TOP > Diary > July
7月4日


 原民喜の「鎮魂歌」をじっくり青空文庫で読んでいると、まさに泣けて泣けて……。こいつめぇ……って感じです。


「僕はあのとき傷ついた兵隊を肩に支えて歩いた。兵隊の足はもう一歩も歩けないから捨てて行ってくれと僕に訴えた。疲れはてた朝だった。橋の上を生存者のリヤカーがいくつも威勢よく通っていた。世の中にまだ朝が存在しているのを僕は知った。僕は兵隊をそこに残して歩いて行った。僕の足。突然頭上に暗黒が滑り墜ちた瞬間、僕の足はよろめきながら、僕を支えてくれた。僕の足。僕の足。僕のこの足。恐しい日々だった。滅茶苦茶の時だった。僕の足は火の上を走り廻った。水際を走りまわった。悲しい路を歩きつづけた。ひだるい長い路を歩きつづけた。真暗な長いびだるい悲しい夜の路を歩きとおした。生きるために歩きつづけた。生きてゆくことができるのかしらと僕は星空にむかって訊ねてみた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だった。お前たちは花だった。久しい久しい昔から僕が知っているものだった。僕は歩いた。僕の足は僕を支えた。僕の眼の奥に涙が溜るとき、僕は人間の眼がこちらを見るのを感じる」


 まさしく詩人として完璧な言葉の感性…。  「鎮魂歌」を読んでいると、詩とは本来どうあるべきかを実感できます。詩というジャンルをもって作家は何を示すべきなのか……。  そうなのです、詩とは真に作家の抱えている「文章として残すべき景色」をつづること以外ありえないのです。死を意識せずに詩を書くなんてことは、本来決してあってはならないことなのです……。
 その決して風化させてはならないと決意しているであろう原民喜の時空の捻じ曲がった原爆情景が、まさしくPTSDの人がフラッシュバックを起こすときの唐突な追体験を思わせる感じで、見事としかいいようがありません。


 また原民喜を懐古しておりますと、同時にハンセン病に苦しんだ北条民雄もなんとなく同時に思い出したりします。  23歳で死んだ北条民雄が死の一年前に執筆した「いのちの初夜」。この短編を読み返してみても、やはり泣けるものがあります。


「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち[#「いのち」に傍点]そのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」


 若い人間の生き生きした不遜の精神、死を間近に控えた人間の憤懣と怨念、それによって研ぎ澄まされ先鋭化していく思想観念……まさしく純文学!
 北条民雄は物語としての小説の創作に入ることなく病没してしまいましたが、やはり迫力ある短編としては評価すべきものを感じます。台詞の調子がかなりプロレタリア文学っぽいのは、どうやら病気が発覚してのち上京して左翼活動に従事していたからなのかもしれません。


 こういう文学っぽい文学を読むと、文学っぽい文学も相当面白いですね……と懐古趣味に浸りそうになってしまうのが恐ろしいところですよね。
 しかし文学を本気で書くときは、やはり文学っぽい文学で書かなければ本気とはいえないのかもしれません!! うおお、教養と文学の密な関係性、しかしながら教養の不誠実さと文学の虚偽!!
7月8日

 うみねこのアニメが始まったらしいので、アニメイトTVで無料公開していた一話を見てみたんですけれど、想像していたのよりまともな出来でちょっと驚きました。
 しかしやはり、ちょっと大げさなアニメ的演出に違和感を感じてしまうというのがありますよね。うみねこは淡々と静かに進行していったほうが不気味な感じが出て面白いと個人的には思うのですけれど、しかしながら……いろいろ原作に忠実に再現するとなると静かに淡々とっていうふうにはいかなくってですね……ほんと困った!という製作者の苦悩って感じです。

「身の程をわきまえろ、このはした女が!」

 というところとか、もっと静かに威厳をこめてしゃべるべきで、そしてその罵倒に大げさに悔しがるほうもなんか違うなってほんと思います。そこはこう……真剣に驚いて目をまんまると見開いて相手をうかがい、そののち憎しみと恨みの視線を相手にそそぐべきところじゃないですか……と!


 しかしいいところもあり、原作のBGMをちょっと使っていたのはかなりポイント高いです。しかも原作BGMのなかでも結構いい感じのBGMをチョイスしているので、そのおかげで若干うみねこっぽさが増しているような気がいたします。

 なかなかうみねこ、続きが楽しみですね……! 具体的には、原作BGMがどれだけ使用されるか、どれだけ原作の「うわああああ!! か、顔があああ!!」と、顔が芝刈り機でぐちゃぐちゃにされた両親の死体をみたときのバトラの気分的盛り上がりを再現できるか、その辺が楽しみ!
7月19日

 時に宗教ほど空しいものはないですよね。
 主のための聖日礼拝は人間の宗教性をたもつために必要不可欠なものでありますけれども、礼拝によって宗教者が一同に会するというのはある種の博打だなと思わざるをえません。
 つまるところ宗教性というものをまったく感じさせないキリスト者ほど空しいものはない……という現実に対する失望があるのです。一方、真に宗教的・盲目的人間と会話できたときの喜びと充実は大きな糧となるのですから、ほんとうに今日の礼拝は乗るか反るかな……という博打そのもの。この俗世に、たしかに宗教的に生きてきた人間が牧師以外にもいるということのキリスト者の希望が、もしかしたら今日の日曜礼拝にはあるのかもしれないのです!

 で、今日は博打で負けた感じで、まったく無意味な礼拝(というよりはその後の昼食会)でございました。宗教という観念的理想を真実考えたことのないであろう人間たちの宗教的集いほど、無意味かつ悲しむべきものはありません。彼らはなんのためにキリスト者であるというのでしょうか。宗教性のまるで感じられない世俗的なお喋りに、僕はなんのために微笑するというのか。しゃべることのできない、障碍をもった方との精神的交わりしか、そのとき僕はなんら益と思うことができません……。

 そしてそんな彼らとの会話が億劫であるというこの感情もやはり罪と言わざるをえないのですから、恐ろしいことです。そう、愛する兄弟姉妹との交わりを否定したとき、自身の宗教性をキリストの慈愛より上位に置いたことになってしまい、それはやはり独善で、異端的精神と言わざるをえません。
 まさにキリスト教を信じるということは、そして彼らの全てを受け入れるということは、まさしく自分を殺すということなんですね。しかし自分を周囲より小さき者として認識し、ただ無力ある者として認め、それゆえ神をただ欲するという思想自殺的精神が、いかに獲得しづらいことか!
 賛美歌をうたっているとき、その歌詞の高潔な文学性に、その思想自殺的精神に、まさにほろりと泣いてしまいます……。彼らは本当に死んでいる。歌詞を執筆した彼らは本当に思想的にみずから死ぬことを欲している……!
 そしてそのとき、宗教性のかけたクリスチャンを見下している自分の偏狭さに気づき、彼らのために、彼らの会話のために微笑することがはたして思想的自殺の一端を担っていることに気づきます。……


 しかしながら、やはり教会で彼らのどうでもよい世間話に付き合っていると、精根尽き果て、ただ相槌をうって、視線をうつむけ、フフフと微笑せざるをえないのですが、それを「体調が悪いの?」と聞いてくる兄弟姉妹の優しさとその勘違い……。
 あきらかな孤独! そしてその孤独をみたすキリストとの思想的交わり。ステンドグラスを見上げて主を仰ぎみるほかない昼食会の、その現実と観念との限りない断絶状態に、不思議な無常観を感じてしまうばかりです。
 ああ確かに主よ、この世は試練そのもので、そして神の御国は近いようで遠く、遠いようで近い! 神よ!
7月26日

 健全な信仰とは何か…。
 中公新書の『死刑囚の記録』を読み、日常がすべて嘘でまみれていて、俺は無罪ですよ…と笑いながら虚言を呈する死刑囚や、大音量で読経をしていなければ爆発して無意識のうちに扉に蹴りを入れまくったり頭突きをしてしまう死刑囚の様子に感じ入りながら、この現代的賛美歌をニコニコ動画で聞いたのですが、もうそうなるとほんと、健全な信仰とは何かを考えざるをえない感じでした。

 彼らは口では――その歌詞ではたいそうなことをおっしゃっておられる。素晴らしき主は知と力と愛で天の御上よりわれらを統治せりとかおっしゃっておられる。しかしこのような現代的音楽で、現代的価値観で、元気いっぱいな自我を主張するかのような歌声で、はたして主の道からそれずに進むことができるのでしょうか……。歌っている歌手の人が普通にクリスチャンじゃないかもしれないのでほんと死ぬほど余計なお世話だと思うのですが、この感動的な曲に憤激を抱いてしまった感じです。


 クリスチャンは偶像崇拝を禁じております。偶像というのは基本的に他宗教を指すのですが、恐ろしいことにクリスチャンもまた自分のなかの「主」という偶像を崇拝するおそれがあるのです。
 まるで神社に参拝してご利益を求めるかのように、自分にとっての都合のよい主だけを崇め、みずからの罪に向き合おうとすらしない。慈愛の象徴としてのイエス・キリストだけを仰ぎ見、あたかも「自分はすでに完璧に救われている」と傲岸な思考に陥ってしまう(まったき罪からの解放、それによる聖化が人間の手には不可能であることを知りながらも)。われわれクリスチャンも、他宗教の人間と同様、いまだ不完全で未熟な罪にまみれた存在であるにも関わらず……。
 われわれは自身が不完全であることを強く自覚しているからこそ、イエス・キリストを仰ぎ、主よ再臨したまえ、アーメンとつぶやくはずなのです。

 思うに、主による清め・聖化の確信というものは、自分は罪びとであるという負の確信とイコールなのです。悪魔にそそのかされ主に背反した人間が、深い苦悩と絶望なくしてどうしてふたたび主のもとに帰られようか。帰ろうと決断しえようか。エデンの園の幸福を脳裏から忘れ去った人間たちが、どうして喜び勇んで主のもとに帰るのか。
 この世で喜ぶのならば、この世で喜べ。この世で清められるのならば、この世でまったき聖化を獲得せよ。しかしそうしたとき、主の再臨はまったく不要ではございませんか!


 上にあげた感じの感動的賛美歌は、人間の罪的性質がいっさい霧散したかのような錯覚を抱かせるので、もしかしたら危険だな……って思ったというわけでした。


 そんなことを思った日!
TOP > Diary > July
inserted by FC2 system inserted by FC2 system