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権力を獲得しつつある祐巳のカリスマ

マリみてSS「宣べ伝えよ、福沢祐巳」


「聖書的価値観を、どうしてそんなに声高に言うのかって? 乃梨子ちゃん」
「はい、祐巳さま……祐巳さまだってわかっておられるはずです。どんなに声を大にして御言葉を述べ伝えても、決してノンクリスチャンは理解できないと」
「確かにそのとおりだね。確かに」
 祐巳さまはおもむろにうなずいた。窓を背にした祐巳さまの顔は、朝の真っ白な光でよく見えなかった。祐巳さまは少しのあいだ手を顔の前で組み、しばらく考えてから書類に手をつけた。
「こうしたほうがいいかな?」
 大学の授業がはじまるまでまだ1時間はある。こんな朝早くから、祐巳さまはKGK夏季合宿のポスターをデザインしていた。ノートに描かれたそれをこわごわと私にみせ、祐巳さまは照れくさそうに微笑んだ。

 祐巳さまは、いつごろか高校時代のような幼い髪型をやめていた。長くつややかな髪は祐巳さまの華奢な背中に流れ落ちていて、私はその姿に仏教大学に進学した志摩子さんをみる。内に秘めた志摩子さんの激しい気性と、その激情を覆い隠す穏やかな微笑を……。
 だいぶ長い間、私は志摩子さんに会っていない。志摩子さんを思い出させるものは、彼女が私に託したロザリオだけだった。私はそのロザリオを次代に譲ることなく――そう。つまり妹をつくることなくリリアン高等部を卒業し、順当にリリアン女子大学文学部に進学した。
 2年生になった祐巳さま、3年生になった祥子さまは、どこからどうみても大人そのものにしか見えなかった。私には、お二人がまぶしく輝いてみえた。入学当初はなんだか気後れしてしまって、彼女たちにばったり出くわさないよう、慎重に構内を歩いたものだ。

 祐巳さまがキリスト者学生会、通称「KGK」に入会してから半年が経つ。祥子さまの母教会で洗礼を受けてから、祐巳さまは精力的に奉仕活動に励んだらしい。今では聖書研究会を牽引するほどのリーダーシップをとっているようだった。
「あの子の成長は、私を超えるわ」
 祥子さまがうれしそうに祐巳さまの霊的成長を口にするのを、以前私は一度だけ聞いた。そのとき、一緒にいた瞳子は悔しそうに唇をかみしめていた。それをみて、私は
(確かに瞳子の内面的成長は遅れている)
 と思ったものだった。
 ちなみに瞳子はまだ洗礼を受けていないので、KGKには入会していない。だけど、祥子さまが会長を務める聖書研究会にはかならず顔を出すようにしているらしい。祥子さまに祐巳さま、瞳子、そしてたまに遊びにくる私……いつかの山百合会のような雰囲気がそこにはあった。

「はっきりいってね、乃梨子ちゃん」
「はい?」
 作業を中断し、祐巳さまがいきなり話を振ってくる。
 私は授業以外にはじめて手に触れる聖書をパタンと閉じ、祐巳さまをみた。祐巳さまはいつもと同じように微笑している。高校時代にみせていた、あのひょうきんな百面相は、どこかに消えてしまっていた。
(志摩子さん……)
 その微笑は、志摩子さんのものだったはずなのに。
「すべては相対的な価値――という観念があったとき、わたしの信じる価値はなんなのか、と思うときがあるの」
「はあ……」
「わたしもかつてお姉さまに反発したわ。なぜ、お姉さまはそれほどまでに狭量になったのですかって。中立から外れる、つまり何かの思想を支持するということは、差別を生むんじゃないですかって」
「……」
「でも違うの。違うのよ乃梨子ちゃん。本当に、真実真剣に信じたとき、決してそんな……差別などの負の観念は生じないし、生じるはずもないの」
 祐巳さまは笑っていた。朝日を背にうけ、すがすがしく、朗らかに笑っていた。恐ろしい、と私は思った。
「祐巳さま。その台詞、まるで狂信者みたいですよ」
「あはは、そうかもね。でもね、何かを個人が真剣に信じるとき、その信じるものに悪罪が混入しているわけがない。すくなくともその個人にとって、ほんのわずかでも悪罪が混入していたら、その人はきっと本気には信じられない。つまり……私はかぎりなく真実に近い『善』を信仰しているのよ」
「それは『祐巳さん』だけの善じゃないですか。きっとそういう狂信的な人たちが虐殺とかしてきたんですよ」
 思い出したように、私は祐巳さまのことを「祐巳さん」と呼んでいた。大学に入ってから、みんなの前では「祐巳さん」と呼んでいたのだ。それが自然だと思って……。
「事実、キリスト教はいっぱい悪いことしてきたじゃないですか。そもそもイエスの復活とか捏造なんじゃないですか? そういうのは、どう処理されるんですか、祐巳さんのなかで」
「あはは。乃梨子ちゃん。信仰っていうのはね……」

「あら、ごきげんよう。早いのね、二人とも」
 そのとき、少し眠そうな顔をした祥子さまが部室に入ってきた。上品で、大人の格好だった。私は自分のカジュアルな服装をみて、なんて子供っぽいんだって思った。
「おはようございます、お姉さま」
「ええ、おはよう、祐巳。そうそう、あなたの顔をみて思い出したわ。いきなりで申し訳ないんだけど――4年の田中さんがぜひあなたにお手伝いしてもらいたいって。なんだったかしら、たしかお知り合いの短大生が学内に聖研を発足させるらしいの。それでね、最初の聖研で祈りを導いてほしいって」
「あ、なるほど。そうなると以前と同じメッセージを使いまわせますね。田中さんもちゃっかりしてますね」

 私をおいて、お二人でなんだか凄い話をはじめる。ほんと、私は置いてけぼりだ。もってきておいたルービックキューブをいじり、しばらく時間を忘れることにする。
 お二人の会話はよどみなく進み、そして祐巳さんが自分の描いたポスターのデザインを祥子さまに見せる。祥子さまは1分ぐらい沈黙したあと、
「あなた。これで来たいと誰が思うの?」
 と鋭い言葉を浴びせる。祐巳さまは厳しい口調にもめげず、
「それならここを……こうやって、こう……変えましょうか」
 と何か描きながら言っている。
 私はみんなそれをうつむきながら、耳をそばだてて聞くだけ。ルービックキューブって意外に難しい。……

「乃梨子ちゃん、信仰ってね?」
 気がつくと、私は机のうえで寝てしまっていた。ルービックキューブは、マイナスドライバーを差し込んで分解してしまっていた。
 机の上にはルービックキューブのピースがばらばらと散っていて、その隣にあたたかなココアが置かれている。私のために祐巳さまがいれてくれたらしい。
「いかなるものであれ、悪を生むものは決して信仰にあらず。信仰とはすなわち全人間の救済なり」
 祐巳さまのうしろで、祥子さまが微笑して言った。
「信仰ってね、教義はほとんど関係ないと思うの、乃梨子ちゃん。乃梨子ちゃんも、いい人だから、何かの信仰もってると思うよ」
 私はココアをひとつすすり、そしてルービックキューブの残骸をばらばらとカバンに突っ込んだ。
「私はどちらかというと、仏教徒ですから」
 あはは、そうだねと祐巳さまが笑い、乃梨子はそっちのほうが似合ってるわね、と祥子さまがまじめそうに言った。私は志摩子さんを思い出した。そして……私は……。
「わたしたちが聖書的価値観を高らかにうたうのはね、神さまを信じているからだよ。そして神さまがわたしたちを愛してくださっていると、信じているからだよ」
「そうね」
 満足そうに、祥子さまがうなずく。
「……じゃあ聖書的じゃない私はクリスチャンになれませんね」
 立ち上がり、祐巳さまを見据えて私は言った。
「あはは、乃梨子ちゃんは充分聖書的だよ。つまり、いい人だよ」
「……」
 私は志摩子さんを思い出した。彼女はなぜ、仏教にかえったのだろう。その徹底的な無常観ゆえだろうか、その血筋ゆえだろうか、その軋轢ゆえだろうか……。
 私は聖研が貸し出している聖書を無造作にカバンにつめこみ、代わりにカバンに入っていた歎異抄を机にどかんと、少し乱暴に置く。お二人の視線が一瞬その本に釘付けになり――
「これ、貸してあげます」
 そう言って、私は視線も合わせずにそそくさと退室した。後ろ手にドアを閉めるとき、ありがとうね、乃梨子ちゃん、とドアの隙間から小さな声が聞こえてきた。
「ごきげんよう、乃梨子」
 張りのある祥子さまの声も、私の耳に小さく届いた。……

 心のなかは複雑だったけれど、私はなぜか興奮していた。
 朝――けだるそうに歩く学生とすれ違いながら、私は次第に足を速める。いつしか我慢できなくなり、最後には走っていた。外に出て、講義をすっぽかし、風を切って、アパートまで帰る。

 私はきっと、いいことをしたのだ……。ねえ、志摩子さん。

 これから手紙を書くよ、志摩子さん!
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