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クリスチャンの良心について

--今春ミッション系大学に入学した1年生福沢祐巳と、同じ大学の2年生、小笠原祥子による対談の録音。

「欺瞞にみちたクリスチャンの良心とは」



ユミ
 はい、ちゃんと鍵は閉めました。

祥子
 そう……それならいいわ。誰にも聞かれたくないから。

ユミ
 なぜですか? お姉さまは今この瞬間に転向でもされるのですか? それとも、自分の良心を裏切るおつもりなのですか。

祥子
 ……

ユミ
 ……

祥子
 あなたはほんとうにまだ幼いのね。自分の思考が自分の立場を決定するのではないのよ。あなたも大学生になったのだから、それぐらいもうわきまえて頂戴。

ユミ
 おっしゃる意味がわかりません。

祥子
 フフフ

ユミ
 (苦笑)

祥子
 ユミったら……。あなたの立場はあなたの発言によって決定されるのよ。そして自らの思想的・政治的・学問的立場を限定してしまうことの恐ろしさを、あなたもそのうち理解するわ。

ユミ
 だけれど、お姉さまは確か高校時代、中立こそ尊いと言われてはなかったでしょうか。自らの加害者たる性質、被害者たる性質を究極の意味で悟るものは、全ての暴力に沈黙し、全ての被害に沈黙し、ただ微笑して中立に立つべしと……

祥子
 そう言ったときも確かにあったわね……。だけどね、ユミ。似てるのよ……全てに沈黙し、全てに微笑することと、クリスチャンの良心と嘆きはね……。

ユミ
 (机を叩く音)どういうことですか! それはどういうことですか! 志摩子さんはクリスチャンと仏教徒という二足のわらじを履く自分に嫌気が差し、リリアンを退学しました。あのときも……毎日拝んでいたマリア像を一瞥もせずに校門から立ち去るとき、志摩子さんは微笑していたはずです!! 何が、何が……!!

祥子
 落ち着きなさい、ユミ。

ユミ
 お姉さま、どうしても納得できません! わたし……!(何かの割れる音)

祥子
 そうよ、そうよユミ。そのティーカップみたいに、あなたの価値観を破壊なさい。あなたの凝り固まった、真理は自分の側にあるという傲慢な価値観を破壊なさい。

ユミ
 お姉さまは本当に偽善者です。(泣き声)

祥子
 興味深い意見だけれど、今はその意見を掘り下げるときではないわ。


〜一時間経過〜


祥子
 あら、何の話をしていたのかしら?

ユミ
 お姉さまがチワワにいまだかつてない暴力性を見て以降、チワワの無邪気な様子が何か人間の原初の本能――すなわち暴力性の根源とでもいうべき無邪気な嗜虐心と連動して見えはじめた、というところです。

祥子
 そう……私ったらそんなことを。ごめんなさいね、ユミ。話が脱線してしまって。

ユミ
 ……いえ。それでお姉さま。問題は全てに沈黙し全てに中立すべしといった精神と、クリスチャンの良心の関係です。ある思想的一派に立つということは、全てに沈黙することを不可能にしませんか。

祥子
 そうね。確かにそうだわ。

ユミ
 では、クリスチャンの良心と、お姉さまがかつて取っていた沈黙すべしという姿勢は似ているにすぎないのであって、同じものではないと。

祥子
 ……。ユミ、あなた、飢えたらどうする?

ユミ
 食事をします。

祥子
 食べ物がなかったら、どうする?

ユミ
 探します。

祥子
 食べ物がどこにもない場合はどうする?

ユミ
 飢え死にします。

祥子
 そうよね……やっぱりそうよね……。

ユミ
 祥子さま……?

祥子
 では、ユミ。あなた、考えなさい、そして選択しなさい。見知らぬ人間が目の前で食事をとっていたら、飢餓の極限状態にあるあなたはどうする?

ユミ
 わけてくれるよう懇願します。

祥子
 それでわけてくれなかったら?

ユミ
 ひどい人です。

祥子
 ほんとう、ひどい人ね……。で、どうするの?

ユミ
 ……(言いよどんで)飢え死にすることを選択します。

祥子
 素晴らしいわ! それよ、ユミ。それなのよ!! 暴力を振るう者に右の頬をぶたれたら左の頬を差し出し、強盗に上着を取られたら下着をも差し出すのがクリスチャン本来の精神なのよ。いい? ユミ。あなた、わかってるのよね。あなたは食事をしている人間から食べ物を奪い取ることが、あなたの良心にとって、また日本的に言うならばあなたの「恥」を感じる部分にとって耐えがたいものだった……。素晴らしいわ……

ユミ
 (息を飲む音)お姉さまもおっしゃいましたが、わたしは単に自分にとっての正義と恥の観念から餓死を選択したにすぎません……。良心とは関係ないように思いますけれど……。わたしはそんなに良い人ではありません。

祥子
 そう…そうよね……。確かに、自分を加害者でもあり被害者でもあると認識する人間にとって、もしかしたら加害者たらんとすることも簡単なことなのかもしれない。だって、言い訳がつくものね。人間は本来加害者・被害者両方の性質を有しているものだから、極限状態に陥ったとき加害者にまわることは別に罪ではない、と。ただ、それによって告発されたとき沈黙して微笑すべしと。

ユミ
 ……

祥子
 フフフ

ユミ
 ……そういうことですか。

祥子
 そうよ、ユミ。良心とはね、厳しいものなのよ。良心とはね、強制しなければ発露しないものなの。あなたはユミ、想像の中ではあなた自身を律しえた。それがあなたの良心よ。あなたが理想とするあなたの良心よ。

ユミ
 はい……わかりました……わたしは、確かにわたしの理想とする良心を抱いています……。

祥子
 それを実行すべきか、実行しなくてもいいものと決断するかはユミ、あなた自身よ。全てに沈黙し、微笑し、中立に立つことができるよう強制するのは、ユミあなた自身が決めることなの。

ユミ
 (椅子から立ち上がる音)欺瞞です、欺瞞です! なぜその思想を強制するための手段がキリスト教なのですか!? ほかに選択肢はあったはずです!!

祥子
 それは……そうね……。良心という他者のための行為をつかさどる心が、キリスト教の根本原理であると認識したから、としか言えないわ……。「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」あなたも知っての通りキリストの言葉だけれど、他者のための行為と精神を重んじる宗教は……わたしにはキリスト教だけだったの……。

ユミ
 欺瞞です……宗教なんて結局は自分が救われたい人たちの、自立していない人たちの慰めです……

祥子
 そうね、そうかもしれない……。でもあなたはユミ。あなたはそういう人たちに何をしたの? なんの政治信条も思想的信条も抱いていない、中立と沈黙をたっとぶあなたは、彼らのために何をしたの?

ユミ
 そういう人たちに出会ったら、優しくします。話を聞いて、力になってあげます。事実、わたしは……

祥子
 ……そうね、あなたもよく頑張っているわ……。でも、それで分かったでしょう……宗教がなぜ自分のためだけでなく、他者のためとも言えるのか…

ユミ
 ……他者のための積極的な姿勢は、ある種の思想的一派に立たない限りもちにくいと……。しかしお姉さま! お姉さま! 強制される良心とその行為は、欺瞞にみちたものとしか言えなくはありませんか!! 何にも束縛されない自由な良心によって他者を救うことこそが、もっとも価値ある良心なのではないですか!?

祥子
 それができるなら、ユミ。あなたはそうしなさい。だけどユミ、そこまで自己を律せる人間の良心もまた、宗教とは別の何者かによって強制されているということも……自覚しなさい!! 重要なのはユミ、あなたがその良心を放置するか実行するかよ。

ユミ
 ………偽善者、お姉さまこそ外見だけ白く塗った、中身の醜悪な墓場そのものです……。

祥子
 ……

ユミ
 ……今日はもう帰ります。由乃さんに先に帰るとお伝えしてください。

祥子
 …そう。

ユミ
 (かばんに何かを閉まっている音)全然わかりません。お姉さまのことが、全然わかりません……本当に、良心という曖昧なものを、宗教によって強制できるとお考えなのですか……? そうお考えでしたら、お姉さま、あなたはなんという空想的な決断を……(ドアを閉める音)


祥子
 ……成長したわね、ユミ。


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