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聖書の無謬性について

--聖書研究会における小笠原祥子の発言、議事録。


今日の聖研議題
「聖書の無謬性に関するわたしたちの態度」




小笠原祥子さんの発言



 聖書の無謬性について取るべき道はわたくしにとって2つあります。
 1つ目は無謬性を認めずに、聖書の記述には明らかな論理的矛盾や歴史的矛盾があることを主張すること。処女降誕などの奇跡に関しては「ありうる」「ありえない」と二元論的な考察しかできませんので、その点は考慮せずに、ただ論理において矛盾を発見し、聖書の無謬性を弾劾するという立場です。

 2つ目はその論理の矛盾をも聖書の無謬性の範囲のうちに組み込んでしまおうという姿勢……。たとえば聖書には重複する物語が多くありますが、その物語の詳細は作者によってまちまちであることは皆さんも承知していると思います。福音書においても、4つのうちどの福音書がもっとも正しい内容を記述しているかは……おそらく一番はじめに書かれたマルコによる福音書が最も事実に近いと推量することはできますが、はっきりとは断言できません。

 しかし、聖書の言葉が誤りなきものであると主張するのならば……その同じ場面を描いているにも関わらず詳細が異なるそれぞれの福音書……それらすべてが正しいものとなるはずで、明らかな矛盾が生じます。
 では、その矛盾とはどういう矛盾でしょうか。すなわち「事実」において矛盾すると。歴史的事実は本来ひとつしか存在しません。ですから、その歴史的「事実」において、4つの福音書のうちのどれか1つが正しい記述をしていて、どれか3つが間違った記述をしていることになります。あるいは全て虚偽か……。そう、「事実」において聖書は決して無謬性を有しえないのです。

 聖書の無謬性を信じる2つ目の姿勢とは、こういうことです。聖書の言葉を「事実」としてみるのではなく、「教え」「観念」としてみるのならば、あるいは無謬性を保持することができるのではないか、と。
 わたくしはこの立場を選択したいと考えています。



(クリスチャンAさんによる質問)
それだと使徒信条をわれわれは放棄するということですか?
→キリストが処女マリアより生まれたこと、死から三日後に生き返ったことを「事実」として信仰する使徒信条をどう捉えるべきか。

(ノンクリスチャンBさんによる質問)
聖書の「事実」に矛盾があり、そのため事実における「無謬性」を聖書は獲得しえないというのはわかりましたが、聖書の「教え」に無謬性をみとめようとする小笠原さんの立場も危険ではないでしょうか? 原理主義的といいますか…



Aさんに対する小笠原さんの答え
使徒信条とはどういうものか


 はい、わたくしにとって使徒信条とは……もちろん最も価値を置くべき信仰告白だと断言できるものです。使徒信条を信仰しないクリスチャンは、イエスの奇跡と再臨を認めないという意味で、クリスチャンの持つべき「万人救済」を願う心を抱いていないともいえると思います。使徒信条を信じえなくなったとき、私たちは真に信仰を喪失し、棄教するに至るでしょう。

 そしてわたくしは使徒信条の信仰と、聖書を「事実」において誤りあるものと認めることは対立しないと考えています。先ほども申しましたが、処女降誕やイエスの奇跡に関する聖書の記述は、「ありうる」「ありえない」の二元論的解釈しかわたくしたちには出来ません。
 もちろん一般的な科学知識をもっている現代人にとって、それらの奇跡はほとんど事実に等しいという意味での「ありえない」ですけれど、わたくしたちはそれでも「ありうる」と言うことはできます。神という存在がいるのならば可能だと。つまり、神を信じる信じないによって「ありうる」「ありえない」に分かれるのだと思います…。

 使徒信条の告白とは、まさしく「神を信じる」と告白するものであり、奇跡を認めると告白するものなのです。そして奇跡に関して聖書は矛盾する要素をもちません。つまり、聖書の「論理矛盾」や「事実矛盾」を指摘することが、使徒信条をないがしろにするものではないのです。
 わたくしは、神様が重要視するのは「事実」ではなくそこにある「教え」だと考えます。



Bさんに対する小笠原さんの答え
聖書の教えを誤りないものとすることの危険性について


 聖書の教えは同性愛者を非難し、中絶を禁止しています。つまりBさんが言われていることは、こうした――あるいは差別的ともいえる教えを神の絶対的な言葉として信仰することの危険性……ということで構いませんか。

 (→Bさん同意)

 わたくしは、正直なところ、神と人間は一対一の関係であることが望ましいと考えています。カトリックとプロテスタントの教義の違い、プロテスタント諸派の教義の違い、これらの違いは……確かに組織に属する一教会員にとって重大ですけれども、教会員という肩書きを取り去ったとき、一個の人間にとって重大ではありません。

 神の言葉は人によって教えられるものなのでしょうか、人によって説得させられるものなのでしょうか。いいえ違います。聖書に「教え」としての無謬性を認めるからこそ、わたくしは決して人によってその「教え」を賜ろうとは考えておりません。なぜならば、自分が疑問を抱く教えを強制されることが……果たして神の「教え」を無謬なるものとわたくしの中で信じる根拠とはなりえないからです。
 無謬なるものと認められる「教え」は、わたくしがそう信じているからであり、他者がそう信じているからではありません。

 ……わたくしは、聖書の私的解釈を認めたいと思っているのです。真に大事なのは全てのキリスト教諸派が告白する使徒信条における教義であり、それ以外の教義は……私的解釈が許されると考えます。
 はじめに具体例として挙げました同性愛者の非難、中絶の禁止などについて言及する聖書の記述は、時代によっては確かな真理ですが、今の時代においてはその文言を別なふうに解釈する必要が迫られていると「わたくしは」考えます。

 何度も申し上げますが、もっとも大事なのは使徒信条であり、そして神と自分との一対一の関係です。
 わたくしが同性愛者を擁護すると言っても、それはわたくしと神との一対一の関係においてそう信ずるというのであって、わたくしの意見が聖書の真理であるとは言えません。あくまでも、わたくしが…精神と心と力を尽くして神と対話した結果、と言うべき「教え」なのです。
 少なくともクリスチャンは、神と自分の一対一の関係を信じ、そしてだからこそ人との「聖書理解」の違いに寛容でなければならないと思います。決して他者の聖書理解を攻撃してはならないし、その差異を強調するかのような激しい社会的活動をすべきではないと……。



(Bさんの再質問)
小笠原さんは組織としてのキリスト教を否定するのですね?



小笠原さんの答え


 いえ、決して否定はいたしません。教会の働きは……非常に有益なものです。信仰者同士のつながりは、神の存在とその意思をより確かに感じることのできる貴重なつながりです。教会は信仰を継続・発展させる上で不可欠なものだと考えます。
 わたくしは、教会によって「教え」を強制されること、あるいは教会による「教え」を盲信することがあってはならない、と言いたいのです。もちろん教会の「教え」を否定するわけではありません。わたくしも所属する教会と牧師先生から様々な信仰理解を賜りました。申し上げたいのは、自らの思考を放棄してはいけないということです。

 教会によって「教え」を強制されないためには、盲信しないためには、神と自分との真剣な対話が必要です。確固たる神の愛の理解が必要です。その真剣な対話を行うために、教会による信徒同士のつながりが必要不可欠なのです。



(Bさんの再再質問)

 話は少し戻りますが。小笠原さんの理解では、神は人によって違うことを言われるのですか? あの人にはこういうことを言い、この人にはこういうことを言うと。それは都合がよくないですか?



小笠原さんの答え


 Bさん。神はあなたに何を求めておられると思いますか? 神は……ただあなただけに、きっとあなただけにより良き生命と精神を与えたいと思われているのです。
 神はわたくしたち全人間を罪ある者として大別すると同時に、それと同時に、わたくしたちを個人個人、しっかり見守っていらっしゃるのです。それを忘れてはならないと、わたくしは思います…。



司会


 小笠原さん、ありがとうございました。そうですね……私自身、私的解釈が引き起こす弊害についてあなたよりもっともっと深刻に考えています。小笠原さんは気づいていないみたいですが、私的解釈が許されたとき、聖書の明確な「教え」に明らかに反する価値観を――誰かが「教え」として受け取る可能性があります。たとえば隣人愛などは聖書の明確な「教え」ですが、それに反する価値観を自分勝手に受け取っては……キリスト教の存在意義がなくなってしまうとは思いませんか?
 まあ、時間もないので今日はこの辺で終わりにしましょう! 次回は……そうですね、えっと小笠原さんの後輩が入ってくるらしいから、それの歓迎会でもやりましょうか!
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