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4月2日

 賜物という言葉がキリスト教の世界ではよく使われるのですけれども、この「賜物」という言葉ほど自分にとって違和感のある言葉はなかなかございません。

 たとえば「賜物」はこんな風に使われます、「いやーやっぱり○○君は良い賜物をもってるね」と。神様から与えられた突出した才能、贈り物を祝福する意味で使われるんですね。ただ単純に褒めるとそのひとが増長しちゃうおそれがございますので、その才能は神様からのプレゼントなんだよ! とその人に対し謙虚になるよう、自惚れるのではなく神様に感謝するよう示唆する言葉でもあります。


 この「賜物」という不思議な語感のする褒め言葉は、自分のなかでは恐ろしいまでに反キリスト的な言葉なのですけれども、しかしキリスト教に長年親しんでいる方ほど「賜物」という言葉を自然に受容し、また使ってしまう傾向にあると思われますので、僕としてはますます不思議であり、また胸の痛む思いがする次第です。

 というのも、やはり大前提として人間は神の前に等しく平等である、という考え方がどのクリスチャンにもあるはずだからなんですね。同時に、善人であろうと赤子であろうと殺人犯であろうと…神の御前において人間は等しく死に値する罪人であり、神を差し置いて罪人が罪人を裁くことはできない、という考えもそれに付随します。人間は、すべからく罪人であるという罪的性質をもって平等を獲得する、というわけです。

 そこで、罪人たる自覚を強くもったクリスチャンは人間に対する判断・評価を留保いたします。なぜならば、この世は肉の世であり、われわれは肉の身体をもっているのであり、クリスチャンが真に評価すべきはわれわれの眼にみえない精神であるからです。いかに父なる神を慕い、追い求め、敬虔であるか……その内面を抱えた個人にしか、あるいは神にしか判断できない精神を。

 身体をもったわれわれに、罪人であるわれわれに、他者の精神世界、他者の行為における善し悪しを知ることはできません。
 しかし、それならば何をもってキリスト教徒は「賜物がある」と他者を評するのか。何をもって他者を批評し判断するのか。信仰者らしい態度、ふるまい、敬虔ぶった顔つき、言動……? われわれは自分の眼で他者を判断しえないからこそ、自らを卑しい者とし、自分以外の全ての人間を自分より優れた者と認めるべきとしているのではなかったか……

 「賜物」という言葉は、神への感謝をうながす言葉であると同時に、人間が人間を評価し、優劣をつけてしまう言葉でもあります。
 われわれクリスチャンは人間を決して差別(判断)してはならないはずなのに、どうして「賜物」などというキリスト教用語を使って人を褒めるのか。言葉をどう変えようとも、それは人間が人間を断罪していることに等しいのではないですか……。それはもはや偽善に等しいのではないですか……


 まさしく判断を留保せよ、エポケーせよ! とフッサールっぽいなって感じなのですけれど、やはり安易に「賜物」という言葉を使うのならば、とにかく全員を褒めまくるしかないのかなと思いました。会う人間すべてに「あなたには賜物がありますね」と言えば、神の御胸――自身の姿に似せて創るまでに人間を愛された神の御胸に矛盾していない……んじゃないかなと思います!

 そしてその「賜物」は当然信仰者以外の人間に対しても使わなければならない言葉であり、信仰心があるから賜物も当然ついてくるという信仰者にとって都合の良い論理を振りかざすことだけは、われわれが取ってはならない行動だなと思いました。



 しかしこの日記も、人と言葉を非難しているという意味で反キリスト的なので、ほんと説得力が皆無! クリスチャンのブログを読んで、ちょっと思うところがあって書いてしまったというわけですね。主よ、お赦しください!
4月5日

 今日もやっぱり礼拝に参加させてもらったのですけれど、思考的に充実した礼拝の時間をもつことができ、色々考えることがあったのでなんとなく「信仰についてのメモ帳2」を追加!
 要点だけ簡単にいいますと、@宗教は自己ではなく他者を救うことに存在意義があるんじゃないか、A各宗教や各教派を比較して、どちらがより正しいかを考えることにそれほど意味はないんじゃないか。(比較すること自体はある一派の意識的信仰者として当然すべきだとは思いますが…)

 特にAの考えが今までの自分の考えとはちょっと違う感じですので、礼拝に参加できてよかったなーって思います。


 そんなわけで、Aの考えを喚起した礼拝のメッセージは以下のようなものでした。
 
 ある夫婦に共産党員の旦那さんと、カトリック信者の奥さんがいたんですね。旦那さんは奥さんと子供が教会に行くのが本当に嫌で、理解できなかったのですけれども、あるとき(まだ若かったのですが)病気になってこう弱音を吐くのです。
「自分の信じる思想では目の前の死に太刀打ちできない」

 僕としてはこの時点で、何と生ぬるい共産党員か…と一喝してやりたい気分なのですけれど、しかし死の恐怖に弱い人間というのはやはりいるものですので、そういう恐怖に、やはり若かったこともあったのか旦那さんもとらわれてしまったのです。

 そんな気分のとき、奥さんと子供は旦那さんの前で賛美を歌いながらこう言います。「求める者は、誰でも天国に行けますよ」。で、「そうか…」という感じで旦那さんは病床洗礼を受け、クリスチャンとして亡くなりまして、お葬式はキリスト教式。
 もちろん葬式には共産党の役員さんとかが出席してくるんですけれど、彼らは旦那さんの棺に赤旗をかけることを希望するんですね。それに司式を執り行っていた牧師が「いいですよ」と承認し、赤旗と十字架が両方乗せられた棺で旦那さんは眠りについたと……

 宗教や宗教的観念というものはおそらく「他者の救済」が究極的かつ唯一の目的であるはずで、その論理の正当性について逐一言及することはもしかしたら枝葉にこだわる視野の狭い行為であるのかもしれない、と思った次第です。
 他の宗教がどうであろうと、ある一派に属する信仰者はその信仰にそって他者を救済すればいいのであって、他宗教に対する論理的言及は信仰者として為すべき義務のひとつではない。


 自分は今までのところ、キリスト教の気に入る教義と気に入らない教義を念頭において、そして平等の視線を保とうとしながら他宗教を比較検討していたのですけれども、そもそもこの考えがどこかおかしいということを直感いたしました。
 信仰についてのメモ張2でも書いてありますが、決断してなかったんですね。気に入る気に入らないの問題ではなく、決断するしないの問題であり、決断したのならそれを信じて突き進むべきなのです。そして迷いが生じたらまた決断しなおせばいい……、こういうことを、かつてイエスを信じると牧師さんの前で宣言したときの気持ちを、思い出した次第でございます。

 どの宗教も同じ目的をもっているのなら、キリスト教を信じた自分はキリスト教をあえて決断したのであって、キリスト教を受け入れなければならない。実際はまったく同じものなのに、隣の芝生が青く見えるからといって羨ましがってちゃいけないんですね。
 信仰者というものは、ある思想観念を「信じる」と、同じ決断をくだした他宗教の信仰者にシンパシーを感じるべきであり、攻撃的な感情を抱くなんてのは……きっと本来ありえないはずなのです!
4月10日

 何か…何か忘れている気がする……とドラゴンボールのOPで高校生っぽい悟飯が自転車をこいでいる姿を拝見しながら考えていたのですけれど、なんというかそうですね、きっと「懺悔」について考えていたのだなって思いました。

 やっぱりDBファンとしては、何よりも水面下で勃発しているはずの悟飯と悟空の親子間の確執にこそ眼が行ってしまうじゃないですか。悟空やベジータ、ピッコロは本当に異星人的性質を純粋にもっていて、とにかく相手をぶったおして侵略することで本能を満たしている。
 正直自分を理解しない地球人のこととかどうでもよくって、弱者とか社会とかには全く興味がなくって……ただ自分の力を磨いて他者を屈服させることしか念頭にない。だからこそ、世間的な価値観に興味がないゴクウは毎度毎度死んだりなんだりして地球を救っているんですね。ほんと偉すぎて頭が下がります。

 一方悟飯はそんな暴力的な父親の精神を理解できず、暴力はただ弱者のために振るうべきだという姿勢を貫いている……だから悟飯は死なないのです。いわば社会的価値観を重視するあまり、社会にこだわり、社会の一員たる自分にこだわり、つまるところ生命にこだわっている。死を恐れないゴクウの仲間のなかで、唯一死を恐れているキャラといえるかもしれません。

 ゴクウはきっと、才能はあるのにその力を伸ばそうとしないそんな悟飯を歯がゆく思っていて、ほんと悲しいのです。微笑の裏で「悟飯、オメエ一度も死んでなかったのかァ!!」という死を経験していないことの憐れみの視線を悟飯に送っていたはずなのです。
 ――自分の身体を瀕死の状態まで痛めつけて、仙豆を食べて復活し、そしてまた瀕死の状態に追い込むという修行をゴクウがしていたのはフリーザ戦のころでしたが、そういう修行を悟飯が今までしたことがあったか! 地球の100倍の重力下で、骨がひしゃげる修行を悟飯はしたことがあったか! ほんと実際のところ、悟飯は何もしていない!
 ゴクウがセル戦とかで「悟飯、もっと本気で闘え!」っていう感じで憤るのも、もう自然な流れですよね……。


 けれど、まさに奇跡なのは、そんなゴクウと悟飯の正反対の性質が、どういうわけか一周して一致するという事実。
 このオープニングを見ていただければ何となくぼんやり確認できるんじゃないかと思いますが、ほんと、悟飯のほほえみはゴクウのほほえみであり、悟飯の精神はそれでもゴクウの精神なのです。
 悟飯がキントウンに乗り――そして幼いゴテンがその悟飯の後ろから微笑みながら悟飯に抱きつく。その構図はまさしく悟飯が幼いころゴクウにしがみついていた構図で……ゴクウが誘拐された悟飯を助けるために必死になって駆けずり回っていた頃の構図で、なんてこった、悟飯はゴクウが死んだときゴクウと化すのか! と死ぬほど衝撃的です。
 もう悟飯のキントウンの乗り方、その表情と姿勢はかつてのゴクウと瓜二つ。体格までもが、あの筋肉質ではなかった頃の……ラディッツ時代ぐらいまでのゴクウの体格に酷似している。もしやゴクウ的性質とは、青年時代までのゴクウのそれなんじゃないか。ゴクウ的DNAはもはや悟飯にしか存在していないのではないか!

 (省略)

 そう、ゴクウの戦闘を求める姿は、本来ゴクウ的とはいえないものなのです。

 子供時代の純粋さ、あどけなさ。青年時代マジュニアとギャグをまじえながら闘っていたときのヒョウキンさ、悟飯を守るための人間らしい必死さ。それらがいつの間にかゴクウの中から消えている……
 ほんと、ゴクウが戦闘のことしか考えなくなったのはフリーザ戦以降のような気がしてなりません。昔のゴクウはもっといろいろなものに好奇心があった!

 (長いので中略)

 ゴクウはつまるところ血に負けたのです。……しかしそれでもゴクウが強いのは、幼少時代に経験した、地球人的な「人のための戦い」があるからこそなのかもしれません。ゴクウの原点はやっぱり幼少時に頑張った、地球全体のためではない、まさしく個人的な人助けですよね!
 ゴクウがいつまでも支持を失わないのは、その頃のゴクウの幼い笑顔、ブルマやウーロンとの、亀仙人やクリリンとの微笑ましい人間的接触があったればこそ……!



 で、ほんとこのゲームのプレイ動画で構成されたドラゴンボールMADを見て、ほんと確かに一般人は戦闘力5で、ゴクウたちは戦闘力百万とか一千万レベルだな……ってその戦闘の激しさにびびったので、リンクを貼って終わります。
 最初のプロローグのところの2分までしょぼいのですが、その後の戦闘シーンがあまりにも漫画のドラゴンボール的で感動です……再現度が半端じゃない!


 ――そのおかげで、オラはこの地球に来れたんだ……感謝しなきゃな!
4月13日
 今週の日曜は実を言うと「イースター」というキリスト教的に重要なお祝いの日でした。イースターとは、キリストが十字架にかけられたのち、三日後に死人のうちより蘇ったことを記念する復活祭のことでございまして、ほんとのところクリスマスよりも重要な祭日です。

 もちろんいつキリストが蘇ったかなんて聖書には書いてないので、春分の日の後の、最初の満月のすぐ後の日曜日……という取り決めによってイースターの日が決定されるんですね。それで今年のイースターは4月12日。卵の殻に彩色をほどこしたイースター・エッグとか有名だと思うのですが、イースター・エッグをたらふく食べてお祝いです!

 自分の通っている小さな教会も、イースターやクリスマスとかには学生さんの友達が大挙して押し寄せてくれますので、ほんとワイワイガヤガヤと賑やかになります。
 僕は年配のクリスチャンの方と聖書の無謬性について語り合ってヒートアップしていたので、今回はあまり学生さんたちとはお話できなかったのですが、ほんと、イベントの時だけでも大人数でお祝いできるのはありがたいことです……。
 中には新一年生で、聖書研究会に入ったばかりのクリスチャンも来てくれたりしまして、その驚くべき若さと謙虚さには何か感じ入るものがあります。若者たちよ……自分を振り返ってみても大学一年生といえば死ぬほど若者! 特に真理を求める立場にあるキリスト教徒として、根性出して先輩に反抗したり、読書をたくさんして自分にとっての真実に近づいてほしいところであります。


 で、「咲」という今ハヤっている萌えマージャン漫画の3、4巻を立ち読みしてきたんですが(1、2巻はなかったので未読)、ほんとその微妙な面白さにびっくりしました。いわば面白いんだけど面白くないという……複雑な漫画ですね。
 つまるところ読まなくても支障は全くないけど、家に置いてあったら全巻読むな、でも毎週立ち読みしようとは全く思わないな。っていう感じの漫画で……『まほらば』とかと同じ印象を感じます。
 木多康昭の『喧嘩商売』が、今の自分がもしかしたら一番心待ちにしている連載作品ですが、その面白さを5としたとき、『咲』は2ぐらいかな……っていう淡白な面白さ!

 ただ、作者の麻雀に対する見方がかなり現実的で、その辺がかなり共感できるつくりになっています。たとえば半チャン2回の点数を競う場合、別に実力者が必ず勝つわけではないとか、もう本当にデジタル的に確率のみで戦うことを良しとする人もいれば「場の流れ」とかそういう得たいの知れないものを敢えて計算にいれる人もいるという……かなり中立的な、バランスの取れた麻雀漫画だなって思います。
 あるキャラの麻雀の特訓の仕方が、プロ雀士の牌譜を一打一打再生してみて、自分の考えと違う捨て方をしたときの理論的考察……みたいな感じで、まさしく囲碁・将棋みたいな正しい特訓法だなって感心しました。

 しかしもちろん、物語を盛り上げる上で、非リアルな天運をもった哲也的キャラもいるんですね。しかし上手いことに、そのキャラ中心に話を進めるわけではなく、平凡だけど凄腕の脇役キャラたちの普通の麻雀を見せてくれ……それをざっと簡単に解説してくれるという、この親切設計なあたりが従来の(哲也とかアカギとか)麻雀漫画にはない良いところだなって感じです。
 でもほんと、その辺の描写がケーブルテレビでやっている麻雀のプロリーグの試合を見ているような気分にさせてくれ――というか3、4巻は麻雀の全国大会の様子をテレビ放送で流している感じでしたので、ほんとうにそのまんまケーブルテレビの番組で、普通に面白いです。


 ちょっと色々褒めてしまいましたが、萌え女子高生キャラを全部男にしたら、作者の個性のない物語展開とキャラづくりが露見してしまい……瞬間的に打ち切られる漫画であることは言うまでもありません。そういう意味で、記号的なキャラ萌えだけで読ませている、本質的に面白い漫画とは言えない漫画!っていう感じでございます……
 しかし、ほんと……あの麻雀プロリーグを髣髴とさせる静かな進行と淡白で現実的な解説は特筆に価すると思うので、僕としては結構うまい漫画だな……と思う次第であります。
4月16日

 『智代アフター』というギャルゲーのOP曲はほんとに創作意欲を刺激する音波を放っているなって、ついついオリジナルSSを書き始めてしまうぐらい思うのですが、しかしギャルゲーほど不思議なものはないなって、そのMADを見ながら思いました。

 どうして僕らはギャルゲーのファンタジー性に真実の一端を垣間見てしまうのでしょう。まさしく万人が善を善と認識しうることの奇跡が俗っぽいギャルゲー内にも普通に起きてしまっていることに衝撃を感じます。
 というよりも、キャラクターの全てがなぜか「善」に見えることの奇跡……。全てのキャラクターがなぜか「善」にしか見えず、和解と平安を望むかのような微笑を終始貼り付けているのです。まさしく理想郷の住人たちの悲しい笑み……!

 彼らの笑顔をみると、もうこちらからさっと目をそむけざるをえませんよね。なぜか彼らは無知かつ無垢であり、人を疑うことを忘れ、犬のような恐ろしい目でこちらを凝視してくるのです。同じ二次元の漫画とかでは特にそういう感想を抱かないのですが、しかしなぜかギャルゲーですと、不思議と……彼らの平和を求める表情に「わかりました」と手に汗握りながら頷いてしまうのです。
 まさしく君たちに罪はない! という感じで…。

 そんなわけで、いかなる人間の苦痛や不幸も結局は「善」という観念に収斂する…みたいな感じの人間賛美な『智代アフター』を、ふたたびプレイしてみたくなりました。自分がKEYを評価するのは、究極の善的観念――どんな人間でも「善」と認識しうる状況と物語――を頑張って模索しているからかもしれない、と今ふと思ったのですが、智代アフターもそういう感じの話らしいです。
 とりあえずぜひともこの智代アフターのプロモ的MADで、彼らの和解を求める善人らしい顔つきを眺めていただきたいな…と思う次第です。まさにすごい顔をしています! きっと人間たちは、和平を求めるための理想的表情を二次元で表現しようとしているんだな……と感じ入ってしまうような顔で、人間たちの本能的SOSをひしひしと感じる顔つきでございます。
4月22日

 図書館で賛美歌名曲選CDを借りるついでに、ルターの『キリスト者の自由』も何となく借りてみました。

 で、悲しげな賛美歌をヘッドホンで爆音で聞き、たましい的にノイローゼ状態になりながら読んでみたのですが、もうほんと色々再確認させられる本であることは間違いないなって感心です。
 つまるところ真摯なキリスト者がもつであろう関心を、やはりルターさんはよく分かっていらっしゃるな……という感じでして、そのピンポイントすぎる話題展開に、キリスト者の本質を垣間見る感じでございます。

 つまるところ、『キリスト者の自由』は以下の出だしで始まるのです。



「『キリスト教的な人間』とは何であるか、またキリスト者にキリストが確保してあたえたもうた自由とはどんな性質のものか、・・・これを根本的に認識できるように、私はまず次の二命題をかかげたいと思う。

 キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。  キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」



 この、なんだかよく分かりませんが絶対的自信と確信とに裏づけされているルターさんの断言口調に酔いしれるほかございません……。
 以前一年ぐらい前にちょっとだけ立ち読みしたときは全然この本のよさがわからなかったのですが、新約を全部読み、旧約も半分以上読んだ今は、この本の重要性がよくわかります。
 あまりにも良いことを言っているので、10ページ読むのでさえ一時間ぐらいかかって読み込んでしまうのですが、もうまさにキリスト教信仰の本質・本質・本質! 本質のみしかわたくしは論述しません…的なルターさんの姿勢に共感いたします。

 行いはすべて死んでいること。行いは偽善と欺瞞を決して排除できないこと。人間の魂は行いによっては益されず、害されず、ただ神の言葉によって充足されるということ。
 悪や後悔の念を意識させる人間の良心・善性というものは、(キリスト教的には)律法と戒律によって教えられるものなのですが、しかし律法や戒律、道徳といったものは私たちに何の助力もしない。確かに善行を示唆し、なすべき道を指し示すが、しかしこと行動する場面においてそれが私たちに働きかけるものは一切ない。
 では、私たちはどうやって戒律を守りえるのか……。
 ただ信ずるのみ。神の言葉を信じることが全てである。人は何かを心の底から信じたとき完全になる。ただ信じたとき、戒律は用をなさず、ただ祝福と救いがたましいに充足する……。悪と罪を喚起させるだけの律法や戒律から自由になること、これが本当の意味での自由であり、キリスト者の自由なのである……みたいな感じです!

 今はキリスト者の自由について述べているところを読んでいるのですが、そのうちキリスト者の愛についてルターさんが頑張って述べるらしいので、本当に楽しみです……
4月24日

 キリスト者の自由を読破。やはりクリスチャンにとっての必読書というべき、まさしくキリスト教信仰を端的に表した名著だなーって感じですね。
 キリストに対する信仰がいかに死、罪、地獄を打ち滅ぼし、かわりに何の代価もなしにただ一方的に生命と自由と義が与えられるか……。この神の慈愛と祝福を感動的に記述している点、ルターが最も重要視したパウロによるローマ人への手紙と結構内容的に似ているのですが、ローマ書に感動する人だったら確実に感動できる信仰書ですね!

 どうやらルターは新約聖書の中でも、ヨハネ福音書・ローマ人への手紙・ペトロの手紙第一の3つの書をキリスト教信仰の根幹を示す重要な書として認識しているようですが、確かにキリストの行いや歴史よりも、その行いや歴史が何の意味をもっているのか分かりやすく解説してくれる「ローマ人への手紙」や「ペトロの手紙」のほうが重要かもしれないなって感じです。

 ただ、ちょっとヨハネ福音書はかなりファンタジックなので……あまり最初に読むべき聖書箇所じゃないとは思います!


 で、信仰書もなかなか面白いじゃないですか…と感動したので、次はルターと並び宗教改革の代表者カルヴァンの『信仰の手引き』でも借りてこようかなって思います。カルヴァンはどちらかというと『キリスト教綱要』のほうが有名なんですが、キリスト教要綱の要約版みたいなのが『信仰の手引き』らしいので、キリスト教綱要は死ぬほど長いので当然短いほうをチョイス。

 そのあとは小説に戻ってバンヤンの『天路歴程』か、あるいはミルトンの『失楽園』かを読んで、そののちアウグスティヌスの『告白』、パスカルの『パンセ』、キルケゴールの『死に至る病』とかを読んでみようかなと画策中でございます。いったん神学らしい神学から離れて、ちょっと息抜きって感じですね。

 ほんと、とりあえず面白い本は24とかプリズンブレイクと同レベルで面白いということを痛感したというわけで、なかなか活字媒体も捨てたもんじゃないですね!
4月27日

 ルターの「小教理問答」やルターの評伝を読んでいるんですけれど、なかなか興味深いといいますか、本当に農民とかの教養のない人たちに向けて書かれている「小教理問答」の素朴さに泣きました。

 たとえばこんな感じで書かれています。



  十の戒め
   お父さんは家の人たちにこれをいかにやさしく教えるべきか

 第一
 あなたには、ほかの神々があってはならない。
 (お父さん)これなあに。
  私たちはどんなものよりも、神さまを畏れ、愛し、信頼するのだよ。

 第二
 あなたはあなたの神の名をいいかげんに唱えてはならない。
 (お父さん)これなあに。
  私たちは神を畏れ、愛するのだ。だから、神さまの名をあげて呪ったり、誓ったり、魔術を行ったり、嘘をついたり、騙したりしないで、どんなに困った時でも、いつも神さまを呼び求め、祈り、たたえ、感謝するのだよ。

 第三
 あなたは安息日を聖くせよ。
 (お父さん)これなあに。
  私たちは神さまを畏れ、愛するのだ。だから、説教や神さまの言葉を軽んじないで、これを聖いものとし、喜んで聞き、学ぶのだよ。



 まさしく凄い素朴……理由など一切関係なく、とにかく神さまを愛するのだよ、信頼するのだよ、神さまがお前を守ってくれるのだよ……と優しく諭すお父さんに泣かざるをえないです。
 こういう風に教えられているからこそ、愛する人間が悲惨な出来事に遭遇したりすると、「神よ、なぜ!!」と神さまに向かって泣き叫んだりする人間が出来上がるんだろうなーって思いました。

 そう、ルターも幼い愛娘が病気で死ぬとき、神に向かってはじめて嘆願したのです。「神よ、すべてあなたの為されるままに。ですが、あなたがもし娘を生き返らせてくださるなら、どうか主よ、あなたの為されるままに!」と……キリスト信者の健気さはまさしくドラマチック…!
 さらに、ルターと娘がこんな会話をされたとも言われています。

「天国で神さまに会えるんだよ。死ぬことは辛いけれど、悲しいけれど、しかし喜ぶべきこともあるんだよ。お前は嬉しいだろう…?」
「うん、お父さん」

 なるほど、なるほど…みたいな感じでございます。


 あとはそうですね。ルターの生涯も波乱万丈で、普通に面白くてびびります。
 宗教改革のときの命をかけた審問会において、ルターが一歩も引かずに神の福音を説き……論争相手と教皇に異端だと認定され破門され、事実上の死刑を下されたときの熱い議論。この場面ではやはり手に汗にぎらざるをえず、なにか宗教という観念的な問題に生命を賭すルターに、文学を志して文学に死ぬ感じの文豪を思い出すような按配です。

「わたしは、聖書と明白な理性に基づいて説得されない限り、自説を取り消すことはできません。……わたしの良心は神と神の言葉にしばられているのです。わたしはなにも取り消すことができないし、また取り消そうとも思いません。なぜならわたしが良心にそむいて行動することは危険ですし、また正しくないからです。わたしはここに立っている。そしてわたしはこのほかの何事もなすことができません。神よ、わたしを助けたまえ。アーメン」

「ルターは自由意志を否定する異教徒であり、かれの教義は騒乱・戦争・殺人・キリスト教界の崩壊などに寄与する。……なんぴとも、ルターをかくまってはならない。またかれに従う者も罪に定められる。かれの著書も人びとの記憶から根こそぎにされなければならない」

 ルター、破門さる! つまりルターをリンチして殺しちゃっても、全く罪に問われないような感じになった! って感じですね。
 しかし…本当ルターの生涯は読んでて歴史小説的で面白くって、なんかすごいなって思います。ローマの聖階段に、四つんばいになって一段一段ごとに主の祈りを唱えて頂上までのぼれば魂が煉獄から解放されるという教えがあるんですけど、ルターが素直にそれをやって頂上まで登りきったあとの……ふとした疑問の一言。

「これで霊魂が救われることを誰が知っていようか」

 まさしくその通り!って感じです。…
4月29日

 今日は前の職場の先輩とその奥さんに、なぜかどこかのビルの最上階で豪華なお昼ご飯をご馳走させていただき、その後「仁別国民の森」とかいう得たいの知れない場所を文化人のように談笑しつつピクニック的に徘徊してきたのですけれども、やっぱり人間らしい優しい人間、ザ・人間とでもいうべき……宇宙人に人間の代表として紹介したい人間はいるんだな……、とその先輩夫婦とお話しして思いました。
 おそらく僕が年上の人間に対して付ける点数のなかでも、最も高い評価を獲得しているな……という感じです。伊達に年はとっていない、30代も半ばという年齢なだけあってとりあえず人間がでかいのです。

 何気なく素で無礼な発言をしても、

「シット! ははは、相変わらず上から目線だなー」

 とアメリカ帰りらしく笑ってスルーしてくださったり、「いやー奥さん、旦那さんが会社辞めちゃって大変ですね、ははは!」と殺されても仕方のないギリギリの冗談を言っても、先輩は「うわっはっはは。いいんだよ、主夫してるから」と大きな体躯を揺らして笑うだけ、そして奥さんは

「トモくん(旦那さん)と結婚してすぐの時はすれ違いが多くって」

 と看護師らしい微笑を浮かべ……その俗世を超越した優しき精神に僕は泣いたって感じです。


 で、ご飯も食べ、ピクニックも終わり、別れ際に「今度はうちに遊びに来いよ」という感じで握手したのですけれど、ほんとその人間の知性と学歴がそのひとの人生と人間性を左右するわけじゃないなって思ったということでした。
 むしろ彼らは知性や教養や学歴では決して得られない精神を、どうやってか獲得している! そしてその精神ほど人間として生きるうえで貴重かつ不可欠な財産はおそらくありえないんじゃないか……と黙考する感じです。


 今書いてる小説で一般人のことを悪し様に罵っている自分が恥ずかしくなってくるといいますか、こんな小説を書いてちゃいけないなって思いました。


「――あの部落で火事が起きたとき、彼らは今みるような無軌道さのついでで、野次馬しに出かけたのだろうか。あの純粋らしい微笑を浮かべて、まるで桜の花を指差すかのように……火事で焼け出されて逃げ惑う、焼け死んでいく僕たち兄弟を指差していたのだろうか。焼け焦げていく彼らの匂いに、鼻をつまんで指差していたのだろうか。
 それだったら、僕はとてもとても、人間らしい人間になれそうにない。おそらく無邪気な彼らのうち誰か一人に灯油を浴びせかけ、マッチをこすり、そして業火によって焼死させ、その火によって焚き火をし、『暖かいね』と手をこすりながら微笑でもしない限り、今の僕は人間ではないだろう」


 こんな警察に捕まったら大変になりそうな文章を書きながら、しかし先輩に対して謝らざるをえないですね! 人間たちよ、人間で、それでいて全ての善人たちよ……人間はなぜ人間と呼ばれるのか!
4月30日

 お友達から「咲-saki-」(ニコニコ)のデータを1巻から5巻までいただいたので読ませてもらったのですけれど、これがまた……「咲」はその辺の漫画よりは確かに面白いかもしれない、と評価を改めさせていただかざるを得ないような雰囲気です…恐ろしい!

 いわばガラスの仮面的に言わせてもらうならば無個性の個性……。
 作者の自我が崩壊し、今まで培ってきたであろう観念も崩壊し、文学を愛してるっぽい精神も崩壊し、編集者の操り人形のように機械的に1ページ1ページ絵を描いているだけに見えるその無個性な作風は、かつて漫画史上もっともSS的な漫画として僕のなかで一世を風靡した『煌羅万象』を彷彿とさせます。
 つまるところ人間的汚点を一切感じさせない漫画とでもいうのでしょうか……作者の自我から離れたそれらの作品内容は、いってみれば人間の醜い側面からも乖離しておりまして、紙面でニコニコ笑っているキャラクターたちは紛れもなく純粋かつ潔白。いわば無知なのです。そしてキャラクターたちが自己の記号的役割以外にとことん無知であるからこそ、物語は純粋に物語としてのみ機能し、一切の躊躇なしにどんどんどんどん先へと進んでいく。……読者が知りたいと願っている先に!

 作者性の欠如、記号的キャラクターの氾濫、典型的なストーリー展開。これら3つの要素はたぶん動物化する感じのポストモダンの3種の神器ですけれども、しかしこれら3つの要素と化学調味料(作者の人柄)が上手に合わさった時はじめて万人をして「美味い」と言わしめるレトルトカレーが出来上がり、で僕たちはそんな「咲」を手早くお皿に盛って3分以内に美味しく頂く、みたいな感じです。美味しいんだけど、量的に少ないんじゃないか……って。


(『咲』の面白さは、やはり作者の人柄に拠るものも大きいと思いました。つまり作者の捻くれていない善人そうな感性……。そして同人漫画家が喜んで同人漫画を描いているときの感性をいまだよく残しているような、作者のキャラクター愛。
 このキャラクター愛というのはいわば「萌え」という「記号」を愛する精神でもあり、「記号」を愛するという点において作者と読者は一体化できる……。すなわち作者が読者であり、読者が作者である関係が、当然「萌え」漫画の『咲』にもよく見られるような感じなのです。
 『咲』の変人だらけのキャラクターに違和感がないのは、作者が読者と共有できるような「記号」を頑張って描いているからで、そういう意味で、本当に萌えとかの記号って大事だなって思いました)


 そんなわけで、「あの嶺に咲く花になりたい……」と主人公(咲)が呟きながらリンシャンカイホウを2連続で上がって皆が「馬鹿な、ありえない!!」とびびりまくったり、「私は人間じゃない」とか「この有象無象めらが! 死して償え」みたいな不思議なことを言ってるロリキャラがハイテーツモを3回連続で上がって皆が恐怖におののいていたり、まさしくどこかのSS板に投稿されてそうな異常な麻雀漫画なのですけれど、とにかくその主人公最強系の異様な雰囲気が面白いので不思議です。

 咲の天運とロリキャラの天運、どっちが強いんでしょうかって素直に気になる感じですね。バキとピクルどっちが強いのか素直に気になるのと同じ感情といえばわかりやすいんじゃないでしょうか!
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