ、御言葉を解釈し実践し社会的活動に発展させるとき、非常に繊細にわれわれは振舞わなければならないと思うのです……と。まるで「人生谷ばかり」のBraveHeartさんのように!
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