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8月1日

 『恋におちたシェイクスピア』という映画をDVDで借りて見てみたんですけれども、普通に面白かったですね……こういう恋愛映画だったら見てもいいかなって思いました。分かりやすくたとえると、モーツァルト的天才のシェイクスピアが恋愛にうつつを抜かして、「ああ、朝日のような君の美しさに月は嫉妬で青ざめている…」とかいうような感じの詩人になって、くだらないとされていた芝居に悲劇という要素を取り入れ大衆を感動の渦に叩き込んだ……というような感じです。すごい!

 なんとなく『ロミオとジュリエット』や『十二夜』とかのシェイクスピアの戯曲が読みたくなる映画でしたが、昔の人は本当に娯楽がなかったから、シェイクスピアの劇も非常に刺激的で面白かったんだろうなって思います。
 おそらくシェイクスピアの戯曲を読むときは現代人の感覚で読んではならず、あたかも16世紀から17世紀の貧乏人が芝居小屋ではじめて娯楽に出会い、ああこんな世界もあるのか…、と役者に憧れを抱き、またロミオとジュリエットのふたりはほんとうに可哀想だったな……と善良な犯罪者が泣いてしまうような気分で読むべきものなんだなって思った感じでございます。

 大体点数的には76点! 優には届きませんでしたが、十分楽しめました。あまりにも先が読める展開なので、その登場人物たちの「入れ替わり」や「なりすまし」の喜劇的面白さを安心して享受できる反面、やや起伏に欠ける展開だったかなって思います。
 しかし2時間の間ほとんど退屈せずに見ることができたので、説得力とドラマ性には太鼓判を押せる感じです。とくにシェイクスピアが貴族的存在のヒロインに出会い、結ばれぬ愛の『ロミオとジュリエット』の構想を思い描きはじめるあたりの主人公最強系的描写に燃えるところがありました。

 シェイクスピアが好きな人、とりあえず昔のヨーロッパの不衛生っぽい感じの描写が好きな人、主人公最強系が好きな人はみてもいいんじゃないかなって思います!



 ちょっとシェイクスピアでニコニコ動画を検索してみたら、藤原竜也の狂気のハムレットが載っていたので見てみました。マジ演技力ありすぎてびびります……。  こりゃあ確かに藤原竜也にはカリスマ的演劇才能があるなって思わざるをえなく、藤原竜也のハムレットならマジ観劇したいなって思いました!
8月9日

 2007年にアカデミー賞の外国語映画賞をとった『善き人のためのソナタ』(リンク先は日本版予告、この予告はいろいろ勘違いさせるのですが一応ご紹介。「愛」とか「自由」とかあまり関係のないことを言ってるナレーションに衝撃を受けました)を見てみたのですけれども、これが名作で驚きました。
 ベルリンの壁が崩壊する前の東ドイツの監視国家としてのあり方を描いているんですが、反体制的な劇作家を監視する党の一員の、その劇作家を昼夜問わず盗聴していくうちにひそかに進行していく苦悩。その煩悶と葛藤とをおさえた演出、主演男優賞レベルの静かな演技力で見事描ききった……という感じです。
 とにかく静かで淡々とした映画なのですけれども、それだけ説得力があってまさにラストでは感動せざるをえません。日本人もこういう文学的芸術と一般的感動の融合した映像作品をつくれるようにならなければな……って思います。

 そんなわけで久しぶりに名作に出会ったような、しかしそれでいてあまりの静けさに名作というよりは良作の頂点に君臨すべき作品ともいえなくはないなって思うのですが、点数として81点をあげたいと思います。
 いわばシンドラーのリストは完全に名作ですが、シンドラーのリストを縮小させたような物語で、かつシンドラー的感動で僕らの心を捉えて離さない…という点で名作というよりは映画の感動をよく分かっている良作の頂点、というような感じです。

 でもほんと、映画っていうのは最近見た『エレファント』や『JFK』『マルコムX』とか社会的な硬派なものよりも、こういう人間的感動と良心を伝えてくるものを見るために自分は見るんだなって痛感です!
8月13日

 『麦の穂をゆらす風』といういつかのカンヌでパルムドールをとったらしい映画を見てみました。固いつくりで究極的に面白みに欠けるといえるのですが、確かにそれが打ち出す重厚な雰囲気と悲劇的なテーマはパルムドールに相応しい……いわば知識人として確かに賞をあげなければならないという強迫観念が生じるような映画でした。

 お話としては、イギリスに超絶に占領されていたアイルランドが独立戦争としてゲリラ的に戦ったところ、経済とか政策とかの独立は勝ち得たのですが、しかしながらイギリスの一部としてイギリス国王に忠誠を誓わなければならなかったのです。
 IRAの現場レベルの人たちは悲憤慷慨、「俺たちは納得してない!」「今、条約を批准してしまったら俺たちはもう今現在の力を永久に失ってしまう!」と嘆き悲しみ、その条約を批准したアイルランド体制側に反発。
 少し前まで仲間としてイギリスと戦っていたアイルランド人同士が血みどろの内戦を繰り広げ、顔見知りで名前も知っている――体制側と反体制側とで分かれた元仲間と本気の戦争をおこないます。

「ミホーロフ!! なんてことを……丸腰のダンを後ろから撃つなんて!!」
「手を上げろ! 手を上げろ、デミアン! お前も撃つぞ!!」

 少し前はイギリスが行っていた大衆を省みない暴力的な圧制をアイルランド体制側がおこない、民衆は「恩知らず! あんなに匿ったり、食事をさせてあげたのに!!」と泣き喚く……


 というような悲惨な感じが、まったく面白くないのですが、これは確かにパルムドールだな……という感じです。
 とくに主人公で医者かつIRAの主要メンバーのデミアンが、密告した幼い友達を泣きながら銃殺したところが泣けてよかったです。

「遺書は!?」
「な、ないです。母は字が読めないから……。愛してると伝えてください」
「……」
「……怖い、怖いよデミアン。……。し、死んだらあいつの隣には埋めないで……」
「丘の上の礼拝堂を覚えてるか!? あそこに埋めるからな……」
「わ、わかった……テディにごめんって言っておいて…」

 まだ大人になっていない幼い友達を処刑してから、デミアンは決して妥協できない、イギリスからの完全独立としての理想主義的革命の道をひた走ることになる……という感じです。
 アイルランド問題の原点をこの映画でみた、というわけなのですが、今のアイルランド情勢をよく知ってれば普通に興味津々に面白いんだろうなって思いました。


 というわけで、最後に「麦の穂をゆらす風」予告編を貼って終わり。善き人のためのソナタと違って、映画の感動がよくわかる予告編となってて素晴らしいMADだなって感じです。
8月14日

 今日はなんと洗礼記念日でして、といっても何もお祝いとかはないんですがとにかく洗礼を受けてからちょうど一年経った日、というわけなんですね。
 教会で洗礼を受けたのは2008年8月14日木曜日でございました。今と同じお盆休みの真っ最中で、暑い日でしたがスーツを着て教会に赴き、そして教会員の方々にお会いしたのも洗礼日が初めてでございました。(普段早朝礼拝を捧げておりましたので)
 みんなの前で前日にしたためた決死の信仰告白文を読み上げたのも懐かしくあり、あれからもう一年経ったのか……と感慨深いものがございます。
 今その信仰告白を読み返してみますと、たいそう未熟な信仰心でありまして、しかしながら真理をキリストイエスのうちに求めようとする求道者としての熱心な性質は伝わってきます。

「自分はいまだイエス・キリストの愛を完全には悟っておりません。しかし真理は必ずイエス・キリストのうちにあると、自分は確信しております」

 という危険なにおいのする文章に、おそらくは教会員の方々も内心眉をひそめただろうと思われるのですが、会社を辞めて日曜礼拝の通常の時間帯にこられるようになってからは、彼らの大きな兄弟愛によって信仰というものを一歩一歩学ばせていただいた次第でございます。

 とくに自分は論理的に納得しないと先へ進めない人間ですので、ただ感情的に納得するだけで信仰の道を歩んでいく姉妹たちの……まさしく一時の感情で崖から身を投げるような、その可憐な夏の花のような馥郁たる信仰心に、多くを学ばせていただきました。

 全てにおいてバランスが大事です、というのは教会の牧師さんの口癖のようなものなのですが、感情と論理がいわゆる車の両輪となって相調和せるとき、ようやくまっすぐ神の道を進んでゆけるというわけですね。
 自分には感情面における信仰が足りず、すなわち何か問題が起きたら全てイエス様に縋りつこうとするそのイエス様との密接な不可視の紐帯に欠けていたというわけでして、今はだいぶイエス様との祈りを通した交わりが出来てきたのではないかと愚考しております。
 しかしながら、自己改革を強行に推し進めてきた自分だからこそ、ときに思わざるをえません。彼らは、あるいは牧師さんでさえ矛盾する言動をとると……すなわちバランスに欠けた言動を取ると……

 最近は後学のために礼拝ノートをとっているのですが、そこでもいつものようにwrite-downしていたのですが、そう、礼拝中こんな例話を牧師さんはしたのです。

ーー

 あるときクリスチャン夫婦の娘がやかんの熱湯をかぶってしまいました。そのとき、父親は「Ice,Ice!!」(氷、氷)と叫んだのですが、しかし妻はあわてふためく夫に向かって

「It's not ice, but Jesus」と言ったのです。つまるところ「氷を求めるのじゃなく、イエス様を求めるのでしょ」。わかりやすくいうと、氷をあてるより先にイエス様に祈らなければだめでしょ? ということですね。

 僕はもうこれを聞いて愕然としました。何いってんだ、確かにそんな数秒放置しても火傷は進行しないのかもしれませんが、わが子の火傷を見て「氷じゃなくてイエス様でしょ」と言うことのできる人間は、なんというかレベルが違う信仰心だな…という感じです。それこそ「神癒」という奇跡を信じているのだな、と。

 愕然とした自分は、わずかの憤怒の色とともにノートにこう書き留めました。

「私が思うに、祈りが先で行動が後ではない。祈りつつ動くのが大事なのではないか」

 それこそ車の両輪のように……。祈って立ち止まっていたら右か左に大きく旋回し、同じところでぐるぐる回ってしまいます。そしてそののち祈りながら行動したとしても、まるで見当違いの方向へと進んでいってしまうはずなのです。
 まず最初からして、祈りながら行動せねばならぬ。娘のやけどをみたのなら、祈りながら氷を求めて冷凍庫に走らねばならぬ。
 この例話をまるで良きことのように語る牧師さんに、自分は矛盾を感じたというわけです。日ごろ牧師さんの口にする、「バランスのとれた」例話とはまったく思えぬ、と。


ーーー


 話が批判的な方向にずれていってしまいましたが、つまるところ信仰という「拠り頼む心」はバランスが命なのです。もともとノンクリスチャンで、20歳に洗礼をうけた牧師さんはそのことがよく分かっておられます。しかし分かっていながらも、「論理」の車輪をはずし、「感情」の車輪のみで走ってしまうのが信仰の危険なところです。
 またその逆もしかりでございまして、感情を捨て去り、論理のみに生きるクリスチャンは救いの御業、その偉大なる奇跡を信じていないも同義です。万人の救いを信ぜずして、なにゆえクリスチャンたるか。われわれクリスチャンは、イエスの再臨による万人救済を心から信じてはじめてクリスチャンなのです。

 さらにまた、僕個人としては、われわれプロテスタント少数派の福音派もまた教会一致運動を推し進めるべきだと考えております。教義の違いが何か、その些細な教派意識が何か。聖書にもあるではないか、自分はパウロ派だ、自分はペテロ派だ、自分は〜〜派だと分派することほど愚かなものはないと。
 なぜ福音派は主流派たる日本基督教団と関係をもたないのか。またカトリックと関係をもたないのか。自分のみぞ正しい信仰だという偏狭な誤解がそこにはあるのではないか……。



 そんなわけで、洗礼一周年記念として、自分のこれからの信仰方針を固めてみますと、こんな感じです。

 ●イエス再臨信仰の強化
 ●聖書主義に基づく万人救済の探求
 ●ノンクリスチャンに対する伝道活動の推進
 ●教会一致運動の推進
 ●他宗教に対する消極的寛容

 とくに「地獄に行く人間はいるか」というのが、いまだ拭えぬ探求すべき疑問です。地獄に行かぬように布教活動を進めているにも関わらず、地獄に行く人間がいると決め付けてしまいましたら、もはやその人間を「地獄に行ってよし」と見捨ててしまったも等しいではありませんか。キリストイエスは誰をも愛しておられ、また憐れんでおられる。
 イエスから見捨てられるというのはありえることなのか。
 神様は平等に機会をおあたえになる。そしてその機会を蔑ろにしたため地獄に落ちる、この見解は果たして正しいのか。まったき正義の神としてのイエス、そしてまったき赦しの神としてのイエス、この相反する側面を抱かれておられる主なる神は、われわれ人間をどうお取り扱いになるのか。

 オリゲネスはかつてこう言いました。聖書は字義的解釈と寓意的解釈、そして象徴的解釈の3つの方法で解釈すべき書物であると。僕はこの言葉ほど説得力にみちた、またバランスのとれた言葉はないと思うのですが、どうでしょうか。

 信仰が徐々に深まりつつある現在だからこそ、その死後異端と認定されたオリゲネスの言葉の示唆に様々気づかざるをえない昨今でございます。オリゲネスは誰よりも真に神を愛したからこそ、被造物たる全人間を愛さざるをえず、見捨てることができなかったのです。
8月16日

 聖書のイザヤ書を読みながら金曜ロードショーの『火垂るの墓』をみたり、あるいはなぜかアニメ化していた『Phantom』を見てたりしたのですが、ほんと……アニメってなんだろうってふと悲しげに微笑してしまいました。

 火垂るの墓を見ているとアニメとは普遍的リアリティを追求するためのメディアだなって痛感し、また役者の表情を自由に描くことのできるところが監督さんのやりがいに繋がるんだろうなってその表現方法に無限の可能性を感じます。
 しかし一方ファントムを見ていると、アニメというものは火垂るの墓のような万人に理解される「普遍的リアリティ」というものを追求する気がまったくなく、いわばアニメというジャンルにおいてのみ通用する、そのためアニメファンからは深く支持されるであろうマニアックな表現方法と文脈を求める道へと……孤独の道を突き進んでいってるように感じられます。
 なんで監督さんはこんなありきたりなアニメらしい演出で満足できるんだろう……なぜもっとリアルなファントムにしないんだろう……。自分だったらレイジの覚醒シーンはもうBGMとかいれず、レイジを遠くから映して、素人のはずのレイジが鉄パイプとかでアインに襲い掛かっている暴力的な犯罪者としての姿、それにひるむアインを遠くから盗撮してるかのような感じで撮るのになって……。暗殺者って、実は犯罪者なんだよって感じで。

 確かにアニメには多様な作品があってしかるべきだと普通に思いますし、万人の心に訴えかけるっぽい普遍的リアリティを内包した作品はジブリとかに任せておけって思うのですが、けれどもやっぱり万人の心を揺さぶらないかぎりそのアニメは歴史から消え去ってしまうであろうことは想像に難くなく、つまるところその存在に価値が見出されないまま潰えてしまうんだろうな……というこの悲劇的末路に思いを馳せざるをえないのでございます。



 かつて創作することを生きがいとする友人、高校時代の友人のキノさんという方に、僕はこういうふうにその内心を聞きました。

「べつに歴史に残るような作品をつくるつもりはないんだよ」

 僕はそれを聞いて大いに号泣し、悲辛を含んだ顔つきでチャットの文字をぼんやり見つめました。

「読んでくれる人が少しでも楽しんでくれればいいんじゃないだろうか」

 そう内心を吐露する彼に、やはり創作というものの悲劇を感じざるをえなかったのです……。創作物というものはもはや自分の分身のようなものです。その創作物に対し、創作者が「塵芥となって掃きだされて結構」という悲しい思いを抱いてしまうことに、僕は人間存在のはかなさを見出さざるをえませんでした。キノさん!

 今更ですが、思うに、やはり創作物というのは歴史に残るつもりで描かねばならぬのです。歴史に残るつもりで描かぬのなら、なぜ描くのか……。大衆をして唸らせる作品を描かぬのならば、なぜ自分がそうまでして一所懸命に描かねばならぬのか。……


 いまどきのオタクが好むアニメというものはおそらくまったく歴史に名を残すつもりで作っておらず、大衆に迎合できればよい、大衆が暖かく迎えてくれればよい、予算やスケジュールやなんやかんやの都合から、あきらめながら製作しているオーラがひしひしと伝わってまいります。まるで表現方法に無関心な、こんな感じでいいんじゃない? というオーラが……。ほんとかつての世界名作劇場やエヴァやガンダムのごとき名作をつくろうという気概がまったく感じられぬ!
 アニメをまったく見ていないのになぜそこまで断言できるのか自分でも徐々に不思議になってきましたが、『うみねこ』とかを見ているとそう思ってしまう次第でごぜえます、へい、アニキ……(ファントム)。

 そう、うみねこのアニメとかは、大衆の求める水準にさえ届いていないんじゃないかとかさえ思うのですが、つまるところ大衆に迎合するようにつくられた作品は大衆以下になってしまうのではないでしょうか。
 大衆の度肝をぬく、万人をして面白い、あるいは深いと言わしめる作品を作ろう作ろうと意識した作品が、結果エヴァみたいに大衆に迎合されるのであって、大衆を意識してつくった作品は大衆以下の児童向け番組になりはててしまうのではないでしょうか……。中高生たちが身体を震わせて嗚咽しながら「神」と絶賛し、大人たちがその横で「神じゃなくてぎりぎり可に入る、単位がもらえてよかったねっていう感じの作品じゃないでしょうか」と思うような……子供と大人で評価の幅があるアニメ『ひぐらし』みたいになってしまうのではないでしょうか。


 アニメというものは、正直申し上げますと大人が見るものだとは到底思えません。僕もまたファントム面白いな〜って思いながら、こんなのは大人のみるものじゃない……という思いを、カレーをむしゃむしゃ食べながら戦々恐々として抱いてしまいます。
 火垂るの墓とかは大人になってようやくその悲惨さを正視することのできる内容だと思うのですが、ひまわり動画で流れるファントムのコメントをみてみると、ほんと……年端もいかない児童や生徒が「渋い」「かっけえ」と目をまんまるにしておっしゃっておりまして、僕は「こんなもの見てないで、映像の世紀でも見ていなさい!」と言論統制をしたくなってきてしまうのです。激怒したくなってくるのです。お前にはまだ早い! 今は座禅を組んで精神を鍛えるべきときだぞ!って。

 ほんとの渋さというのは火垂るの墓で清太くんが見せる声を必死に押し殺した泣き顔であり、かつ清太に抱きかかえられた節子が清太に真っ赤なスイカをそっと食べさせてもらい、「おいしい……」と関西弁のアクセントで瀕死ながらも微笑する姿であり、あるいはエヴァのシンジくんの「綾波?」って振り向くときの、心底不思議そうな声のことを指すんだよ。あるいはファントムでいうならば、原作のレイジくんを指すべきであって、アニメのレイジくんはそりゃあまあかっこいいけど、やっぱりそんなにかっこよくないよ……と。


 中高生は知的レベルを高めるため、上へ上へとその精神と知性を鍛えていかねばならず、中高生ぐらいでようやくパソゲーの面白さがわかるんじゃないかと思います。中高生はアニメなどみる暇がありましたら、ギャルゲーでもしてなさい! kanonとかAirでもやっていなさい! ただし、感性の下劣なパソゲーはプレイしてもまったく無益ですので、熟慮のすえ自分を育てるであろう作品を選んでほしいところです……決してショコラやパルフェなど得るもののないゲームをやらぬように……そう願うばかりです。

 そういうわけで、うみねこの新作を河戸さんに送ってもらって、うみねこをプレイしようと思います。いちはやく大人になることを目指して……!
8月17日

 すげえ……うみねこエピソード5を約10時間、死ぬほど徹夜してやったんですけれど、もう裏お茶会の展開に度肝を抜かれてしまいました……。竜騎士、やっぱり竜騎士は読者を裏切る才能とSS的才能が図抜けていやがる! ってほんと中学生から30歳ぐらいまでだったら燃えざるをえない展開で面白かったです。
 こりゃあ次作が楽しみといわざるをえないですよね。

 そんなわけで、エピソード5は想像どおりというか、ストーリー的には全然想像と違ってびびったんですがテーマ的には予想通りでした。悪を否定する善たるバトラがついに「愛」を獲得し、悪をその根本から理解します。悪は悪にあらず、真に愛情をもって慈しみのまなざしで人をみれば――

「魔法って、……やさしい、嘘、だったのか…」

 っていう感じでバトラが魔女と魔法について共感し、その殺人者たる立場にみずから立つことを決意。これによって悲しきベアトリーチェとの自己同一化を図ろうとするという泣ける展開でした。

「愛がなければ魔法は視えない」

 劇中で散々言われていましたが、約9時間ぐらいの展開のすえやっと裏お茶会の残り30分で「愛」を獲得したバトラはまさしく無敵。ここまで主人公最強系なのはフェイトの士郎くんぐらいだった……ってぐらい、士郎くんが黒セイバーをやっつける以上の成長を遂げてしまって笑ったって感じです。


 次作では、肉親たちをめった殺しにする連続殺人犯――自分を殺す人間にでさえ泣きながら「人間の尊厳」を見出しうる愛を獲得したバトラが、殺人者たるベアトリーチェの側に立ち、彼女のかわりに殺人行為を自らの手で行い、そしてその罪すべてを一身に引き受け、ベアトリーチェという《罪悪》に対する誠実な愛を描くっぽいので、まさしく……なんでしょうか、すべて罪の消えた黄金郷――すなわち万人の天国へといたる道がついにバトラの手によって開かれたといった按配です。


 でも振り返ってみると、エピソード5は、全体的になんだか善悪二元論に対する抵抗というよりは、言ってみれば真実・虚実二元論への反発みたいな……、うみねこの謳い文句だった「ファンタジーVSアンチファンタジー」の趣旨の解説みたいな内容でちょっと不思議な感じでした。一応うみねこという作品自体の存在意義を訴えているのですが、おいおい竜騎士、そんなこと言ってたらうみねこの博愛主義、万人救済主義がまた霞んじゃうのではないでしょうかって思いました。
 しかし、そういう「この世界において異なる真実は同時に成立しうる」とか、「その真実を全員が否定するなら、俺だけはそれを信じつづける」とかいう、いわばマスメディアに操作される大衆の哀れさと、真実は自分がそれを見捨てないかぎり感じ真実でありつづける的主張もギャルゲーにしては斬新で面白かったです! 竜騎士ほんと頑張れ…って感じです。

 竜騎士はほんと頑張っているので、総合的にうみねこをひぐらしより優れた作品に位置づけることを、勇気を出して決断してみたいと思います……。うみねこはひぐらしより思想的に優れすぎているので、もう他の部分はいいや…って感じです。

 うみねこエピソード5は名作で89点!
 うみねこはその優れた思想性から、雰囲気だけの奈須作品とかとは比較できない領域に立ち入りつつあると思うのですが、90点に届かないのはひぐらし目明し編に比べると泣き所が少ないため……
8月21日

 最近の塾的マイブームはじつのところ英語ではなく社会だったりします。
 もうほんと社会って面白いなって思うのですが、今やってるところが社会の歴史、それも第一次大戦とかなのです……。もうまさに垂涎としかいいようがない単元ですよね……おいおい、俺にやらせていいのかよ……って感じです。

 参考書的なことをテキストにそって教えながら、やはりそうなると……真の教養人たる中学生を育成するため、いかに戦争が興味深い分野であるかというのを喋ってしまいますよね。悲惨を直視せよ、人間の悲劇を知れ……と。
 一次大戦については塹壕足や、塹壕で精神がおかしくなってしまって軟体動物のように意識せずに身体を動かしてしまう病気、開戦初期と後期では装備がまったく異なるということ……これらを憂鬱な顔で話し、また第二次大戦にうつりますとついつい日本兵について嬉々と話してしまいます。
 初年兵が先輩から受ける過酷なリンチ、そして思考力が低下していくことを「垢抜けした」と言われること、あるいは徴兵逃れのために醤油をがぶ飲みすることや、また「戦争とは歩くことである。足が腐ろうがとにかく歩くことである」という感じのことを……あるいは他の生徒を放っておいても力説してしまう始末です。
 そして最後に原爆について生々しく解説し原民喜の『夏の花』、井伏鱒二の『黒い雨』をおすすめして終り……という意味不明の授業、しかし自分としてはあーよく喋ったなという授業を終えます。すると次の日担当の生徒のひとりがさっそく『夏の花』を購入して読書に励んでいたりして、僕は死ぬほど感動しました。


 戦争に共感できるか否か!
 原爆の話に衝撃をうけ、「先生、原爆の本を教えてください」と聞いてくる子がいる一方、やはり戦争とか歴史とかほんと興味ないんですっていう子ももちろんいます。
 悲しいことに、やはり感受性のある人間、すなわち戦争体験をみずからのもののように感じられる感性と、戦争にまるで関心のない人間とで分かれてしまうみたいなんですね。
 過去と現在を繋げてみることができないといいますか、原爆を受けるとどうなるんだろう?って不思議に思わない子といいますか……。

 戦争とは関係ないんですが、この前こんなことがありました。
 中1のちょっとのんびりした女の子に、いかにネアンデルタール人とクロマニヨン人が絶滅をかけて闘ったかという血肉沸き踊る話をしたのです。だけれども、どうもその女の子には死体を埋葬する習慣のあったネアンデルタール人の悲しみがぴんと来ないようで、うんともすんとも言いません。へ〜、それで結局何が言いたいんですか?ってな感じです。
 ……想像してみなさい、サルが仲間を土にうめて花とかを添えたりして埋葬してたら、泣けるでしょ? って僕としては泣かざるをえないのですが、なんかその感動がうまく伝わらないみたいなのです。

 今思い出したのですが、その子の反応があまりに薄いので、「どの時代が一番好き? なんか話してあげるよ」って親心といいますか、歴史に少しでも興味をもってくれれば……と思いまして、武市半平太の三文字に切腹した泣ける話でもしてあげようかなって感じでにこやかに聞いてたのでした。

 そうしたら「明治……」っていう儚い微笑が、あいまいな声とともに返ってきます。
 「明治ね……」

 明治とくればあれしかないということで正岡子規の写生文についてや、森鴎外が過去の助動詞「し」と伝聞過去の助動詞「けり」をいっしょくたにした「〜た。」という過去形をつくったこと。これが偉いんだ! まさに革命だよ! という話をしたんですが、中一のその子は本当に微笑して無言。 僕は……中一ってほんとだめだなって思いました。中一はそれこそネアンデルタール人レベルだなって。


 こういう経験を何度かしていると、もしかして僕の歴史知識というのは中学生に受けないんじゃないか……と茫然自失となってしまうのですけれども、しかし冒頭でも述べたように、歴史に興味のある子もやっぱりいるんですね。  頭のいい利発な中2ぐらいの女生徒に奴隷貿易の話をしてみると、これがやっぱり受けるんです。黒人と白人の差別をめぐった闘争、最近仕入れたマルコムXの知識やERで得た知識を動員して、黄色人種は黒人と白人の間を取り持つべき人種である……みたいなことをいうと、「そうですよね」と優しく言ってくれるのです。
 ほんと、話に共感するって大事だなって、その中学生の純粋で優しげな台詞からコミュニケーションの基礎を再確認しました。相槌って大事だなと。相槌によって人間はサル以上の存在になりうるんだなって。
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