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布教に対する個人的姿勢

--クリスチャン、小笠原祥子(19)の日記から


 信仰とは個人の内面に秘匿されたまさしく私的な真実であり、その真実はやはり私的にしか過ぎない。
 そうであるからこそ、信仰とは行為によって布教するものではなく、精神によって感化するものであり、そしてそれを履き違えたとき私たちは信仰者としての資格を失ってしまうのではないか……。すなわち私的真実の私的であるからこその唯一無二の真実性を、信仰者としての土台とでもいうべきものを、きっと失ってしまうのではないか。

 よく考えるのよ、よく考えるのよ……!
 人は決して信徒を獲得するための布教をしてはならない。自身のなかの真実性を損なわぬよう、信仰者はただ自身のなかのキリストイエスと呼ばれる神を信じ、また伝えるべきではないかしら。
 そして他者の宗教を決して否定してもいけない。これもまた自身のなかの唯一の真実性を損なわないために。他宗教に対する批判と、信徒獲得を目的とした形骸的布教はその本質を同じくしているよう。その人のなかの真実性を他者に強制するとき、それは他者にとって決して真実とはなりえず、ただ規則や教条としての宗教に堕してしまう。
 そう、宗教とは本当に個人のものであり、個人的であるからこそ意味を有し尊い……。

 信仰の継承とは何か、信仰の伝播とは何か。
 それは人の口から発せられた仮初の文言によって為されるものではなく、他者が意欲をもって自ら欲したときに為されるもの。信仰の継承とは、願うものでもなく、祈るものでもなく、行うものでもない。信仰の継承とは生起するものであり、そこに人間の意図はなく、行為はなく、ただ神を介した不可視の紐帯があるのみ。あとで先輩に進言しておかないと……

 意図した布教は歪曲され、その言葉は偽善に相違ありません。私は、ただ私のなかの神を信じます。
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