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福沢祐巳と藤堂志摩子の再会

マリみてSS「怒れる祐巳の孤独」


「ごきげんよう、祐巳さん」

 数年ぶりに再会した志摩子さんの声音は、高校時代のように柔らかで、また優しかった。
 だけど、どこか以前より悲しげだった。……何か大きなものに対峙し、それに自分自身が勝利しえぬことを悟ってしまった人間の儚い悲しみが、志摩子さんの声には確かにあったのだ。だから祐巳は無理やり笑って、自分の心情を打ち消した。
 祐巳もまたそれを経験した人間だった。祐巳もまた、今、自分自身の思考が祥子さまのそれに追いつけないということ、あるいは自分自身の感情が祥子さまのそれに追いつけないということ、そしてだからこそ神様がほど遠くみえるということに、疲れていた。

「ご、ごきげんよう、志摩子さん」

 祐巳はちょっと俯いて、手元のレモンスカッシュをいじりながら言った。

「ええ、祐巳さん。お体のほうは、どう? 変わりない?」

 志摩子さんは行儀よくグラスを両手でもち、細いストローに口をつけ、オレンジジュースを軽く吸った。

(ちょうちょみたい)

 祐巳は感心して志摩子さんの口元をみた。祐巳には志摩子さんの唇がすごく均整のとれたものであるように思えた。それでふと自分の唇を触った。――


 今、このリリアン女子大学でひそかに運営されている喫茶室には、志摩子さんと祐巳の2人しかいなかった。普通大学職員が利用するところなので、学生が来ることはめったにない。別に学生が利用してはならないという規定はないので、祐巳はよくここに1人でやってきた。
 頼むのはいつもレモンスカッシュ。そしてその酸っぱ甘い糖分を脳に送りながら聖書を読むのだ。長い長い旧約聖書という坂を2章、詩篇を1篇、そして大好きな新約聖書を飽きるまで。
 そして時々、聖書と同じくらい大好きな、祥子さまのことを考える。もちろん他の面々、近ごろ聖研部室に入り浸るようになった乃梨子ちゃんのこと、文句を言いながらも素直に働く瞳子、今はもうあまり会わなくなってしまった由乃さんや志摩子さんのことを考えながら……。


 庭に面した大窓から猫が見えた。花壇の陰に隠れて、尻尾をゆらゆら揺らしている。
 志摩子さんが少し立ち上がって猫の姿を視界に捉えようとする。しばらくして合点がいったのか

「ふふ」

 と薄く笑って、志摩子さんは眼を優しそうに細めた。やがて腰を下ろすと、祐巳を真正面にみて言う。

「猫を見ると、ゴロンタを思い出すわ」
「あ、懐かしいね、ゴロンタ」
「その子もね、今、ゴロンタみたいに、人から与えられたものをむしゃむしゃ食べてるの」
「……『人から与えられた』っていえば、確か聖さま、志摩子さんに注意したんだよね。野良猫に餌をやっちゃいけないって」
「そう。思えば……。そうだったの、あのときから、私はもうわかっていたの」
「……。ゴロンタ、今どうしてるかなあ……」

 話の流れから、祐巳は当然、

「何がわかってたの?」

 と言おうとしたのだけれど、やめた。分かりきったことだったからだ。志摩子さんは、キリスト教は人から与えられたものだと言いたいのだろう……。そしてもしかしたら、仏教も、その人生も、生きていくということがそもそも……。
 志摩子さんの寂しい声音が絶望というものを感じさせて、祐巳は死の匂いを感じ取った。と同時に、

(やっぱり、志摩子さんが最初か)

 とも思った。山百合会に自殺する人間がもしいるならば、志摩子さんが最初だろう、そして自分が2番目だろう、と昔から祐巳はよくよく思っていた。


 奥のキッチンで食器を洗浄する音がよく聞こえた。ごお、ごお、と洗濯機みたいな音がしている。あるいは水を冷やしている機械の、ブーン、という低周波の音。
 祐巳が何を話そうか思案していると、ゆっくりと首をめぐらして、志摩子さんがまた猫に眼をやった。祐巳も一緒にそっちのほうを見てみた。でも、もう猫はいなかった。小さい猫だったから、花壇の草むらに紛れているのかもしれない。

 そのとき、喫茶室の入り口にとりつけられた小さな鈴が、チリンチリンと控えめに鳴った。入ってきたのは乃梨子ちゃんだった。今日志摩子さんを呼んだのは、祐巳ではなく乃梨子ちゃんだった。
 乃梨子ちゃんの姿を視界に入れたとき、志摩子さんは本当に優しそうな笑みを浮かべた。数年ぶりに再会する妹の姿……。志摩子さんは聖母マリアみたいな、静かで慈愛たっぷりの笑みを浮かべて、抑えきれないように右手を上げた。

「――乃梨子!」

 その小さな悲鳴を、祐巳は聞いた。

「あ。志摩子さん! 久しぶり!」

 乃梨子ちゃんは遠くで大声を上げた。急いで食券を買って、喫茶室のおばちゃんに食券を出した。おばちゃんは、

「あら乃梨子ちゃん。今日はコーラじゃないんだね」

 と祐巳たちにも聞こえるぐらいの大声で言った。
 乃梨子ちゃんは一瞬うろたえ、顔を赤らめる。そして

「今日は大人になるべき日なんです」

 そう言って、祐巳たちの席にやってきた。


 最初、乃梨子ちゃんは近況をまくしたてた。聖書研究会に入ったこと、祐巳さまや祥子さまが大人っぽくなっていて驚いたこと、瞳子は相変わらずであること、読んだ本のこと、授業のこと、新しくできた友達のこと。
 志摩子さんはそれら全てを

「そうなのね。ああ……それはよかったわ」

 と母が幼児に向けるような笑みを浮かべて、うなずいて、聞き入っていた。
 一方祐巳は乃梨子の話を聞き流しながら、志摩子さんの表情だけを食い入るように見つめていた。志摩子さんの内なる激情、憤怒というものを、絶対に見逃してなるものか、と祐巳はこのとき思った。志摩子さんを捉えるのは、志摩子さんの内面的真実を知るのは、今このとき以外ありえない、と祐巳は思っていた。

 しばらくして、おばちゃんが、

「コーヒーの方」

 乃梨子ちゃんに向かって声を張り上げる。その声に、乃梨子ちゃんはびっくりしたように飛び上がり、照れたように笑う、「あ、私です、私ですよね」……当然のことをさも自慢げに言う姿に、志摩子さんはより深く微笑し、祐巳は声を出して笑った。
 志摩子さんと祐巳はそのとき一瞬視線を交わしあい、そしてお互い許しあうように、ぎこちなくではあるけれど、さっきよりもずっと自然に微笑みあった。祐巳は高校時代のようにアハハと口を隠さずに笑い、志摩子さんも昔みたいに、クスクスとくすぐったそうに……。


 コーヒーを取りに乃梨子ちゃんが席を立った瞬間、祐巳は切り出すことにした。

「存在論的に、志摩子さんは神をどう思う?」
「神はいるけれど、それがキリスト教的三位一体の神であるかどうかは、私にはわからないわ」

 祐巳の質問を予期していたかのように、志摩子さんは即答した。祐巳も志摩子さんの言葉をすでに推測していたので、すばやく切り返す。
 今許されている時間は、乃梨子ちゃんがコーヒーを持って帰ってくる時間だけだった。あと1分もないのだから、祐巳も志摩子さんも真剣だった。アチチ、という乃梨子ちゃんの声と、おばちゃんの笑い声が聞こえる。

「仏教に神様っているの?」
「いえ、いないわ。仏しかいないわ」
「じゃあ、志摩子さんの宗教感情は、仏教よりもキリスト教に近いのかな」
「結局、そうなのかもしれない。ただ、私は耐えられなかったの。教義云々うるさく言われることに、耐えられなかったの。意味なんてないって思わざるをえなかった。教理問答なんて後付けのこじ付けで空虚だし、あとから論理をすえることと、そしてその論理を守ることに、私は耐えられなかったの」
「志摩子さんは、今、何を求めているの?」
「何も……」
「何も? 本当に?」
「ええ、何も……」

「お待たせしました。何深刻な話してるんですか? 私も混ぜてくださいよ!」

 コーヒーをゆっくり慎重に置きながら、でも声だけは相変わらず元気なままの乃梨子ちゃんをみて、祐巳は微笑んで言った。

「なんでもないよ」

 志摩子さんも、

「もう終わったから」

 と一緒に微笑んだ。

「もう、ほんとですか〜? 私、たぶんお二人よりモトの頭ならいいんですよ。私だって議論についていけますよ! 最近、聖書だって読んでますし!」
「ううん、もうほんとに終わったんだよ。ほんとに」
「ええ、乃梨子。終わったのよ」

 ふふふ、と祐巳と志摩子さんは笑いあった。自分たちの会話を議論であると認識していることが、乃梨子の幼さを証明しているように、2人は思った。
 祐巳と志摩子さんにとって、宗教的話題は議論ではなく、話し合いだった。あるいは赦し合いだった。慰め合いだった。
 自分自身、大きな何か、論理では到底はかりえない何かに打ち負かされたことのある――神の愛とその恵みを自分の言葉で論理的に説明しようとして、そして万人をして納得させようとして、それが自分自身不可能であると「思ってしまった」ことのある人間の、悲しい諦観だった。

「そういえば、祐巳さん」

 と乃梨子ちゃんがにこにこして祐巳に向き合う。膝をただし、珍しく履いてきたスカートの裾をすこし握り締め、乃梨子ちゃんは言った。

「私、洗礼を受けたいです! 祐巳さんや、祥子さまや、聖研の皆さんみたいに、私も洗礼にあずかりたいです!」

 祐巳はどきりとした。血液がすべて逆流するのを感じ、顔が真っ赤になるのを感じた。だから、その言葉にはこたえずに、志摩子さんを反射的にみた。志摩子さんの顔を……そう、志摩子さんの表情を見るために、祐巳は本気で焦って、すばやく、見たのだ。
 志摩子さんは氷のように固まって、じいっと乃梨子ちゃんの横顔を凝視していた。そして祐巳の視線を顔に感じると、祐巳のほうにも視線を送った。
 その表情は、真正面から視線を交差させて見ると、やっぱり人形のように冷たく、怖いものだった。でも、それから徐々に、1、2秒経って解れていき、苦笑に変わり、そして志摩子さんはおかしそうに首をかしげた。そしてその数秒後に、志摩子さんは苦笑を苦渋に変えて、手で顔を覆い、声を押し殺して、震えながら泣き始めた。

「乃梨子ちゃん、あなたはまず、教会に行かないと」

 乃梨子が志摩子さんのほうを向かないよう、祐巳はとっさに呟いた。

「はい! 祐巳さんと祥子さまが通われている教会ってどこなんですか? 私も行きたいです」
「うん……今はね、大学の近くの……○×教会に通っててね」
「ああ、どこかで聞いたことがあります。やっぱり聖研の方々はみんなそちらに通われているんですか?」
「……そんなことないよ。カトリックとプロテスタントがいるからね」
「祐巳さんはどっちなんですか?」
「私と祥子さまはプロテスタントだよ……。それなのに、カトリック学校に通っているって、なんかすごいよね……」

 志摩子さんの震えと、かすかな、悲痛な、悲嘆の嗚咽は治まらなかった。だから、祐巳はもう限界だと思って、斜めとなりに座っていた乃梨子ちゃんの肩をそっと触れた。
 乃梨子ちゃんは不思議そうな顔で祐巳を見たけれど、やっと志摩子さんが泣いていることに気づいて、呆然とした。びっくりしたような顔で志摩子さんを見て、つづいて、しまったという顔をして眉をひそめ、そして祐巳を見た。最後にもう一度志摩子さんに視線を送り、そのままの姿勢で、蝋人形みたいになって乃梨子ちゃんも固まってしまった。

「志摩子さん」

 大分経ってから震える声で乃梨子ちゃんが言った。
 志摩子さんは手で顔を覆っていて、そして華奢な肩と背筋を震わせて、どんどん激しくなっていく嗚咽と動悸に自分自身おさえられないように、身を縮めていた。

「志摩子さん」

 もう一度、同じ震える声で乃梨子ちゃんが言うと、志摩子さんは首だけ縦に振った。ふわりと、緩いウェーブを描いて茶色い髪が上下した。

「私、教会に行くね」
「乃梨子ちゃん」

 祐巳は自分でも思いがけず、乃梨子ちゃんを制止していた。

「教会に行くことなんて、なんでもないに決まってるよ、志摩子さん。祐巳さんも志摩子さんも、もっと自分自身をもとうよ。私は、この眼で教会を見たいし、そして洗礼をうけて皆みたいなクリスチャンになりたいと思ってるの。でも、それだから何? そんなに、大きなことなの? 私はただ、自分自身でキリスト教思想、キリスト教倫理を得ようと決断してるだけだよ、志摩子さん」

「乃梨子ちゃんッッ!!!」

 祐巳は叫んだ。そして立ち上がって、憤怒の形相で乃梨子ちゃんをにらみつけた。祐巳は何に対してか分からない悲しみに胸がえぐられて、唇と頬がぴくぴく痙攣してしまって、それだから祐巳はオレンジジュースを飲んでいた、ちょうちょみたいな志摩子さんの唇をふと思い出した。
 乃梨子ちゃんは、もしかしたら恐怖のあまり、祐巳と志摩子さんを傷つけることの恐れで、今にも泣きそうだった。眼を真っ赤にさせて、でも震える声でなおも祐巳に対して、志摩子さんに対して言い募った。

「教会に行くなんてこと、たいしたことじゃない。洗礼を受けるなんて、たいしたことじゃない。祐巳さんも志摩子さんもさ、二人とも勘違いしてるよ。人間はそんなに馬鹿じゃないし、そうあってはならない!! 選び取らなければいけない!!」

 祐巳が全身に力が漲るのを感じ、どうすればいいか分からぬまま震える乃梨子ちゃんをにらみつけていると、ふと、志摩子さんが顔を上げて、

「よかったわね、乃梨子……」

 と涙にぬれた顔でさっきみたいに、幼子を見つめる母親のように微笑んだ。

「ほんとうに、よかったわね……」

 喉を詰まらせながら、志摩子さんが再度再度言う。

「うん……まあ……そうだね……」


 祐巳はその場を退席した。
 最後にチラリと2人に振り返ると、2人とも緊張が解れたように微笑みあって、ただ愛する姉妹のように、かつての、ロザリオでつながれていた姉妹であったときのように微笑みあっているだけだった。  祐巳は胸が痛くなり、がんがん耳鳴りがして、頭がしめつけられた。そして心の中で、神様、私だけが未熟です、と言った。
 チリンチリンという静かな鈴の音と一緒に祐巳は喫茶室から出た。玄関に出ると、猫が祐巳の足元を通り過ぎた。さっきの猫。

「ゴロンタ」

 祐巳は猫の前でしゃがんだ。

「ゴロンタ」

 そう呼んでみると、猫はそれに応じて祐巳の足元に頬をこすり始めた。祐巳は猫が自分から離れようとするまで、その頭を撫でつづけた。
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