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12月9日

 先日の日曜日、わたくしはとある超教派的クリスマスパーティーに赴いたわけでございますが、相も変わらず……人間的目線であえて申し上げますならば、おざなりなイベントでございまして、どうしてこの適当すぎるパーティーに出席する必要があるのでございましょう、との思いを強く抱いた次第でございます。

 しかしながら、わたくしはその後かつて学生伝道をやられていた方とふたりでガストに赴き、朝4時まで信仰とは何ぞやという話をさせていただきまして、結論として実りのある会合であったと思われた次第でございます。主の恵みに感謝でございます。

 わたくしは彼に問いました。
 その小柄で、一見弱弱しい外見をしておられ、しかし大胆な燃えるような情熱を胸のうちに秘しておられるその方に問うたのでございます。ベートーヴェンのごとき神を追求する情熱でもって、ベートーヴェンのようにフライドポテトをもぐもぐ情熱的に食べながら問うたのでございます。

「学生伝道とはいったいどのようになされているのでしょうか。実際問題、その伝道は高橋和巳『邪宗門』に出て来る<ひのもと救霊会>のごとき……いわば真実人間の救済、救霊なるものを志しておられるのでしょうか」

 もちろん彼は熱き信仰に駆り立てられ、学生伝道に励んでおられた方でございますから、高橋和巳はご存知でございます。

「ああ、うちの親が好きでしたね。おれは読んだことないけど……」

 と伏し目がちで微笑するレベルの高いお方でございますから、わたくしも精一杯高橋和巳の思想性をドストエフスキーと比較して語らせていただくような感じでございました。

「ドストエフスキーは最終的に救いの光へ導かれますが、高橋和巳は滅びの光へと登場人物が導かれていくのです。この異質なふたつの光、一方は救済、他方は地獄、しかしそれは双方ともまっこと光でございました。高橋和巳はこの地獄の観念こそが人間を救うものであると、罪を認め罪をそそぎに地獄に赴き、罪にまみれた地獄において善なるものを追求することこそ人間の宿命なり、と言われるかのようでございました。しかしその地獄への賛歌こそが高橋和巳の、人間的力に拠り頼む高橋和巳の限界であり、だからこそ彼は最期の病床において『遥かなる美の国』、いわゆるユートピア、天国を、紙面の上で現出させんと執筆しておったのでございます」

 というようなことを話しながら、わたくしは学生伝道団体KGKがはたしてそのように真に救霊精神に燃えて活動されているのか、お聞きしたのでございます。

「うちの人たちは本気でしたよ」
「本気……」

 わたくしは耳を疑いました。まさか学生風情が伝道に本気であったとは…! 本当に…生意気なことを申してしまいました……! といった心境でございました。

「しかし、彼らは本当に信仰面において成長されていっているのですか。わたくしは自らの信仰的成長を確認しつつ、種々さまざまな葛藤と苦悩を乗り越えてようやく主の道に進むことができました。彼らも真理の相対性を放棄することの恐怖・苦悩・葛藤、真理の絶対性を自ら決断して選択することの大きすぎる勇気をもって主と対峙されているのでございましょうか」

 彼は恥じ入るかのような微笑をもって、うつむき、おっしゃいました。

「KGKは2世がほとんどです。だから、おれたち1世のような熱烈な信仰はあまりもっていませんし、1世が抱く強い苦悩を経験してきていないかもしれません。ただ、彼ら2世の信仰は本当に純粋で、神様を素直に愛しています」

 このようなことどもをお話いたしまして、わたくしはおもむろに自分のバッグに閉まってあった創作ノートを彼に提出いたしました。
 その創作ノートの表紙には「キリスト教的救済物語」と題がうってありまして、わたくしは彼にクリスチャンとしてこのノートをどう思うのかを聞いてみた次第でございます。
 このノートには、いわばこんなことが書いてございます。

ーーー

○兄弟たちが夜、山に祈りに行くとき、ナオミはしかし呆然と部屋で立ち尽くしていた。デミアンからようやく手紙が来たのだ。

 ――『君は変わったね。君は優しさの欠落した出来損ないの神の産物に成り下がったよ。君は君の道を進みたまえ。僕は僕の道を行く』
 ――『だって僕は地獄行きの人間だからね、君の言うように!!』

・・・

○デミアンはレジスタンス活動のかたわら、乞食たちと一緒に父の財産目当てに帰省していた。そしてナオミの手紙を読んで胸がかきむしられた。

○父親は乞食とデミアンの前で必死に懺悔した。『お前はもうすぐ死ぬ。一緒に地獄に行こう!!』

・・・

○ドアがノックされる。兄弟からの祈りの誘いだった。ナオミは扉を開き、山に入っていった。そして思考の働かぬまま何かを懸命に祈った。神にひれ伏した。

○ナオミは神の聖徒に変貌した。光に包まれたように見えた。彼女は真に自己を殺し、謙虚に人間を――殺すべき異端としての人間を、悲しみにみちあふれながら火刑に処すべきだと悔い改めた。なぜならば、それはやはり悪だからである。

・・・

○火刑のシーン。
 ↓
 命がもえあがる。
 煙が多く出るよう配慮するナオミ。火をつける。
 死の香りが町の上空を漂い、雲ができて雨になった。
 黒焦げの死体に抱きつき、ナオミは魔法を使うが、異端者はやはり黒焦げのままだった。
 幼児のようにすすり泣く。なんという無力! 悪を善たらしめることのできない無力、また殺人を悪と認識してしまう心の無力!

・・・

○改心後のデミアンの演説。

 人は神のからだにあって一つであり、われわれの身体が様々な器官を有するように、われわれ人間もまた自覚的にせよそうでないにせよ、種々の賜物を神からいただいているのである。まずこの賜物に関する理解を明瞭にし、自分自身が主によって何を与えられているのかを吟味せねばならぬ。この理解によってこの世の強制的奉仕は無に帰すように思われる。
 しかしながら、自身の賜物を追い求めるのみでは聖霊にみたされることはない。愛を追い求めることによってのみ――その愛が神から与えられることを真に祈り求めることによってのみ、真実聖霊に……われわれは満たされうるのである。この愛は賜物にまさる道である。もっともすぐれた道である。
 『賜物がない』と自己に絶望しているものたちよ、あなたには愛の道が開かれているではないか。愛を追い求めよ。祈り求めよ。愛こそ神の道であり、愛こそ人を和合させる道であり、愛こそ賜物以上の力ある証しをなす道である。
 一方賜物に安住するものたちよ、愛を忘却せしものたちよ、なんじら何をもって信仰者とうそぶくのか。なんじら賜物をもって神の道を歩むものたちよ、へりくだり、無力ながら愛に生きる人間たちを省みよ。彼らのように生きよ。あなたたちよ、そしてわたくしたちよ、愛に生きよ。

ーーー

 まさしく文学愛好家にしか見せることの出来ない、非常に精神病の嫌疑をかけられるおそれの高い創作ノートなのでございますが、彼はこれを部分的に読み、こうおっしゃいました。

「これは見せる人を選ぶべき小説ですね」

 つまるところ、敬虔な人間の怒りをかうおそれのある小説だといわれたのでございます。わたくしはもちろん反論いたしました。これは神の栄光をあらわすためにわたくしが祈りをもって真摯に書き進めている小説でございますから、これを読んで不信仰だと思われる方は、少々読み違いをしているのではございませんでしょうか、と。

 それで一ページ目から読んでもらったのでございますが、そうすると彼は納得された次第でございます。なるほどなるほど、要は何のためにこれを書かれているのかを相手に示せば問題はないかもしれません、と。

「頑張って執筆してください」

 そうおだやかにいわれ、私はいわばぐうの音もでない状況に追い込まれたのでございますが、そう……すなわち、私はやはり小説は完成してこそ意味のあるものだ、と思った次第でございます。アーメン!
12月20日


 ●教会にて厳粛に撮影……でございます。

 今日はクリスマス礼拝の日でございました。
 私の教会における親友は障がいを抱えておられる40代の姉妹でございまして、私は彼女とにこやかに聖書のお話をして楽しんだ次第でございます。上の写真はプレゼント交換でいただいた姉妹からのプレゼントでございます……感謝でございます!

 姉妹は正直何をおっしゃっているのか分からない発音をされますので、非常に難易度の高い翻訳をしなければならないのですが、しかしながら……そのまったき純粋な信仰に感化されることを望んでおります私としては、彼女との対話の一言一言が貴重な財産となる次第でございます……。
 彼女は恐るべきことに、一日300回聖句を読み上げる信仰を有しておりまして、私はそれを聞いて彼女との信仰の差をひしひしと感じてしまったのでございます。御言葉を300回読む。私もまた、一日10回でもよろしいので、主の御言葉を読み上げていこうと存じております。

「ゆあさきょうだい、あれを おもいだしましたわ」
「何でございましょうか…」
「いえすさまの でしたちが あんそくにちに むぎの ほを つんでしまった ことに たいして いえすさまは それを みとめてくださったのよね」
「はい、確かに。弟子たちが安息日に麦の穂を刈り取っているのをパリサイ人が批判したとき、イエス様はダビデだって安息日に祭司しか食べてはいけないパンを食べたじゃないか。安息日は人の子のためにある、と言われました」
「ゆあさきょうだい すごいわあ よく おべんきょう されてるわ」 
「聖書を頑張って読んでますので! なぜそれを思い出したのでしょうか……」
「ゆあさきょうだいが ふくしょく(服飾)には あまり きを つかわないと おっしゃったからだわ」
「なぜそれが、弟子たちが安息日に麦を刈り取るのと繋がるのでしょうか」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

 その解答が私には聞き取れなかったのでございますが、しかしつまるところ……まったき確実な不幸のなかに真の幸福と信仰が内在しておりまして、その確実な不幸=幸福にみずから身を飛び込む覚悟をもつことこそが信仰でございますと思う次第でございます。
 確実なる幸福は、他の価値観をもった方々からみたとき確実なる不幸でございまして、しかしながらその確実なる不幸は確実なる幸福なのでございます。
 イエス・キリストを救い主と崇める人間は幸いでございます。また他宗教の熱心な宗教家の方々も幸いでございます。しかしながらわれわれイエスを神と信じる人間にとってその方々は不幸でございます。
 確実なる幸福と確実なる不幸。この2つの観念がぶつかり合っている現在は、おそらく悲劇としての時代なのでございましょう。

 いかなる手段がございましょうか、この確実なる全的幸福が人間を覆い尽くさねばならぬのでございますが、それはまさしく奇跡に等しく、イエスによってしか為しえない奇跡でございましょう。
 われわれの願うことは、ひとりでも多くの確実なる幸福者を増やしていくことでございます。その方々を絶対的真理という谷にみずから身をなげさせることでございます。

 イエス・キリストにあって共に死ぬということ。みずからの罪を殺し、主にあって新たな生命を生きること。これがやはり信仰でございまして、これがすなわちキリスト的愛を生じさせるひとつの契機なのでございます。
 しかし常に愛にあって生きることは難しい次第でございまして、小説においてその愛を描ききらねばと思っている昨今でございます。

ーーー

「兄ちゃん、兄ちゃんは何歳だね?」

 デミアンの祈りを興味津々に聞きながら、物乞いのひとりが話しかける。

「十六です」

 言いながら、デミアンは視線を上げ、そのひとの顔を見た。そして驚き、のけ反った。

 間近でみると、彼の相貌は異様だった。皮膚にうろこのようなヒビがはいり、それがささくれのように一枚一枚めくれ上がっている。その皮膚の上に無造作にひげが生えていて、眼には目やにがこびりつき、唇はがさがさだった。デミアンは思わず顔をしかめ、吐き気を催して目をそむけた。

 ――愛。
 ――愛だ。

 デミアンは目を伏せながら思考を爆発させた。冷や汗がどっと流れ、頭が無意味に混乱した。地震、まさに震えるような地震を感じた。

(愛を! ぼくに愛を、神さま!)

 固まるデミアンに、物乞いは愛犬の不作法を愛おしむように微笑んで、ハッハッハッ、と笑った。

「ハッハッハッ、若いなあ」
「……」

 グッと、膝の上でデミアンは汗ばんだこぶしを握りしめた。呼吸が激しくなり、泣きたくなるようなどうしようもない孤独と寂しさを感じた。

 愛が足らない。
 何にだろうか。
 しかしとにかく愛が足りない。
 ぼくにも、みんなにも、そしてこの人にも。
 愛が足りないからぼくは今緊張し、
 化け物をみるように目の前の乞食を怖がり、
 その悲惨さを目の当たりにすることができないのだ。
 神さまなら、異臭のする彼らを力強く抱き締め、
 そのささくれだった口の端に口づけするはずだ。
 そして泣きながら喜ぶはずだ。
《お帰りなさい、私の息子よ》



 みたいな感じでございまして、はい……。
12月23日

 本日は教会から車で2時間ぐらい離れたところにあるHさんのお宅で家庭集会が開かれまして、そこで今年2度目になるクリスマス礼拝を主に捧げた次第でございます。
 Hさんのお宅は秋田市よりさらに北でございまして、雪深い地域でございます。わたくしどもは零下の朝、雪のちらつく静謐な朝の山道を車2台でHさん宅に向かい、市内を離れるにつれて深さを増してゆく雪……これを眺めながら下の賛美歌を斉唱した次第でございます。

●キリストには代えられません



 Hさんご夫婦は双方ともクリスチャンでございます。旦那さんは27歳の頃に一夜にして全盲になり、それから教会に導かれ、洗礼をお受けになりました。64歳の今、がんの闘病生活をしております。奥様は葛藤のすえ近ごろ洗礼にあずかり、わたくしもまたその決意と救いにみちた涙涙の洗礼式にかつて出席いたした次第でございます……。

 やはり思いますことどもといたしましては、主は病める者や罪深い者、救いを求めておられる方々を招いておられるということでございます。
 わたくしは全盲のHさんにお会いするのはこれでもう3回目でございましたが、本日はじめて一対一で……福音について、またその方の苦難にみちた栄光の人生についてお聞きいたしまして、非常に深い感銘を受けた次第でございます。
 今まで何の苦もなく生活してきた自分が唐突に失明し、絶望しきったこと。教会の前任牧師に導かれて、教会に通い始めたこと。その牧師に盲学校に入るよう促されたこと。また牧師に今の奥さんを紹介され、見合いをし、ご結婚されたこと。
 わたくしはこれらのことを興味深く拝聴いたしました。Hさんは全盲でございますが、目はしっかり見開いて、わたくしをじっと見つめながらお話しするのでございます。

「針はな、汗腺に対して垂直に入ると、いてんだ。こう斜めにいれればすっとはいって痛くねんだ」

 Hさんはがんの痛みのためか、非常に聞き取りにくい発音をなされておりまして、かつ方言を使われるのでリスニングにかなりの労力を要します。わたくしは失礼を承知で何度も聞き返し、次第次第に翻訳をしていき、一時間ほどHさんとの会話に花を咲かせた次第でございます。
 わたくしとHさん以外の方々は別の一室で紅茶を飲んでおられました。わたくしとしましても昭和19年生まれのHさんの過酷な人生、模範青年として県から表彰されたりなんだりしたことや、ブルドーザーで山を崩して田んぼをつくったこと、タクシー運転手時代、全盲になってからの針師時代、これらのことどもが刺激的でありましたので、Hさんの濃密な過去を共有させていただくことに重きを置いた次第でございます。

「目がみえなきゃな、だめダ。だれが何やったかわかんなきゃ、なんもわかんネ」
「中途半端はいけね。一本、筋通さなきゃいけね」
「具合が悪い人の声は、ほんとに低い」
「頭にな、3センチか4センチ入るのよ、針は」
「半身にツボは365個あるんだ」

 非常に為になる会話でございまして、本当に行ってよかった……また若い人間と話すだけでこれほど喜んでくださるHさんのその後事を託す姿勢に、涙せざるをえなかった次第でございます。
 主にある兄弟姉妹の振る舞いは、やはり普通の方々の振る舞いとはどこか違い、充実した、確かな幸福を感じさせる……その気遣いと優しさは義務心から出たものではなく、まこと主の愛から出たものである、といった感じのものでござった次第でそうろう。


 帰宅後、アルヴェというところに寄りましたらどこかの団体が「諸人こぞりて」という賛美歌を英語と日本語を混ぜて歌っておりました。
 信仰をもっていないであろう彼らが主の御降誕を喜び褒め称える賛美歌を歌っていることに、まさしく主の万人に対する無限の愛を感じざるをえず、感慨深いものを感じた次第でございます。

●諸人(もろびと)こぞりて


歌詞
諸人こぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は 主は来ませり

悪魔のひとや(牢獄)を 打ち砕きて
捕虜(とりこ)を放つと 主は来ませり
主は来ませり 主は 主は来ませり

この世の闇路を 照らし給う
妙なる光の 主は来ませり
主は来ませり 主は 主は来ませり

しぼめる心の 花を咲かせ
恵みの露置く 主は来ませり
主は来ませり 主は 主は来ませり

平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ ほめたたえよ
ほめたたえよ ほめ ほめたたえよ
12月24日

「罪に鋭敏であるということと、愛に敏であるということ」

 私たちは罪に敏感でなければならないと考えております。そしてそれを実行に移そうとしております。これはおそらく敬虔なキリスト教徒にとって当然ともいえる神の教えでございまして、なぜなら神様が罪を犯した私たちをみて嘆き悲しむから……と思うわけだからでございます。
 しかしながら、キリスト教は同時に愛と赦しの宗教でもあるのでございます。ここにおいて、「罪」に敏であること(すなわち他者における罪に対しても敏であること)と、それでもその罪を犯した人間を「愛する」ということ、この2種の感覚の両立が求められるのです。

 私どものなかからは、やはり以下のような声があがるのでございます。

「カトリックは聖書的ではない教え(煉獄やマリアを仲介してのイエスへの祈り)があるので、認められない」

 たとえばその言葉に対して私どもはどう返答すべきなのでしょうか。罪に敏であるということは、人をして聖書的か非聖書的かの判断を全ての人間的営為に下すことを要求します。
 加えて「聖書的」という価値観は非常にあやふやであり、個々人の神理解、聖書理解に拠るところが大きいのではないか、という問題もあります。たとえ聖書に知悉している人間でありましても、はたして聖書をすべて理解しているかといわれればおそらくそうではないでしょう。聖書的か非聖書的かの境目は、まさしく神と一対一の関係で養われ導かれてきた個人的なもの、センシティブなものでありまして、だからこそわれわれは人の「非聖書的」罪を頭ごなしに糾弾せず、愛と赦しの精神をもって罪に向かっていかねばならないのだと思います。

 しかしその愛と赦しの精神が行きすぎると、このような事態が生じます。すなわち、とあるブログで書かれておりますように


「罪を犯した者を『さばいてはいけない』という間違った御言葉の適用をしてしまう教会や交わりがあります。罪を示し悔改めに導く努力を指導者も周囲もせずに、『教会は赦しの共同体』『赦された恵みに生きることが大切』とばかりに『悔改めなき赦し』が横行」する。


 このような事態が起こりうるのです。
 神様を悲しませないために、主の栄光を賛美するために、罪に敏であることがわれわれには必要でございます。罪を犯した者に悔い改めを迫ることを必要としております。
 しかしながら愛をもって人間に接することも――キリスト教が愛と赦しの宗教であり、すべての人間のために自らを死に渡したキリストにならうことを良しとしているからこそ、我々は必要としているのです。

 この2種の観念を両立させるには、やはり罪を犯している人間に対して、決して諦めることなく愛にみちた悔い改めを要求することできるかどうかにかかっているように思われます。また悔い改めたならば、その者を今までと変わらずにあたたかく受け入れる姿勢が求められます。
 その指針は、こと人間に対してはきっと有効でございましょう。確かに教会において明らかに非聖書的行為が横行しているとき、愛をもってその者に悔い改めるよう促し、またあたたかく迎えることは可能でございましょう。
 しかしながら、教義に関してはどうなるのでしょうか。

 カトリックは明らかに聖書的ではない教義をもっておりますが、しかしなぜ……そのような、罪を犯している人間に対して愛をもって悔い改めを促すよう訴えている「聖書的」な方たちは、カトリックに対して愛をもって悔い改めるよう訴えかけないのでしょうか。教義に関しては「これこれの教義は非聖書的」と断定できないところがあるからなのでしょうか。しかしながら、聖書に一切記述のない煉獄などは非聖書的といわざるをえないのではないでしょうか。

 教会内・教団内の身内に関しては「罪」と「愛」に敏であることを良しとしながらも、もしその組織を離れ、問題が大きくなるならば、われわれは「罪」に対する感覚よりも「愛と赦し」に対する感覚を重視すべきなのでしょうか。
 この問いかけに対する答えがもし「是」であったとしても、しかしカトリックというものは、プロテスタントにとって本当に同一組織ではないと言い切れるのでしょうか……。


 私が思いますに、つまるところ、愛をもって接することがもっとも大きなキリスト教精神である――今の感覚で言いますと、この一語に尽きるように思われます。
 罪に敏であるよりも、まず愛に敏たれ。
 愛は自身の罪を許さないが、他者の罪を許す。しかし罪を犯した加害者を許すと同時に、愛は罪の被害者たる方々を心底憐れみ、同情し、慰める。その二律背反の結果、二度とその被害が起きないよう真実からの悔い改めを加害者に、愛をもって要求する。  カトリックの教義に関する問題などは、それが聖書的に間違っていると認識はされても、しかし愛からの視点はイエス・キリストを賛美する人々として彼らを理解し許容する。

 我々は愛すべきである。その愛の感情の支配のもと、罪に敏たれ。愛の意識は罪の意識にまさるべきである。しかしながら、愛なき罪意識に救いがないように、罪なき愛にもまた救いがない。罪の消滅した(すなわち真理の相対性を容認した)位置には、絶対的真理をつかさどる救い主なる神の余地がないからである。
 愛と罪は同時に存在せねばならず、かつ、愛は罪に勝る。われわれは人をどうやって許し悔い改めに導くかという愛の関心事を、その罪意識のもとにあって常に苦悩し、いかなる方法が愛にみちたものであるのかを自問自答していかねばならない。
12月27日

 今年最後の主の聖日を迎えましたけれども、礼拝後の昼食会を済ませたのち、来たる1月13日にインドネシアの奥地に再出発される宣教師の方の、その派遣式に数名の教会員と牧師とともに出席いたしました。
 派遣式は終始厳粛かつ穏やかな空気が流れております。
 スーツをびしっと着込んだ牧師のみなさん、ラフな格好の信徒のみなさん、参列した30名ほどの人間たちはみながみな微笑を絶やしておらぬのです。しかしながら、緊張が漲っておるのです。
 神の御前に集まる微笑する人間ども。そして決して侮辱されてはならぬ、本心からの祈りの会合……。未開の地、イスラム教徒の地での宣教というほとんど身命を賭した聖なる奉仕者を派遣する会合のその緊張……これが静かな礼拝堂に漲っておりまして、7度の70倍他者を赦すであろう微笑と、死を恐れぬ者どもの妥協せぬ緊張。礼拝堂の空気はこれこそクリスチャンであるといった様相を呈しておりました。
 つまるところ、主の御前に集う人間どもの和解、そして使命をともにした者たちによる一致の空気が流れていたというわけでげす。

「あなたは宣教師としての務めを主が召されていると信じておりますか?」
「はい、信じております」

 自分といたしましては、神様に向かって一つ一つ宣教師の方が誠実に宣誓していく様子に感動した次第でございます。
 そのとき、参列者一堂は起立しておりました。そしてその視線の先には、講壇の前で頭を垂れ、静かに直立しておられる、もう白髪に頭を染めた宣教師夫妻がおられるのでございます。

 その方はご夫妻ともに25年もの月日をインドネシアでの奥地で聖書翻訳事業に関わっておられます。
 インドネシアはイスラム教の地でございますから、少数派ではありますけれどもイスラム過激派の方々がキリスト教徒の村に焼き討ちをかけたり、教会を焼いたり、学校を焼いたり、そして宣教師の方のビザが出なくなったりと、まさしく異文化・異言語・異なる宗教、異なる風習……海外宣教の困難に直面することたびたびであったようでございます。
 しかし、いかなる困難があろうともすべては主の御旨であり、主の試練でございます。宣教師の方がまさに青年のように初々しく、内に秘めた熱き情熱と静かに動揺せぬ使命感によって、うやうやしく神に誓いを捧げるその様子に、私は主の前に砕かれた人間の精神そのものの純粋さ、素直さ、可憐さ、そういったものを目の当たりにした次第でございます……。

 ルーテル教会の海外宣教部門部長、この方はまだ30代で、年若い私にも気さくに話しかけてくださるのですが、この方のメッセージも実に熱に満ちたもので、キリストの愛の福音を宣べ伝えることの熱情を感じた次第でございます。

「時代によって変化するものはあります。しかし、不変のものもあります。それは祈りです。あるいはキリストのうちにある完全な愛です。『自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい』これがキリストの愛です。私たちもそうありたい完全な愛です。人の態度によって自分の態度を変えない。人の顔色をうかがってしまうのは誰しものことで、特に私にとって本当に人の態度を気にしないというのは難しいのですが、しかしこれが私たちの目指す愛なのです」

 ――宣教師を送り出してそれで終りではありません。その後、かつてパウロを支えた無数の祈りと支えと励ましとをもって、これをもって彼らを送り出しましょう……。


 式では、フィリピンの奥地で完成した現地語の新約聖書を祝う「献書式」の様子も映像で流れ、これにもまた感動した次第でございます。
 カトリック、ルーテル、ペンテコステ、教派だけではなくカトリックとプロテスタントの垣根をも超えた現地での盛大な献書式。祝会は村民主体で行われ、喜びにみちておりました。そこには押し付けがましい教派意識などみじんもなく、ただ遠くから近くから民族衣装をまとって駆けつけた村民たちが、ともにキリストを賛美しておるのです。
 そしてまた、日本の牧師も宣教師としてその奥地で牧会をしておられるようで、フィリピンの方々がわれわれのために「威光・尊厳・栄誉」を日本語で斉唱してくださっている様子にも感動でございます。

 非常に勉強になった派遣式であり、なおいっそう世界宣教のために祈り求めていかねばならないなと決意を新たにした次第でございます。


 その帰りの車中で牧師に2月の神学校受験を受けさせていただけるかお聞きしたところ、まずは伝道者としての献身の前に「教会献身」を体験せねばならぬ、と言われた次第でございます。
 大規模な教会で、教会の従者としての雑務を数ヶ月から一年ほどこなしていくうちに、教会の仕組みや牧師の職務、煩雑な人間関係を学ぶことができるようでございます。その後神学校の試験を受けるのが慣例らしいのでございます。
 教会献身には2パターンがあり、財力のある教会でフルタイム献身するか、お昼はバイトして生活費を稼ぎ、それ以外は教会で過ごすかのパターンがあるようでございます。
 主にある生活、主にある直接的な奉仕というわけで、私としては俄然霊の糧となってまいりますが、いつ、どこの教会につかわされるかは謎でございます。
 しかしながら、いかなる困難も信仰成長の修練でございますので、完全に無私なる精神生活を送るために今から祈っている次第でございます。

 以下は今日礼拝で賛美し、まさにその通りだと感心した泣ける賛美歌でございます。日本語がなかったので英語でございます。

 ●主がわたしの手を


 1.主がわたしの手を 取って下さいます
   どうして怖がったり 逃げたりするでしょう
 
 (折り返し) 
   優しい主の手に全てを任せて
   旅ができるとは 何たる恵みでしょう

 2.ある時は雨で ある時は風で
   困難はするけれど 何とも思いません

 3.いつまで歩くか どこまで行くのか
   主がその御旨を 成し給うままです

 4.誰もたどり着く 大川も平気です
   主がついておれば わけなく越えましょう
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