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宗教の意義と宗教における思想的妥当性

--小笠原祥子から、ノンクリスチャンの後輩・福沢祐巳への手紙



(前略)  ねえユミ、私は思うの。宗教は自己自身という一個の人間を救うために存在するものではなく、自分を含めた、あるいは自分を除いた全ての人間を救うために存在するものだと。他者を救うために何が出来るかという疑問こそが宗教の本質であり、自分を救うために宗教に入信するものは結局のところ自分を救ってくれる主体はなんでもいいのよ。お金や奇跡、イエスの再臨待望に阿弥陀さま……本当になんでもいいのよ。

 そう、私たちは誰かを救うためにある宗教を信じているのだし、ある宗教を信じようと決意した。この世に真理なし、とよく言われているけど、真理がないという真理もない。すなわち私たちは決断しなくちゃならないの。無宗教、イスラム教、仏教、キリスト教、マルクス主義、お金、学歴、社会的地位……なんでもいいから、私たちは決断して今を生きている……。

 ねえユミ。……私はこれらの宗教の差はほとんどないと思っています。異端だとかカルトだとか色々あるけど、私は……私はほとんど差異はないって思ってるの。金銭目的の新興宗教は、確かにほかの宗教とは別に考えるべきだと私も思うけど、しかし宗教に差異はないわ。そしてまた差異はなくて当然だとも。
 なんでかって? それはねユミ。さっきも言ったけど、宗教は他者を救うために存在すべきものだからよ。確かに教義によっては自己救済的なところもあるかもしれない……しかしね、しかしある集団が宗教の拡大と発展に尽力する真の意味は、その宗教を信じることによって一人でも多くの人間が救われると考えられているからよ。伝道者はなによりも困っているひとを救うために宣教しなければならないし、事実一般的に言って困っている人間が宗教に入信するのだし、……。そして伝道者はある思想的決断を他者に迫るだけ。神はいないと誓いますか、それとも神はいるんですか? 『あなたは信じますか?』と。

 『あなたは信じますか?』、難しい言葉ね。全てに懐疑的な現代の人間にとって、この言葉ほど恐ろしいものはない。しかしそう問われたとき、人は気づくのよ。決断せねばならないと。神を信じるか信じないか、何を根拠に自分という人間の生命を生かしていくか。『はい、信じます』と言うもよし、『いいえ信じません』と言うもよし。ただ今まで生きていてずっと……思考せずにいた領域が、この世と自分の脳のなかにまだあったということを私たちはその問いによって理解するの。神はいるのかしら、それともいないのかしらね、あなたはどっちを決断するのかしら。

 マルクス主義は神はいないと宣言しているけれど、それは思想的決断であって真理ではない。キリスト教徒は神はいると断言しているけれども、それもまた思想的決断であって真理ではない。思想性……思想として正しいかどうかの正当性はね、ユミ。幻影なの。悲しいけれど、夢や幻みたいなものなの……。  私たちはどちらの宗教がより正しいかなんて不毛な議論をするべきではなく、ただ自己の選択した宗教によって他者を救うことだけを考えなければならない。もちろん、他宗教によって誰かが救われるのも私は歓迎するわ。だって、そうでしょ? だってそうでしょう。キリストを信じない者は地獄へ行くといっても、そう聖書が言ったとしても、私は……私だけはキリストが全ての人間を救ってくれると信じているわ。いかに異端であろうと、私の心はそう信じている。だって宗教とはひとを救うためにあるんだもの……この根本原理が間違っていない限り、私の考えはそれほどおかしくないと思うの。そしてマルクスの考えるユートピアによって人が救われるのなら、私はそれでいい。
(後略)


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